「はい、主よ、信じます」 新年礼拝 宣教 2020年1月5日
マタイによる福音書9章27〜31節 牧師 河野信一郎
新年 明けましておめでとうございます。2020年の最初の主の日の朝、このようにご一緒に賛美と礼拝を神様とイエス様におささげできる幸いを主に感謝いたします。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
新年最初の主の日のこの朝、「はい、主よ、信じます」という主題で、マタイによる福音書9章27節から31節をテキストに宣教をさせていただき、2020年という新しい年を歩み出したわたしたちも「はい、主よ、信じます」という信仰をもって、神様と主イエス様への信頼をもって歩んでゆくことが神様の御心であるという励ましを共に聴いてゆきたいと思います。
今回のテキストはマタイ福音書9章の後半ですが、8章と9章を読んでゆきますと、実に大勢の人々がイエス様と出会ってゆくのですが、その中に主の恵みに与る人々もいれば、恵みを受け取らない人たちがいることに気付かされます。そして主の恵みと憐れみに与った人々に共通するのは、彼らにはイエス様に対する信頼と信仰があったということです。
重い皮膚病に悩まされていた人は癒され、中風の僕をもつ百人隊長は心配から解放され、その僕も癒されます。高熱で苦しんでいたシモン・ペテロの義母も癒され、悪霊に憑かれた人々から悪霊が追い出され、大勢の病人が癒されてゆきます。息を引き取っていた会堂司の娘も命を吹き返し、長血を患っていた女性も癒されてゆきます。その人たちは、イエス様に大きな期待と信頼を持っている人たちでした。
わたしたちの中にも、長年負っている苦しみや痛みがあったり、生まれつきの持病があったり、不自由さを抱えて生きてこられている方もおられると思います。あるいは、苦しみや悲しみが突然襲いかかったという方もおられるかもしれません。それらの苦しみや痛み、悲しみは、一人で抱えることは本当に辛いと思います。一人では抱えきれない試練が襲いかかることがあり、人生の危機、暗闇、どん底を経験します。そこには霊的に全く希望の光が見えない、真っ暗闇の心の状態です。しかし、その暗闇の中にイエス・キリストという救いの光が生まれました。その光を信じなさいとわたしたちは招かれています。
さて、今朝の箇所にもイエス様に大きな望みをおき、信頼していた人たちが登場します。主イエス様がガリラヤの地を歩いている時、二人の盲人が「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びながらイエス様について来たと27節にあります。この二人は、肉体的に暗闇の中をこれまで歩んでこられた人たちです。何が原因で、いつ頃から目が見えないのか、生まれつきなのか、病気が原因でそうなったのかは判りません。しかし、わたしたちに判ることが二つあります。一つは、二人で一緒にいるということ、つまり彼らは孤独ではなかった、苦しみを共に分け合う人が互いに存在したということです。もう一つは、この二人は心から待望していることがあったということです。それは神様から遣わされたメシア・救い主から憐れみを受けて、目が開かれて目が見えるようになり、暗闇から解放されて自由を得るということでした。
「ダビデの子よ」と叫びますが、この呼び名はメシア・救い主を指し、ユダヤ人の中ではローマ帝国から解放する者という意味があり、ユダヤ人たちは解放の願いを込めてそのように呼びましたが、イエス様はそのように呼ばれることを避けられました。ですから、目の不自由さから解放されたこの二人に対して「このことは、誰にも知らせてはいけない」と釘を刺されました。
さて、皆さんには「主よ、わたしを憐れんでください」と叫びたくなることが今ないでしょうか。わたしたちにも、それぞれ暗闇と思えるような恐れや不安が日々あって、主の助け、救いを必要としていることがあるのではないでしょうか。わたしたちも、神様の憐れみが必要ではないでしょうか。今朝、それをわたしに求めなさい。わたしに求めて良いと主なる神様はわたしたちを招かれています。この招きに応答することが主への「信頼」であり、「信仰」です。そして、神様に信頼する者に、主の憐れみが与えられます。
