すべてを善とする方の言葉

「すべてを善とする方の言葉」 一月第四主日礼拝 宣教 2025年1月26日

 詩編 119編65〜72節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。新年の挨拶をつい先日したかと思いましたら、早いもので、一年最初の月の最後の主日となりました。そのような朝に、皆さんとご一緒に礼拝をおささげできることを神様に感謝いたします。昨日のニュースによりますと、今週火曜日の早朝に関東圏にも雪、あるいは霙が降るとの予報です。たくさんは降らないようですが、通勤・通学の時間帯にぶつかるかもしれませんので、どうぞ気を付けて過ごしてくださいますようお願いいたします。お祈りしています。今週金曜日までの一月を大切に過ごしたいと思い願う者です。

 

さて、今朝のメッセージを感謝なことを分かち合うことから始めたいと思います。先週19日の主日礼拝のメッセージの冒頭で、4月から始まります新年度、特に教会創立60周年をお祝いすることに相応しい年間聖句と主題が与えられるようにお祈りくださいと皆さんにお願いをしていましたが、昨日の朝、ビビッとくる聖句と主題が突然与えられました。来月の執事会で提案したいと思っています。3月末に開かれる教会総会で皆さんに承認いただくまで公式な発表ができませんが、たぶん今回導かれた聖句と標語が良いのではないかなぁと思っています。主のお導きをお祈りください。24年度と25年度の執事会の皆さんも一生懸命に準備をしてくださっています。60周年の歩みの上に、主の祝福があるようお祈りください。

 

さて、1月は「良い」という言葉をキーワードに神様からの語りかけを聴いてまいりました。この「良い」という言葉、ヘブル語では「トーブ」という言葉ですが、神の「慈しみ」という意味合いで旧約聖書には多く用いられ、先週のメッセージの箇所であった詩編23編では、神様の慈しみがわたしたちを神様の囲いの中に追いやってくださり、その囲いの中でわたしたちは愛され、守られ、祝福されていることを聴きました。

 

この「トーブ」というヘブル語には、他に「幸せ」、「勝る」という意味がありますが、主なる神様を信じてゆく人に本当の幸せが与えられ、本当の勝利が慈しみの神様から与えられるということになると思われます。しかし、その幸せというのは、何も苦労や挫折、失敗がないという人生を指しているのではありません。苦労が絶えなくても、挫折があっても、主なる神様がいつも伴ってくださるから、それだけで幸いであるということ、心に安らぎがあるということでありましょう。また勝利というのは、人力・軍事力による勝利ということではなくて、この地上に生きる上で不条理な戦い・争いに負けたとしても、不当な扱いを受け、人々から嘲られるような日々を過ごしたとしても、地上での人生が終わった時、神様の御許に招かれて、そこで永遠に過ごすことができる。その恵みを勝利と呼ぶのだと思います。

 

わたしたち一人ひとりを神様の御前に良い者とするために、神様はイエス・キリストという良い羊飼いをこの地上に派遣してくださり、このイエス様が闇の中で彷徨い、苦しみ悶えていたわたしたちを探し出して光の中に移してくださり、わたしたちを神様の愛の囲いの中に導き入れ、そこで憩わせてくださる。それが神様の御心であり、その大きな恵みをいつも喜び、絶えず感謝しつつ生きること、日々を重ねることが神様の御心に適った良い生き方であることを聴くことができたと思います。この豊かな恵みをわたしたちが日々喜び、感謝して歩むことが神様の御心、神様が最も喜ばれることであることを詩編23編から聴きました。

 

「良い」という言葉には、他にも漢字で「好い」、「佳い」などがありますが、今朝は、「善い」という漢字が用いられている詩編119編65節から72節がテキストとして導かれました。詩編119編68節に「善い」という漢字の言葉が2回用いられています。大久保教会で用いている新共同訳聖書では「あなたは善なる方、すべてを善とする方。」とありますが、新しい聖書協会共同訳聖書では、「あなたは善い方、善いことをなさる方」と訳されています。口語訳聖書では「あなたは善にして、善を行なわれます」と訳されています。

 

前の新改訳聖書は、「あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます」と訳していますが、新改訳2017聖書では、「あなたは、いつくしみ深く、良くしてくださるお方です」と訳され、「慈しみ」と「良い」という言葉が用いられていてとても興味深いです。

 

しかしながら、最初に「良い」と「善い」という漢字、何がどう違うのかという疑問が出てきます。どのように区別して、それらをどのように使い分けるのが正しいのか、アメリカ生活が長かったわたしには分かりません。大野晋さんの「日本語練習帳」という本には、「良い」という漢字は「質がよいこと」を指す時に用いる漢字で、「善い」という漢字は「行為がよいこと」を指す時に用いる漢字とありました。例として、「最良の」体調、出来映え、状態、品質という時に用いる漢字が「良い」。「最善の」努力、方策、処置、道という時に用いる漢字が「善い」であるとありました。とても勉強になります。英語では、「良い」はgoodで、「善い」はgoodnessになると思います。

 

