「私たちの悲しみを喜びに変えるための道」三月第一主日礼拝 宣教 2026年3月1日
ヨハネによる福音書 16章16〜24節 牧師 河野信一郎
おはようございます。2月があっと言う間に過ぎ去り、今日から3月に入りました。最近は暖かい日と冷たい雨の日が交互に来たりして、体調を崩されている方々もおられます。また、暖かくなったので、スギ花粉の飛散量が連日多くてマスクが欠かせない方々もおられます。今週も雨が降るそうなので、日々守られますようにお祈りいたします。そのような中、今朝も皆さんとご一緒に賛美と礼拝を神様におささげできる幸いを主に感謝いたします。
さて、今年は、東日本大地震から15年目を迎えます。わたしは、被災した石巻市牡鹿半島の住民への炊き出し支援で2度、それ以外にも仙台と郡山へ2度支援にいきました。大久保教会から音楽主事を岩手の盛岡教会と大槌町の仮設住宅へ派遣しましたし、教会員の方が津波の被害に遭われたご家庭の家屋から泥のかき出しのボランティアへ行ってくださいました。牡鹿半島にある荻浜小学校での炊き出しに参加し、片付けが終わって帰路につく際に、婦人の方々がわざわざ外に出てきてくださり見送ってくださいましたが、皆さんの「本当にありがとうね!わたしたちのことを忘れんでね!」と言われた言葉を今でも思い出します。
ご親戚が被災されたという教会員におられますし、東京電力福島原子力発電所の大事故も未だに収束していません。そういう中、わたしたちは、来る8日の礼拝を「3.11を覚える礼拝」としておささげし、岩手、宮城、福島の各地に立てられている3つのキリスト教会のために祈り、支援金を献げます。これらの教会は、ご自分たちも被災者なのに、今もなお被災者の方々に寄り添っておられます。年間を通して支援金がすでに4万円が献げられていますが、もし御心であれば、各教会に3万円ずつお送りしたいと願っています。今週、ぜひお祈りに覚えてください。来週11日には東久留米のCAJでメモリアルコンサートがあります。掲示板で詳細をご覧いただき、参加くだされば主催者のPMさんも喜ばれることでしょう。「わたしたちのことを忘れんでね!」との声が今も被災地にあることを覚えましょう。
さて、わたしたちは今年の受難節・レントを只今過ごしています。この期間は、イエス様がわたしたちの身代わりとして十字架に架かって贖いの死を遂げようとエルサレムに向かわれた道、十字架への道を忘れない、覚えるという期間です。このイエス様の贖いの死がなければ、イエス様の復活もありません。復活がなければ、わたしたちの救いはありません。この教会も、この礼拝も、わたしたちの存在も、この教会を通して与えられた出逢いもありません。すべては神様とイエス様の愛による恵みなのです。その恵みを覚えるのが受難節です。
そのような中、ヨハネによる福音書の13章21節から16章33節まで続く、十字架の死を前にしたイエス様が弟子たちに語られた決別説教に聴いています。これは、イエス様の遺言と捉える事ができる言葉です。先週は14章1節から14節を通して、イエス様ご自身がわたしたちを神様のもとへ導く「道」であり、「真理」であり、「命」であることを聴き、イエス様に従うことが神様の御心であり、招きであることを聴きましたが、今朝は16章16節から24節を通して、わたしたちの不安や恐れ、痛みや悲しみを大きな喜びに変えるために、イエス様は十字架の道を歩んでくださったということをご一緒に聴いてゆきたいと願っています。
このヨハネ福音書の13章21節から16章の最後までに記されていますイエス様の言葉、地上に残していく弟子たちに対するイエス様の言葉をこの受難節中に何度もご自分で読んでいただきたいと思いますが、ここには弟子たちに対するイエス様の愛が随所に散りばめられています。イエス様を信じるがゆえに弟子たちが今後経験する痛みや悲しみ、厳しい迫害やユダヤ社会から追放されて生活基盤を失うという苦しみを味わうことをイエス様は知っておられたので、イエス様は十字架と向き合う前に弟子たちと向き合われ、最後の励ましを与え、続く17章では、弟子たちの信仰がなくならないように心を注いで神様に祈るのです。
しかし、そんなにもイエス様に愛され、教えられ、導かれているはずなのに、弟子たちはイエス様の心が分からないのです。自分たちの事ばかりを考えているのです。わたしたちは、イエス様の心が分かっているでしょうか。もし分からないのであれば、それは自分の事しか常に考えていないことの証明であると思われます。しかし、そのようなわたしたちでも、弟子たちをも、イエス様は忍耐と祈りをもって愛してくださり、「わたしの心、神様の御心を知るためにわたしを信じなさい」と招き、励ましてくださるのです。
