ルカ(110) いちじくの木の譬えを話すイエス

ルカによる福音書21章29節〜33節

イエス・キリストは、数日後に迫っているご自分の受難、十字架の死を前にしつつも、ご自分の弟子たちに重要なことを愛と祈りと忍耐をもって教えられます。その理由は、ご自分の地上での残された命・時間が短いことを悟っておられるからではなく、弟子たちがイエス様の言葉を真剣に受け止め、その言葉に従順に聞き従う中で、彼らが御心に適った働きをその人生の最後まで忠実に行い、主の弟子として生き抜き、最終的には神の憐れみによって、御国へ迎えられて欲しいからです。それがイエス様の願いであったと信じます。

さて、これまでの21章の中で、イエス様が弟子たちに熱心に教えられたのは、終末に対して持つべき心構え(8〜19節)、終末がどのような形で現れるかの見通し(20〜28節)でした。しかし、続く29節から36節では、弟子たちがそれぞれ自分自身で実践すべきことを3つ教えられます。

今回は、29節から33節に集中しますが、この箇所でイエス様が弟子たちに教えられる理由は、弟子たちが自分の目でしっかり状況を見て、神の国が近づいていることを悟り、それまでに何をなすべきかを判断させるためです。人任せにしてはいけないということです。ここでは、「見る」という動詞がキーワードとなります。

まず29節から30節に、「それから、イエスはたとえを話された。『いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。』」とあります。重要なことを伝えるために、イエス様はここでも譬えを用いられます。ここに「見る」という動詞が2回出てきます。

まず注目すべきは、「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい」とある点です。マタイとマルコという他の福音書の記者は、「いちじくの木」だけに注目しますが、ルカはイエス様が「いちじくの木や、ほかのすべての木」を見なさいと話したと記録します。なぜ「ほかのすべての木」という言葉をあえて加えたのか。そこには、ユダヤ人のマタイとマルコと違って、ルカは異邦人であったということが深く関係すると思われます。

いちじくの木は、イスラエル以外にも、ギリシャやローマなど、至る所で生息していますので、いちじくの木だけに一本化しても良かったようにも思いますが、ルカはここで「いちじくの木」をイスラエル・ユダヤ民族の歴史を指しています。そして「ほかのすべての木」を、すべての異邦人を含んだ全人類の歴史として指しています。

ルカはユダヤ人ではありませんでしたから、ユダヤ人と異邦人、すべての人々が神の救いの対象であること、神の国へと等しく招かれている存在であるとルカは固く信じていたので、「いちじくの木や、ほかのすべての木」とあえて記したのでしょう。そうすることは、福音的にも、神学的にも、正確な判断であったと思います。神様の愛とイエス様の救いは、人種や性別や地位や富など関係なく、すべての人に平等に与えられる神の愛であり、どのような人も受け取ることができる恵みだからです。

故に、「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい」とは、全人類の歴史の中で、創造主であられる神、すべての始め(アルファ)であり、終わり(オメガ)である神が、すべての民族に対して、これからどのようなことをなさろうとされるのかを、それぞれの目でしっかり見なさいとイエス様が語られるところに注目すべきと考えます。すべての民の中に、わたしたちも含まれているわけですので、わたしたちも実生活の中で日々起こっている事柄をすべて自分の目でしっかり見なさいということだと思います。

続く31節に、「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」とありますが、「これらのこと」とは、8節から27節の中でイエス様がおっしゃっている事柄すべてと考えるのが自然だと思います。

すなわち、自分をキリストだと名乗る者たちが数多く現れるがそれらに惑わされないように、戦争や暴動のニュースを聞いても怯えないように、大きな地震や激しい飢饉や疫病が起こっても望みを捨てないように、キリスト者への憎しみと迫害が起こっても、親や家族や友人が裏切ることがあって、殉教を遂げる者がたとえ出ても、主に信頼することをやめないように、という励ましになります。

これらのことが起こり始めたら、主イエス様の再臨と神の国の到来は近いと悟り、信仰の帯を締め直して歩みなさいと励まされているのです。大切なのは、苦難が襲いかかってきても、イエス様を救い主と信じ続け、イエス様から決して離れない、イエス様とのつながりを絶対にこちら側から切らないことです。

いちじくの木は、5・6月ごろから新枝が伸び始め、花嚢(かのう)という小さな実をつけ始め、6・7月に大型の葉が出てきて、8・9月に実が大きくなり、9・10月が食べごろとなる。いちじくの枝と花嚢が付くと初夏、実を結び始めると夏となってゆきます。9月下旬から10月中旬頃にはスーパーの店頭にいちじくは並びます。

都心では、いちじくの木を見かけることは殆どありませんが、もみじやイチョウなど、3・4月に新芽が出て、5月は新緑となり、6月は緑が深まります。7月から10月初旬まで木陰になって暑さを緩和してくれます。10・11月には紅葉の季節を迎え、12月には葉をすべて落として冬に備えます。日本でも季節の変わり目を街路に立つ木々を、自然を自分の目で見て知ることができるように、終末の兆候を見て、神の国が近づいていることを悟る必要があります。それは、イエス様の再臨への心を備えることにつながるからです。

イエス様は、これまで、エルサレム神殿が崩壊すること、終末の徴としてどのようなことが現れるか、エルサレムの滅亡がある、自然界・天体が揺り動かされると言って来られました。それらの徴に諸国の民はなすすべを知らずに不安に陥り、怯え、気絶する人も出てくると包み隠さず言われます。しかし、イエス様は、弟子たちに対して「世の終わりはすぐに来ない」(9節)、「それはあなたがたにとって証しをする時」(13節)、「忍耐して、神様から救いを得なさい」(19節)、「身を起こして頭を上げなさい。解放の時が近いから」(28節)と繰り返し弟子たちを励まし続けます。

そして今回の32節と33節で、イエス様は「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と弟子たちに言われます。「すべてのことが起こるまで」とは、エルサレムの陥落からイエス様の再臨があるまでのイスラエルだけでなく、世界の歴史を含めた出来事すべて」です。イエス様の「はっきり言っておく」という言葉は、イエス様の言葉の確実性を強調します。

イエス様は、「この時代は決して滅びないと言われます」が、この「滅びる」というギリシャ語・パレルコマイは、「過ぎ去る」という意味もあります。すなわち、イエス様の言葉は決して過ぎ去ってしまって無くなることはない。イエス様の言葉は神の言葉であるがゆえに、滅びることは決してない。つまり、必ず守られるということです。

この主イエスの言葉を信じ、どのようなことが今後の人生の中にあっても、イエス様を信じ続けなさい、離れてはいけないという励ましの言葉です。このイエス様の言葉に聞き従い続けることが、神の国へ招かれ、神様の愛と憐れみによって神の子とされる唯一の道であるからです。いちじくの木やその他の木々を、自然を観測して、主イエス様と聖霊が近くにおられ、共に歩んでくださっていることを感じ、どのような時でも平安をいただきましょう。