すべての人を照らすまことの光

「すべての人を照らすまことの光」 十二月第一主日礼拝     宣教要旨 2016年12月4日

ヨハネによる福音書 1章1〜5、9節       牧師 河野信一郎

イザヤ書9章1節に「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」という預言が記されています。過去形で記されているのは、「神の約束はもうすでに果たされたかのように必ず成就する」ということを強調するためです。「闇の中を歩む民、また死の陰の地に住む者」とは、神から完全に離れ、好き勝手に生き、罪の中に生きる人々、永遠の死に向かって歩む人々、生きる目的と希望を持たないで苦しみ悶えている人々を指し示しています。しかし、そのような暗闇に生きる人々は大いなる光を見る事になり、その人々の上にその光が照り輝くと約束されています。そしてこの約束がイエス・キリストによって成就した、イエスが神から遣わされた「光」であるとヨハネは福音書の中で宣言するのです。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とありますが、この「初めに」という言葉は、創世記1章1節の「初めに、神は天地を創造された」という言葉を想起させます。ヨハネのそれを意識していたと思います。しかし、ヨハネの「初めに」という言葉の用い方が創世記とは違います。

創世記の場合、「初めに」とは歴史の最初を意味しますが、ヨハネの場合は時間の最初ではなく、時間そのものが始まる以前、つまり創造の御業を開始する以前から存在された方が御子・イエスであると言及しています。天地が創造される前から、「言」は存在し、神と共にあった。キリストは神であったと言うのです。そして万物はこの御子によって造られ、造られたものでキリストによらずに成ったものは何一つなかったとヨハネは言っています。

ヨハネが、冒頭で「初めに」という言葉を用いたのは、イエス・キリストによって新しい創造の御業が始まったという宣言と、その出来事をこれから詳しく記して行くという意気込みを示すものであったと考えられます。神の言であるイエス・キリスト、永遠におられる方が愛と誠とをもって私たちを新しい人に造りかえてくださるという福音を伝えたかったのだと思います。

言葉には行いが伴わなければなりませんが、イエス・キリストは事実、私たちを罪と死より、また闇から救い出し、神の子とするために十字架に架かって贖いの死をとげ、その命を捨ててくださいました。そして主イエスを信じる者を新しくされ、新しい民、新しい信仰共同体、神の家族を造られました。「言の内に命があった」と4節にありますが、この命は「永遠の命」です。そしてこの永遠の命を私たちに与えるために主イエスはこの地に遣わされ、主イエスの永遠の命を十字架上で私たちにお与えくださった。それは、私たちが信じて、永遠の命に生きるためです。この「永遠の命」は暗闇の中にいた私たちを照らす光と希望を与えてくれます。

さて、今回は5節の「光は暗闇の中で輝いている。」と9節の「その光はまことの光で世に来てすべての人を照らすのである。」という御言葉からいくつか分かち合いたいと思います。

まず覚えたいのは、光のほうから暗闇の中にいる私たちに近づいて来てくださった、歩み寄ってくださったという神の愛、キリストの愛です。まことの光がこの世に「来て」、すべての人を照らしてくださったという事実を感謝したいと思います。このまことの光は、私たちに希望を与えてくれます。すべての人に救いと希望を与えてくれます。

「まことの光」とありますが、では「偽りの光」もあるということかとなりがちですが、ここではそういうことを言っているのではありません。この「まこと」というのは、「いつも、絶えず共にいる」という意味として用いられていると思います。

例えば、太陽の光は昼間だけ私たちを照らし、残りの時間は隠れてしまいます。「いつも・絶えず」ではありません。またガス、風、水などの自然の力によって作られる光も、原子力によって作り出される光も、施設が壊れれば光を作り出すことができず、「いつも・絶えず」私たちを照らし続けることはできません。有限です。しかし、イエス・キリストという光は、私たちといつも共にいて、私たちを照らし続けてくださいます。

神がまことの光をもって私たちを照らしてくださるのには、神の目的があります。神は、キリスト・イエスを通して、私たちに見せたいものが少なくとも4つあると思います。

まずキリストの光に照らされる時に見えるもの、それは自分自身です。闇の中にいると判りませんでしたが、光に照らされることによって、自分がどれほど罪によって汚れている存在かが判ります。また、光によっていま自分がどこにいるのか、何処に向かっているのかも判るようになります。神は、まことに光によって私たち自身を見せたいのです。

キリストの光によって見えてくるもの、それは隣人です。暗闇にいると自分の事しか考えられませんが、隣人の存在に気付かされ、共に助け合い、愛し合っていきてゆくことの大切さを知らされます。神は、まことに光によって隣人を見せたいのです。

神がキリストの光によって私たちに見せたいのは、神の存在であり、神の愛です。18節にあるように、イエス・キリストが神を示すのです。闇の中にいる時は全く判りませんでしたが、光によって私たち一人一人が、すべての人が神に愛されている存在、神の恵みが豊かに注がれていることを知るようになります。

まことに光によって初めて見えてくるもの、神が私たちに見せたいもの、それはイエス・キリストの十字架です。主イエスは、私たちの罪をすべて負って十字架上で贖いの死を遂げてくださいました。天地創造の前から存在される御子が、私たちを救い、私たちを新しく創造するために十字架上でその命を捨ててくださいました。それほどまでに私たちは神に愛されている存在であることを光に照らされて初めて知るようになります。この救い主イエスを甦らせ、神が永遠の死と闇に勝利されたことを証明されました。

この救い主が「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と8章12節で宣言され、私たちを招かれます。

今年のクリスマス、一人でも多くの方々に神から遣わされたこの世の光、まことの光、命の光を知って信じてほしいと願います。それが神の御心です。その御心が成るために、私たちクリスチャンが先に救われ、光のうちに歩む者とされ、この世に派遣されているのです。その大切な事をこのアドヴェントを過ごす中で共に覚えたいと思います。