ですので、68節の場合、「あなたは善なる方、すべてを善とする方」と詩人は言っていますから、主なる神は善なるお方という時、それは私たちのために神様はいつも最善をなしてくださるということであり、すべてを最善の方向へ導いてくださる、すべてを益としてくださる神であられるということを詩人は告白しているという理解になるかと思います。このような慈しみ豊かな神様を喜ばずに、感謝せずにおられません。信頼せずにおられません。ですから、68節の後半で、詩人は「あなたの掟を教えてください。」と願っているのです。

 

この詩編119編65節から72節には、掟、戒め、仰せ、命令、律法という言葉がたくさん出てきます。これらはすべて神様の御言葉を指します。神様の御言葉に日々聴き従って歩むこと、それが神様の慈しみ・愛に生きることだと詩人はわたしたちにはっきりと教えているのです。そのように生きることが最良の人生であり、最善の道であると告白しているのです。

 

65節で、詩人は、「主よ、あなたの御言葉のとおり、あなたの僕に恵み深くお計らいください。」と願い求めています。「あなたの御言葉のとおり」とは、神様が交わしてくださった約束のとおりという意味で、約束のとおりにお取り計らいくださいと願っています。わたしたちが神様の御言葉のとおりに生きる方法、それは神様の僕として生きることです。わたしたちの多くは、自分を主人とし、神様を自分の願いを叶えてくれる存在のようにしてしまうことがあります。しかし、わたしたちの主人は神様、イエス様で、わたしたちは僕です。神様の、そしてイエス・キリストの御言葉に聴き従う中で、祝福が与えられるのです。

 

詩人は、66節で、「確かな判断力と知識をもつようにわたしを教えてください。わたしはあなたの戒めを信じています。」と言っています。神様の戒め・御言葉がわたしたちに正確な判断力と知識を与えます。人の言葉、賢人の言葉ではありません。神様の言葉に日々聴く中で、何が善であり、何が悪であるのか、何が御心であり、何が自分勝手な思いであるのか判別できる知恵と知識が神様から与えられ、物事を正確に判断できる力が養われるのです。

 

67節で、詩人は「わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。今からは、あなたの仰せを守らせてください。」と言っています。詩人は、過去にたくさんの間違いを犯して神様から離れるようなことがあり、そこで屈辱をたくさん受けたのでありましょう。悔い改めますから、御言葉をもってわたしを導き、御言葉に生きる者としてくださいと求めています。

 

わたしたちもこれまでの人生の中でたくさんの判断ミス、間違いを犯し、道を外れてしまい、そこで多くの辱めや苦しみや痛みを経験してきました。しかし、この詩人のように、そのような苦しい経験が神様に立ち返るチャンスとなり、神様の慈しみの中で新しく変えられ、神様の喜ばれる実を結ぶ者とされてゆくのです。慈しみの主が働いてくださるのです。

 

ですから、詩人は68節で、「あなたは善なる方、すべてを善とする方」と告白し、「主よ、あなたの掟を教えてください。」と願っているのです。神様の御言葉に聴き従うことが最良人生であり、最善の道であることを体験したから、その恵みを分かち合ってくれるのです。

 

69節には、「傲慢な者は偽りの薬を塗ろうとしますが わたしは心を尽くしてあなたの命令を守ります。」とあります。傲慢な者たちは、嘘偽りでわたしを訴え、誹謗中傷を繰り返し、ずっと苦しめてきた、心が壊れそうになった。しかし、もう人々の身勝手で無責任な言葉に振り回されることを止め、心を尽くして神様の言葉に聞き従い、その言葉を守りながら生きますと詩人は言っています。わたしたちもそうすべきではないでしょうか。人は自分のことをどう思っているのか、どう言っているのかではなく、神様が「あなたを愛しているよ。あなたは大切な存在だよ」と言ってくださる、その言葉を信じて喜ぶことが最重要なのです。

 

70節で、詩人は「彼らの心は脂肪に閉ざされています」と言っています。心は脂肪で固められ神様の愛に鈍感だというのです。神様の愛を喜び、感謝して生きない人たちは、体の中に内臓脂肪が溜まり、高血圧や動脈硬化などで体調を崩し、早めに死を迎えることになります。神様がイエス・キリストを通して備えてくださる永遠の命を受けるために、日々御言葉に聴き従って生きることが大切なのです。

 

71節の「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」は、67節に共通する内容です。御言葉に聴き、学ぶ姿勢が大切です。

 

最後の72節、詩人は「あなたの口から出る律法はわたしにとって、幾千の金銀にまさる恵みです。」と告白しています。神様の御言葉は、この地上で得られる物質的財産よりも、はるかに尊い恵み、この世の富や努力では得られない生きる知恵、力、励ましなのです。この神様の恵みへは、誰でも、いつでも、どこででもアクセスできます。ただ神様の御言葉を祈り求めて、聖書を開いて、神様からの語りかけを素直な心で聴くだけなのです。その時が、恵みの時、至福の時なのです。その恵みの繰り返しが永遠の命へとつながっていくのです。