「わたしたちの内に清い心を創造するために主は」 三月第三主日礼拝 宣教 2025年3月16日
詩編 51編3〜19節 牧師 河野信一郎
おはようございます。冷たい雨が降る中、教会に戻ってきてくださり、共に礼拝をおささげくださる皆さんに心を込めてご挨拶いたします。教会へお帰りなさい。今朝も、皆さんとご一緒に礼拝をおささげできる幸いを主に感謝いたします。またオンラインで礼拝に出席くださっている方々も歓迎いたします。先週は暖かい日もあれば、寒い日もあり、本当に目まぐるしい日々でしたが、神様の憐れみの中、皆さんと主の日を過ごすことができて感謝です。
まず皆さんに感謝のご報告があります。去る主日には「3.11を覚える礼拝」をおささげし、東北の地に建てられている3つの教会を覚えて祈り、支援献金をおささげしました。そしてF姉が教会を代表して心のこもった素敵な手紙を準備してくださり、11日の震災記念日の夕方に3つの教会へお送りすることができました。お祈りとご協力に感謝いたします。そのうちの一つの教会から早速お礼のお手紙がメールで届き、新たな祈りのリクエストが届きましたので、掲示板に掲示しておきました。本日発行の月報にも掲載いたしましたので確認いただき、東北のために引き続きお祈りしてゆきたいと願います。
さて、今月は受難節が5日から始まったということもあり、イエス様が何故、何のために十字架の道を歩んでくださり、わたしたちの身代わりとして、わたしたちの救いのために、その命を十字架上で捨ててくださったのかということを聖書から聴いています。初回は、ヨハネ福音書を通して、イエス様はわたしたちの内から罪を取り除き、救いと解放と自由を与えるために神様から派遣された救い主であることを聴きました。そして、どのようにしてすべての罪を取り除いてくださったか、それは十字架の死であったことを聴きました。バプテスマのヨハネが、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言ったのはイエス様のことでした。
先週はコロサイの信徒への手紙から神様とわたしたちの間に和解を与えるためにイエス様は十字架の道を歩んでくださり、十字架でその命を与えてくださったことを聴きました。わたしたちには罪を重ねることはできても、神様との和解をもたらすことなどできません。それが出来るのは神様だけですから、神様が主導権をもって最初に動いてイエス様を救い主としてこの地上に遣わしてくださり、十字架上でイエス様が流された血潮によってわたしたちを神様の御前に聖なる、傷のない、咎めのない者としてくださった。このイエス様の犠牲、神様の愛を信じて受け取ることが神様との和解を得る唯一の方法であることを聴きました。
そのような流れの中で、今朝は、主イエス・キリストは、わたしたちの心の内に清くて新しい心を創造するために十字架の道を歩まれ、その命をささげてくださったという事と、その犠牲と愛にどのように応答してゆくことが大切なのかを詩編51編から聴いてゆきたいと願っています。皆さんとご一緒に聴くため、メッセージのタイトルは「わたしたち」と複数形にしましたが、51編は「わたし」と単数形になっていることをご承知おきください。
神の家族という教会単位で、皆さんと共に応答することも大切ですが、その前に、わたしたち一人ひとりの恵みへの応答が大切です。つまり、わたしたち一人ひとりが神様に愛され、イエス様によって罪贖われ、赦され、救われ、「今日を生きなさい」と恵みのうちに招かれている存在であることをしっかり受け止めて、信じて、感謝と喜び、信仰をもって神様の愛と真に応答することが各自に求められていることを覚えてゆきたいと思います。
わたしたちは、教会の家族の誰かの陰に隠れて、誰かに甘えながら、誰かに依存しながら神様の恵みに応答をしてしまうところがあるかと思います。とても消極的な応答です。もっと厳しい言い方をすれば、応答するよりも、恵みを受け続けて、積極的な応答はしないと決めて人もいる。最初はそれで良いかと思いますが、神様の愛とイエス様の言葉によって日々養われてゆきますと何かしらの成長があるかと思います。成長の歩幅は人それぞれ違いますが、その成長過程の中で、恵みへの応答にも変化があるのが自然ではないかとも思います。
さて、詩編51編は、詩編の中にある7つの「悔い改めの詩編」と呼ばれるなうちの一つです。その7つとは、4、32、38、51、102、130、143です。神様の愛、罪の赦し、神様との和解を得るためには、イエス・キリストという救い主、仲介者、養ってくださるお方が必要です。しかし、その愛と赦しと救いを受け取るためには、わたしたちは変えられなければならないのです。新しく変えられることを神様に求めなければならないのです。
人間関係で苦しむことが多くありますが、その原因として考えられる一つは、「わたしは変わらないけれど、あなたが変わって」と身勝手な要求をし合うことです。そのような中で摩擦が起こり、人間関係が破綻してしまうことがあります。神様に対して、「わたしは変わらないけど、神よ、わたしを愛し、すべての必要を満たしてくれ」と言えるでしょうか。言えなくもありませんが、そういう人は神様の愛を受けたくてもたぶん受け取れないでしょう。