他人の家の中まで入り込んできて憐れみを求める盲人たちに対して、イエス様は「わたしにできると信じるのか」と尋ねられます。尋ねるというよりも、彼らの信仰をイエス様は確認します。イエス様は、わたしたちが何を求めているのかということよりも、イエス様を信じているか、信頼しているかというわたしたちの心をご覧になられるのだと思います。
この二人の叫びを聞いたのは路上、外のはずですが、イエス様は外で尋ねることをしないで、家に入ってきた二人に尋ねます。人様の家に入ることは勇気の要ることですし、他人から見れば図々しいことのように見えます。また、イエス様も障がいをもつ者に対して少し不親切ではないかとも感じられます。しかし、メシアであることが世間に知られることがまだ「その時」ではないと感じていた主イエス様は、この二人をあえて友の家に招き入れられたのではないかとも考えられます。すべてのことには主のお考えがあり、それを疑わずに従うこと、求めることがわたしたちに必要なのだと導かれ、励まされます。
主イエス様は目の不自由な二人に「わたしにできると信じるのか」と尋ねます。彼らにはイエス様の姿は見えなくても、主の顔が、その声が自分たちに向けられていることを耳で聞き取り、心で感じ取っていたと思います。そして、「はい、主よ」と答えます。「はい、主よ、信じます」と答えたのだと思いますが、彼らはイエス様の何を信じたのでしょうか。それは「主にはできる」ということ、「主にはできないことは何もない」ということです。「主にはできる」、「神様にはできる」ということを彼らは心から信じていました。
主イエス様を通して神様が彼らを憐れんでくださると信じていました。自分たちの目を癒し、目が見えるように主がしてくださる、主にはできると信じていました。そう信じていた人たちの目に主イエス様の御手が置かれます。今まで悩み苦しんできた大元の原因に、主の御手が触れます。その感覚はどのような心地よいものであったでしょうか。「主イエス様、私に触れてください。私の弱い部分に触れてください」という叫びが、わたしたちの心のうちにもあるのではないでしょうか。その叫びをイエス様は聞いてくださいます。わたしたちに必要なのは、イエス様を信じて、主の御前に自分を置き、さらけ出すことです。委ねることです。神様、そして主イエス様にはできると信じて、「はい、主よ、信じます」ということです。
今年の歩みの中で、日々の生活の中で、苦しみや悲しみや痛むことや悩むことがあって、心がくじけたり、折れそうになることがあっても、朝ごとに夕ごとに、いつも、ことあるごとに、主にはできると信じて、主がいつも共にいてくださることを信じて、「はい、主よ、信じます」と言って足を踏み出す、一歩前進すること。その信仰と信頼の繰り返しがこの一年もわたしたちに必要なのではないでしょうか。
神様が主イエス様とご聖霊を通して絶えず共にいてくださる、約束を守ってくださる、どんな歩みでも必ず守り導いてくださる、わたしたちの必要をすべて満たしてくださることが神様とイエス様にはできると信じ人、信頼を置く人は幸いな人ではないでしょうか。実際にそのようにした人たちの目は開かれ、光が与えられ、見えるようになり、悩みや不安、恐れや不自由さから解放され、大きな喜びで満たされました。
30節と31節を読みますと、イエス様が「このことは、誰にも知らせてはいけない」と厳しくお命じになったのに、彼らは外へ出ると、その町だけでなく、その地方一帯にイエス様のことを言い広めたとあります。彼らにとって、暗闇から解放され、光のうちに生きることがそれ程までに大きな喜びであったということが判ります。
わたしたちも、神様とイエス様の愛とその愛の力を「はい、主よ、信じます」と告白し、ただ主に愛され、憐れまれ、恵みのうちに救われているという喜びを分かち合うために、それぞれ生かされている場所へ出てゆきましょう。大久保教会として、この東京という地方一帯にイエス様のことを言い広め、神様の愛を共に分かち合ってゆきましょう。神様とイエス様にはできます。不可能なことは何一つありません。疑わずに、主を信じ、主に従って参りましょう。