「あなたを創造された神の目的と堅い約束」 九月第一主日礼拝 宣教 2025年9月7日
エレミヤ書 1章4〜19節 牧師 河野信一郎
おはようございます。9月に入り、最初の主日の朝を迎えました。今朝もご一緒に礼拝をおささげすることができて感謝です。今月は「教会学校月間」です。大人のクラスは礼拝前にこの礼拝堂で30分間開かれています。今月はヨシュア記に聴きます。この間、教会学校に一回でも参加くださって、その良さを体験していただきたいと願っています。水曜日の祈祷会では、ヨハネによる福音書の学びが始まりました。完走するまでに2年は優に必要と思います。学びの原稿は教会ホームページに掲載しますので、お読みいただければ嬉しいです。
さて、今朝から旧約聖書のエレミヤ書を13回のシリーズで約3ヶ月間聴いてゆきます。このエレミヤ書に記録されていますイスラエルの史実は、今から約2650年前に南ユダ王国がバビロン帝国によって滅ぼされ、エルサレムと神殿が破壊され、多くの国民が捕囚の民としてバビロニアへ連れて行かれたイスラエルにとって暗黒の時代が記されています。そのような古代の出来事が、現代を生きるわたしたちに何の関係があるのかと不思議に思われたり、自分にはまったく関係ないと思われたりするかもしれませんが、答えは正反対です。このエレミヤ書は、今を生きる、いえ神に生かされているわたしたちに大きな関連があるのです。
この書には、南ユダ王国が何故バビロン帝国との戦いに敗れ、50年にわたる捕囚の民となったのかという理由が記されています。400年も続いた王朝時代が終わるのです。衝撃的なことです。例えば、1章から25章の前半までは、ユダとイスラエルに対する神様の裁きの言葉が記されています。神の裁きの理由は、イスラエルの民が神を愛していると見せかけの礼拝を神殿でささげ、しかし神殿を離れた日常生活では偶像礼拝を盛んに行なっていたこと、また当時の国王たちをはじめ、宗教指導者・権力者たちが様々な不正を行い、神様との契約を破ったということに尽きます。25章後半と46章から51章には、ユダとイスラエルの周辺国に対する神の裁きの言葉が記されています。神様に対する背信の罪を犯し続けたからです。
けれども、現代を生きるわたしたちはどうでしょうか。神様の目に適った歩みをしているでしょうか。世界や日本の権力者たちの不正や権力乱用があります。富や快楽を優先させる偶像礼拝があります。また、日々の生活の中で抱く悩みや苦しみ、刻々と移り変わる世界情勢などに心が奪われ、不安と恐れの中に生きていないでしょうか。日曜日毎にわたしたちは教会に戻ってきて、神様の御前で賛美と祈りと献げものをしますが、教会を一歩外に出たら、自分の思いが先立って、都合の良いものを優先させたり、心を楽しませたり、和ませるものに時間やお金を惜しみなく費やしている、そういうものを偶像化してしまっているということはないでしょうか。神様に対して間違ったことは何もしていないでしょうか。
このエレミヤ書は、時の国王であったり、神殿に仕える祭司であったり、民衆に対して耳障りの良いことだけを語って、真実を語らない不届きな預言者たちに対して非常に厳しい神の裁きの言葉が多く記されていますので、わたしたちがこの書に対して抱く印象はあまり良いものではないかしれません。しかし、このエレミヤ書には神様のユダとイスラエルの民に対する憐れみの言葉、救いの言葉、希望を与える言葉も数多く記されているのです。
それは、不安や恐れの中に置かれている現代のわたしたちに対しても、慰めや励ましの言葉、救いと希望を与える言葉として語られているのです。ですから、わたしたちに対して厳しい言葉が語られる時は逃げようとしないで真剣に聞き、悔い改めることがあれば真剣に悔い改め、神様がエレミヤを通して語ってくださる慰めと励ましの言葉、救いの言葉をしっかり心で受け止め、安心して、希望をもって生きてゆくことが神様の御心であるのです。
それでは、ここからエレミヤにスポットライトを当ててゆき、神様は何の目的のためにエレミヤを創造されたのかを聴いてゆきたいと思います。それは同時に、神様はわたしたちを何の目的のために創造され、今生かされているのかを聴いてゆきたいと思います。まず1節から3節はエレミヤ書全体の歴史的背景を語る序文であり、エレミヤの背景が記されます。ここを読みますと、エレミヤは祭司の息子であったことが分かりますが、神様は彼を祭司としてではなく預言者として用い、南ユダ王国のヨシヤ王の時代からその息子ゼデキヤ王の時代まで40年間、神様とユダの民たちの間で用いられるのです。年齢でいうと20歳から60歳まで、時代でいうと南ユダがバビロン帝国との戦いに敗れる10年から15年前からエルサレムが崩壊し、捕囚の民としてバビロンへ連れて行かれる悲劇的な時代、暗黒の時代です。
エレミヤは、滅びに向かって崖を転び落ちる南ユダの人々が捕囚の民となった哀れな姿をずっと見続けます。彼の活動期間は40年で、捕囚期間は50年ですから、解放という救いを見えない中で、それでも神の言葉を語り続けた人です。神様の言葉を捕囚の民に語り続けたのですが、彼自身はその解放の日を見届けることはできずに、晩年はエジプトで過ごします。
4節以下は、エレミヤの召命の部分です。4節に「主の言葉がわたしに臨んだ」とありますが、神様からの召命は「わたしに臨む神の招きの言葉」なのです。つまり、親や友人や教会の誰かから「イエス様を救い主と信じてみない。クリスチャンになってみない。教会員になってみない。奉仕者になってみない。牧師や伝道者になってみない。」と言われたからなるようなものではなく、神様の招きの言葉を自分の心で聞く必要があるのです。