何故でしょうか。それは心に大小たくさんの穴が開いているからです。心に穴が開いているので、神様の愛が豊かに注がれていても、それを受け止めることができない、すべてどこかへ流れ出てしまいます。その無数の穴を塞ぐ術はわたしたちにはありません。穴があまりにも多過ぎて、応急処置もままならないのです。ですから、いつも心に飢え渇きを感じ、満たされない思いに悩み苦しむのです。それでは、どうしたら神様の愛を受け取ることができるのでしょうか。まず自分の弱さを認めて、神様に助けを求めて叫ぶしかありません。
イスラエルの王ダビデは、神様に忠実に従い、多くの功績を残した人でもありましたが、その心の弱さから、神様に対してたくさんの罪を犯した人でもありました。その罪の中で筆頭に挙げられるのが、自分の欲を満たすために部下を殺し、その妻を略奪するという罪を犯しました。興味のある方は、サムエル記下の12章をお読みください。ダビデがどのような罪を神様に対して犯したかがよく分かり、非常に驚くというかショックを受けると思います。
しかし、もっと驚くのは、そのようなダビデを神様はそれでも愛し続け、神様のご用のために用いようとされるということです。けれども、神様はダビデを罪あるままに用いようとはなさいません。預言者ナタンをダビデのもとに遣わし、彼の罪を指摘し、悔い改めるように促すのです。そして、罪を悔い改めるダビデに神様は新しく清い心を創造して与え、その心に神様の霊を豊かに注がれるのです。ですから、わたしたちにも自分の弱さ、神様に対する罪を認めて、神様の憐れみと救いを求めて叫び必要があることを詩編51編は教えます。
3節から5節でダビデは、「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。 わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。」と叫んでいます。神様への背きの罪、咎、罪を、拭い去ってください、洗ってください、清めてくださいと叫んでいます。自分にはそのような力はなく、神様のもとに罪を赦す力と憐れみがあることをダビデは知っています。悔い改めの第一段階は自分の弱さ、罪を認めて謝り、神様の憐れみ、助けを求めることです。6節では、ダビデは「神は正しく、その裁きには誤りがありません」と素直に認め、神の裁きに委ねると言っています。
7節で、ダビデは「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときもわたしは罪のうちにあったのです。」と言っていますが、誤解を生むような言葉に聞こえますが、そうではありません。これは自分をみごもった母親に自分の罪をなすり付けるような身勝手な言葉ではなく、生まれながらにして罪を持つ自分の罪深さを表現する言葉です。
少し飛んで9節に、「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。」とありますが、「ヒソプの枝」とは罪・汚れを洗い清めるユダヤ教の儀式で用いられていたもので、罪の汚れから完全に、雪のように白く清められたいと願いが表れています。11節の「わたしの罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください。」も同じ願いです。神様に懇願するしか術はないのです。
12節はこの詩編51編の中心的な叫びです。ダビデは、「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。」と叫び求めています。ダビデが神様に求めているのは罪からの回復、神様との和解だけではなく、自分の心が神様の憐れみによって新しく、そして清い心として創造されることなのです。ダビデは知っています。古いままの心では、誘惑にまた負けて罪を犯す可能性が十分にありますから、「神様、わたしに新しい心を創って与えてください、そしてその新しい心に神の霊を授けてください」と祈り求めるのです。ダビデにとって耐え難いことは、13節にあるように、神様の御前から退けられ、神様の愛を、霊を取り上げられることであったのです。
皆さんには、このダビデの求めは神様に対して遠慮のない身勝手なものに聞こえるでしょうか。神様に申し訳ないとお感じになられるでしょうか。しかし、よく考えてください。神様以外に誰がわたしの弱さをつつみ込み、わたしの罪を赦し、罪から救い出し、死の恐れから解放するためにご自分のひとり子を十字架上で見殺しにするお方がおられるでしょうか。
本当に申し訳ないのは、神様の愛と赦し、イエス様の愛と命を拒んで受け取らないで、闇の中に生き続けることではないでしょうか。罪のために心に穴がたくさん開いていて、神様の愛を受け取れない自分が最も哀れではないでしょうか。それがわたしであり、わたしたちなのです。しかし、神様はそのようなわたしたちにイエス様をお与えくださり、十字架上でその愛を示してくださいました。イエス様はわたしたちの内に清い心を創造し、神様の霊を豊かに与え、神様の豊かな愛のうちに生かすために十字架の道を歩んでくださったのです。
わたしたちに、すべての人に新しい心を創造し、清い心を与えてくださり、愛を注ぐことが出来るのは神様とイエス様だけです。イエス様の血潮によって新しくされた心に神の霊を注ぎ、喜びと平安、感謝と希望を与え、主を喜び祝う声、賛美を与えてくださるのも神様であり、イエス様です。この豊かな愛に打ち砕かれた心で神様とイエス様を賛美し、イエス様を証して生きてゆくことが、豊かな恵みに対するわたしたちの応答ではないでしょうか。どのように神様とイエス様の愛に応え生きてゆくべきかを祈り求めながら今週も歩みましょう。