「あなたの日々を守り導くお方」 一月第三主日礼拝 宣教 2025年1月19日
詩編 23編1〜6節 牧師 河野信一郎
おはようございます。寒い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。今朝もわたしたち一人ひとりがこの礼拝堂に集められ、礼拝者とされている幸いを神に感謝いたします。オンラインで出席されている方々、おはようございます。心から歓迎いたします。
教会総会が先週12日の礼拝後に開かれ、4月から始まります新年度の執事が3名選出されました。主に感謝し、お祈りくださった皆さんに感謝いたします。昨日、24年度と25年度の執事がオンラインで顔を合わせて執事会を開きましたが、その中で新しい年度に向けた準備が始まりました。来週から教会の皆さんにお願いする協力についてアピールをさせていただきますが、教会形成と福音宣教のために、お祈りいただき、教会の業に是非ご参加、ご協力いただきたいと願います。詳細は、本日発行されました月報をお読みください。
わたしも、牧師として取り組まなければならない宿題が色々与えられました。特に、新年度の歩みについて、その方向性を指し示す年間聖句と主題を確定し、執事会へ提案しなければなりません。すでに候補はいくつかありますが、まだ確信的な導きが与えられていません。じっくり祈って神様に求めてゆきたいと思います。皆さんの信仰生活、教会生活においても重要なことですので、お祈りに覚えていただきたいと願います。皆さんが信仰と祈りをもって選出した執事たちの働きのために責任をもって祈り、支えていただきたいと願います。
さて、新年に入って今日が19日目となりましたが、この1月は「良い」という言葉をキーワードに、神様からの語りかけを共に聴いています。わたしたちではなく、神様が「良し」とされ、神様が喜ばれる一年、御心に沿った一年をどのように歩むことが大切かということを申命記とヨハネによる福音書から聴いてきましたが、主なる神様がわたしたちに命じられる戒めと定めと掟を良く守ることによって、神様の目にかなう正しいことを行いなさい。そうすれば、わたしたちは幸いを得ることができると言うことを申命記6章から聴きました。
少し横道にそれますが、神の戒めと定めと掟は、どのようなものであるのかが詩編19編8節から11節にありますので、読んでおきたいと思います。「主の律法は完全で、魂を生き返らせ。主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え。主の戒めは清らかで、目に光を与える。主への畏れは清く、いつまでも続き。主の裁きはまことで、ことごとく正しい。(それらは)金にまさり、多くの純金にまさって望ましく。蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」とあります。悪いものは何一つありません。
神の戒めと定めと掟は、御子イエス・キリストを通してはっきり示されています。ですから、イエス様の言葉に聞き従うことが最も重要であることを学びました。このイエス様が、ヨハネ福音書10章で、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。それによって羊たちが豊かな命を神様から受けるためである」と言われます。イエス様は、わたしたちを罪から救い出すために、ご自身の命を十字架上で捨ててくださったということを先週聴きましたが、今朝は、その良き羊飼い・イエス様は、具体的にわたしたちをどのように日々守り導いてくださるのかということを詩編23編から共に聴いてゆきたいと願っています。余談ですが、メッセージの主題を考えた時、「あなたの一年を守り導くお方」と最初しましたが、日々の積み重ねが一年になりますので、「日々」という言葉に変えました。
さて、この詩編23編は、150ある詩編の中でも信仰者に親しまれている詩編の一つです。最初に「賛歌。ダビデの詩。」とありますが、この詩編23編は、少年の頃、羊飼いであったダビデが自分の人生を振り返る中で、神様と自分の関係性が羊飼いと羊と同じであったと告白しています。つまり神様が羊飼いのように絶えず自分と共にいてくださり、すべての危険から守ってくださり、人生を力強く導いてくださり、豊かに祝福してくださったという神様の真実さを確信し、心から喜び、感謝し、賛美した詩です。この詩編にも「良い」というヘブル語が用いられていますので、最後のほうでそのことも触れたいと思います。
1節に、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」とダビデは断言しています。「主はわたしの羊飼いだ」と力強く宣言しています。ダビデは、「もし主なる神様がわたしの羊飼いであられるならば、わたしには何もかけることがない」とは言っていません。「主がわたしの羊飼いであるから、わたしには何も欠けることがない」と言っています。これがわたしたちにも重要なのです。イエス・キリストを「わたしの羊飼い、救い主」と信じること、「このお方しかわたしの羊飼い、救い主はおられない」と信じることが大切です。「もしかしたら助けてくれるかも、救ってくれるかも」という信仰では祝福されないのです。
