もう一歩踏み込んだ愛

「もう一歩踏み込んだ愛」 七月第四主日礼拝  宣教要旨  2014年7月27日

マタイによる福音書5章38〜42節      牧師 河野信一郎

 わたしたちは、愛する人のためならば、自然と我慢・忍耐ができ、少し無理なことを注文されても、何でもしてあげられます。少しの犠牲やお金はいといません。しかし、私たちの周りには、最初から騙すつもりで近寄ってくる人、何度も裏切り続ける人、高圧的な人、自己中心的な人が残念ながらいます。わたしたちは、そのような人と関わりたくないと正直に思います。

また「目には目を、歯には歯を」という言葉を聞く時、「やられたら、やり返す」という感情を持ち易くなります。実際に出エジプト21章24節、レビ記24章20節、申命記19章21でモーセの時代からユダヤ人たちは聞いていることであり、当たり前のことと捉えています。しかし、この言葉は本来そういう意味ではなく、トラブルや争いがエスカレートしないで最小限のうちに解決するための「同害報復法」と呼ばれるものです。何か損害を受けると何倍返ししたくなる人がいますが、そういう人たちが無制限に報復しないように歯止めをかけるものです。つまり、骨を一本折られたからといって、命まで奪ってはならないという規定です。

 そういう中で主イエスは「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな」と弟子たちにお命じになられます。ここには、先ほどの「同害報復法」の論理は見当たりません。イエスは「悪人に手向かうな」と言われます。それどころか、「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」と主イエスは弟子たちにお命じになります。敵に刃向かうことなしに、敵の言いなりになって更にもっと叩かれる事が奨励されているのです。そのようなことを言われたら、わたしはどうするだろうか? あなたはどうするでしょうか? わたしたちは、そのような時どうするだろうか? ということが問われています。

 正直に言って、頬を叩かれるような状況に身を置くことは絶対に避けたいし、たとえ叩かれたとしても他の頬を叩かれるために向けることはしたくない。何故なら、それはとっても屈辱的なことだからです。ましてや、正当な理由もなく「悪人」に頬を打たれるのです。肉体的な苦痛と精神的な苦痛があります。打たれた痛みに耐えるよりも、屈辱に耐える方が難しいものですが、主はその屈辱をあえて受け入れて、反対側の頬も向けなさいと言われるのです。

 また「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」と40節にありますが、これは悪人が裁判で不当な訴えをもって私たちの大切な持ち物を奪おうという理不尽なことで、このような訴えには多大なる精神的な苦しみが伴います。

 次に「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい」と41節にあります。これは不当な強制です。当時、ローマ人はユダヤ人をいつでも道案内や荷物運びを強要することができたと言われています。クレネ人シモンが主イエスの十字架を無理やり担がされたことを聖書から聞いて知っておられるでしょう。そういう理不尽で屈辱的なことは日常茶飯事であったのです。しかし、ここでも主イエスはその屈辱に何らかの形で報復するのではなく、むしろ一マイル行かせようと強要するならば、二マイル一緒に行ってあげなさい」と言われるのです。

 42節には「求める者には与え、借りようとする者を断るな」とあります。しかし、この「求める者」や、「借りようとする者」は生活に困っている人たちではなく、悪意をもってだまし取ろう、負債など平気で踏み倒そうというような人たちです。そのような人たちにも背を向けるなと主イエスは言われるのです。精神的な負担・苦痛の大きさはいかばかりでしょうか?

  主イエスは、今朝あなたに、そしてわたしに、あなたならどうするかと問われます。あなたの目の前にそのような悪意をもった人が立ったら、あなたならどう対応するかということです。愛する人、大切な人のためならば苦痛も甘んじて受け、求めるものを必要以上に与え、いくらでも一緒に行ってあげ、お金が必要であれば貸してあげるのがわたしたちですが、大切なものをむさぼる人、悪意をもった人とは関係を一切持ちたくないというのもわたしたちです。

 しかし、主イエスは、「悪人に手向かってはいけない。むしろ手向かう権利を棄て、その人を許し、受け入れて愛しなさい」とお命じになるのです。わたしたちは、そのようなことは不可能だと考えます。ガザやウクライナで起っている惨劇をニュースなどで見て知っていながら、「悪人に手向かってはいけない。むしろ手向かう権利を棄て、その人を許し、受け入れて愛しなさい」というのは、「あり得ない」と多くの人が強く感じることです。

 しかし、「悪人」とはいったい誰なのでしょうか? 「悪人」は、他でもない、私たち自身のことではないでしょうか? わたしたちは、罪人の一人なのです。

 わたしたちが悪人に手向かわず、手向かう権利をすべて棄て去らず、悪意のある人を許さず、受け入れず、愛さないならば、そういうことをすることが「不可能だ」と考えるならば、主イエスとわたしたちの関係性というものはどうなってしまうのでしょうか? わたしたちが「救い主」と信じている主イエス・キリストの十字架の必要性はどこにあるのでしょうか?

 イエス・キリストは、わたしたちを救うために右の頬、左の頬、体中を殴られ、唾を吐きかけられ、むち打たれ、十字架を負わされ、十字架に架けられて死んでくださったのです。イエス・キリストは、罪人・悪人であるわたしたちを救うためにこの地上に来てくださる、罪人の汚名をかぶって死んでくださったのです。キリスト・イエスは、強制されてではなく、父なる神の御旨に心から従い、自ら進んで御国での地位を棄て、この地上に来てくださいました。神のひとり子が、その命をわたしたち罪人のために捨ててくださった。主イエスは、罪人であるわたしたちを裁く権利を棄て、わたしたちを赦し、受け入れてくださり、愛してくださった救い主です。救いを求める人に救いを必ず与えてくださるお方が神の御子イエス・キリストです。このイエス・キリストをわたしたちは救い主と信じ、このお方の言葉に従う決心をしました。この救い主が、わたしたちに「悪意のある人に手向かうな。むしろその人を許し、受け入れ、愛し、仕えなさい」とお命じになられます。

 確かに理不尽なことや怒りを覚えるようなことが日常的に身の回りで起こります。しかし、「怒ることがあっても、罪を犯してはいけない」とエペソ書4章26節で命じられています。また、ローマ書12章17~21節に「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。自分で復讐しないで、むしろ神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』。『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、渇くなら、彼に飲ませなさい』。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」とあります。この神を、主イエスを信頼し、さらに一歩踏み込んだ愛を人々に示してゆきましょう。主がいつもわたしたちに伴ってくださり、励ましてくださり、人々を愛し仕える力をわたしたちに豊かに注いでくださいます。わたしたちを愛してくださる神と主イエスを見上げてゆきましょう。