エレミヤに直に臨まれた神様は、続く5節で次のように言われます。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」と。動詞がすべて過去形になっています。つまり、エレミヤが母の胎内で形作られるもっと前から、神様にはエレミヤを主の御用のために用いるというご意志とご計画と目的があって、すべてを持ち運ばれてきたということです。
同じように、神様がわたしたちを創造され、命を与え、生かしてくださっているのは、神様の御用のために用いるというご意志とご計画と目的があり、それぞれが今日まで神様によって持ち運ばれてきたということです。預言者としてではなくとも、人として、家族として、友として、社会人として、主の僕として神様と隣人に仕えるためにわたしたちは生かされているのです。つまり、自分のためとか、自分の至福のためだけに生きるために生かされているのではないということです。そのことを示すために、神様はイエス・キリストという神の意思をはっきり示す方をこの地上に派遣され、どのように生きるべきかを示されたのです。
「わたしはあなたを聖別し、あなたを立てた」と言われても、そんなことこちらからお願いしていないし、良い迷惑、自分の人生は自分で決めるという人もおられるでしょう。また、エレミヤが6節で神様に「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」と言う人もいれば、「神よ、わたしは高齢者にすぎませんから。」と言う人もいるでしょう。そういう言い訳の背後にある思いは分かりませんが、エレミヤの言葉は、年齢よりも経験が不足していること、自分の未熟さを神様に訴えています。
自分は未熟だと若者は言えますが、若者には若さと力が十分にあると思います。しかし、40代から上のわたしたちは、仕事や育児や親の介護で忙しいと言ったり、時間的にも、気持ち的にも余裕がないと言い訳を並べますが、それは謙遜ではなく、命を与えてくださっている神様の思いよりも、自分のことや都合を優先させている表れであるかもしれません。
確かに、この地上での時間だけで物事を捉えればわたしたちに時間の余裕はありません。人生はあっという間です。しかし、わたしたちにはイエス・キリストを通して永遠の命が約束されていることをしっかり捉える必要があります。それを捉えた上で、この限られた地上での人生を誰のために用いるかが大切になります。自分のためだけに使うのか。それともわたしたちを創造し、命を与えてくださっている神様と共に生きる隣人のために生きるのか。
神様は、7節でエレミヤに「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。」と命じます。厳しい言葉に聞こえるかもしれませんが、そうではなく、神様が命じることを人々にすべて語ることが隣人の救いと祝福のためになり、それがわたしたちの生きる意義・目的になるのです。そのためにわたしたちは造られ、生かされ、神様の臨在のもとから派遣されるのです。
神様は無責任にそのように命じられたのではありません。8節には、エレミヤに対して「『彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す』と主は言われた。」とあります。同じ約束が19節にもあります。エレミヤが行く所々に神様は必ず共にいて、知恵と言葉と力を与え、窮地に置かれても必ず助け出してくださるという堅い約束があるのです。
神様は9節で、「主は手を伸ばして、わたしの口に触れ 主はわたしに言われた。『見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。』」と言われます。預言者の使命は、神様から授かった言葉をそのままストレートに人々に語ることです。主なる神様は、その御手を伸ばして、わたしたちの口に触れてくださいました。わたしたちの心に触れ、口に触れ、わたしたちを清め、イエス・キリストという言葉を授けてくださいました。このイエス様という神の言葉をわたしたちの周りにいるすべての人に分かち合うためです。
わたしたちは目の前の人を恐れて、尻込みして、何も言えないでしまう弱さがあります。しかし、主は「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と言われます。わたしたちがしっかり心に置かなければならないことが二つあります。一つは、黙ったままでいると、わたしたちの愛する民は罪の中に生き続け、滅んでしまうということです。
10節に、「見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し」とあります。この「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し」は、南ユダに襲いかかる神様の裁きとバビロン帝国による破壊です。そういう権威をエレミヤは神様から受けるのです。しかし、滅ぼすことが神様の願いではありません。
わたしたちが心に置かなければならない二つ目は、わたしたちの愛する民を救うためにはイエス・キリストの福音、神様の愛を臆することなく語り続けるということです。それが、「見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。建て、植えるために。」ということなのです。
確かに、神様の裁きの後に50年間の捕囚の期間があり、エレミヤも人々もその時期を耐えなければなりません。しかし、主なる神様がイスラエルを解放し、捕囚の民をエルサレムへ戻し、復興を与えるという救いの約束が「建て、植える」という言葉の意味であり、その働きがエレミヤとわたしたちに神様から委ねられているのです。目の前の人々を恐れることから解放されるためにも、神様とイエス様と聖霊がいつも共にいてくださることを覚え、主に信頼しつつ、それぞれ果たすべき責任を誠実に果たしてまいりましょう。