羊という動物は、視力が極端に弱いそうですが、聞く力・聴力は極端に良いそうですので、自分だけでは生きてゆけない存在だそうです。ゆえに、いつも群れの中で生きる必要があり、羊飼いの声に聞き従う動物だそうです。この羊が極度に恐れるのは、食糧難と獣の攻撃の二つだそうです。食糧難というのは、食べ物だけでなく、飲み水も含まれます。2節と3節前半に「主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」とありますが、「伴う」とは「導く」ことです。良い羊飼いである神様、イエス様は、わたしたちを青草・食糧のある草原へ絶えず導いて、そこで養ってくださり、霊的飢えを満たしてくださる。また、水のほとりに連れてゆき、そこで水を十分に飲ませ、霊的渇きを潤してくださると自分の過去の経験からダビデは喜びと感謝を謳っているのです。
イエス様は、マタイ福音書11章28節(p21)で、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いてくださいます。まさしく、イエス・キリストが、神様に対して罪を犯し、神様から離れて荒野を彷徨っていたわたしたちを緑の牧場へと導き、そこで休ませ、魂を生き返らせてくださる良い羊飼いなのです。感謝です。
3節後半に、「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。」とダビデは言っていますが、ここにある「主は御名にふさわしく」とは、「主なる神様は真実をもって」という意味です。つまり、真実なるお方が、悪い道へ行きそうなダビデを常に正しい道へ導き続けてくださったと告白しています。この「正しい道」を他の聖書訳では「義の道」と訳していますが、神様のみ許へ導く道へと絶えず、繰り返し戻してくださったという告白です。
わたしたちの人生というのは平坦な道だけではありません。山あり谷あり、紆余曲折の歩みです。右往左往します。神様を疑ったり、忘れたり、不満を口にしたり、心が遠く離れることもあります。サタンからの攻撃です。しかし、憐れみの主が、良い羊飼いが絶えずわたしと共にいて、御言葉をもって励まし、わたしの足が神様の方へ向かうようにいつも軌道修正をしてくださる。その軌道修正のために用いられるのが、4節にある「あなたの鞭、あなたの杖」であり、「それがわたしを力づける」とあります。羊飼いは、野獣から羊を守るために片手に鞭を持ち、もう片手に太くて頑丈な杖を持つ。神様の御言葉、イエス様の御言葉がわたしたちをサタンの執拗な攻撃から守り、力強く前進する力を与えてくださるのです。
ですから、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」とダビデは確信をもって主を賛美するのです。日々様々な試みにあって苦しむわたしたちにこの信仰・確信が必要なので、神様はイエス・キリストという良い羊飼いをこの世に遣わしてくださったのです。この正しい道、義の道を主イエス様と共に歩む者に、救いが与えられ、平安が与えられるのです。イエス様ご自身が、救いへの「道」なのです。
ダビデは、5節で、「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。」と主を賛美しています。おびただしい数の敵が襲って来て周囲を囲んでも、自分は恐れない。ゆっくり食事を楽しめるほどの神様の確かなお護り、力強い保護によって自分は守られているので安全であるから、たとえ目の前に敵がいたとしても恐れないというのです。ダビデは、多くの戦いの中で経験した神様の真実さをここで告白しています。「頭に香油が注がれる」とは、神様に守られていることを喜ぶことを表しています。「杯」は神様の恵みを表します。羊飼いである主に信頼する時に、杯が良いぶどう酒で溢れるかのように、恵みで満たされ、感謝の気持ちで心がいっぱいになるということを表しています。
ダビデは、最後に、6節で、「(わたしの)命のある限り、(主の)恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」と言っています。これは彼が過去に経験したこと、そしてこれから生きてゆく間に経験する神様の恵みと憐れみに対して感謝をささげている言葉です。「神様の恵みと慈しみがいつもわたしを追う」とありますが、この「慈しみ」という言葉がヘブル語で「良い」という言葉になっています。
「いつもわたしを追う」というのは、神様の愛、神様の憐れみという囲いの中へ、神様の保護の中へ追いやられるということです。それは教会へ招かれ、礼拝をおささげすることに通ずることです。皆さんもテレビなどで牧羊犬が羊の群れが囲いの中へ追いやっていく様子をご覧になったことがあるかと思いますが、あの牧羊犬のように、神様の愛が、わたしたちを神様の囲いの中に追い込んでくださり、そこで休ませ、命を食物と水を与え、野獣・サタンから守り続けてくださり、わたしたちを養い育ててくださるのです。その様子を笑顔でご覧になっているイエス様を心に思い描くことができるでしょうか。わたしたちは、イエス・キリストという良い羊飼いによって、神様の許へ絶えず戻され、そこで神様をほめたたえて生きる礼拝者、賛美者、いえ、神様の子とされている幸いな存在なのです。喜びと感謝を主にささげて、日々を歩ませていただきましょう。