イエス様は弟子たちに対して、16節、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」と謎めいたことを言われますが、弟子たちは、17節と18節、「そこで、弟子たちのある者は互いに言った。『「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」とか、「父のもとに行く」とか言っておられるのは、何のことだろう。』 また、言った。『「しばらくすると」と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。』」とモヤモヤとした感情を抱きますが、誰もイエス様に質問しません。
それぞれ質問したいという思いがあっても、中々質問しません。何故でしょうか。それは、弟子たちの心の中に真実を知りたくないという不安や恐れがあったからかもしれません。あるいは、くだらない質問をして恥ずかしい思いにさせられるかもしれないという計算があったからかもしれません。あるいは、イエス様の心を充分に受け止めるだけの信仰が自分にはないと自分の不甲斐なさに後ろめたさを感じていたからかもしれません。
しかし、イエス様は弟子たちの心が分かります。19節、「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。『「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。』」と言われます。これは弟子たちの自己中の心を咎めているのではありません。むしろ、不安と恐れの中にある弟子たちを心配して、「分からないことがあればすぐにわたしに尋ねなさい。自分たちだけで悩む必要はない。目の前にわたしがいるではないか。」と優しく励ます言葉です。イエス様というお方は、常に愛に満ち満ちたお方なのです。
イエス様は弟子たちにいつも真理・真実を語ります。20節、「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」と弟子たちに宣言します。「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。」とは、イエス様が捕えられて十字架に死ぬことをあなたがたは嘆き悲しむが、神様から遣わされた救い主を信じない者たちはイエス様を十字架上で殺したことを喜ぶ。」と言うのです。
しかし、イエス様は「神様の御心は違う、神様の救いのご計画は浅はかな人間の思いとは大きくかけ離れている」と言われるのです。確かにユダヤの指導者たちの思惑通りにイエス様は十字架に架けられて殺される。しかし、ただ無惨に殺されるのではなく、わたしたちがこれまで神様に対して犯してきた罪の代価を支払うためにイエス様は十字架の死を選び取ってくださり、命を与えてくださる。
しかし、イエス様の死はそれで終わりではない。父なる神様が御子イエス様を甦らせ、その復活したイエス様が弟子たちの前に現れてくださり、弟子たちを、そしてわたしたちを、耐え難い悲しみから、罪悪感という痛みから解放してくださり、その代わりに大きな喜びで満たしてくださると言う約束・希望がここにあるのです。
イエス様は弟子たちの苦しみと出産の苦しみを重ねています。21節、「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」とイエス様は言われます。 出産の時には大きな苦しみと痛みを経験するが、いざ子どもが誕生すると大きな喜びと感謝で満たされ、出産時の苦痛を思い出さない。一時の苦痛が永遠に続く喜びへと一瞬で変えられる時が来る。もうそこまで来ているとイエス様は弟子たちに言われます。
22節と23節で、「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」とイエス様は弟子たちに言われますが、ここに素晴らしい主の約束が二つ与えられています。
まず、1)いま悲しんでいるわたしたちに復活の主イエス様が歩み寄って出逢ってくださり、この出逢いを通してわたしたちの心は神様の愛と平安で満たされ、その喜びを奪う者はいないという約束です。この約束はイエス様の伴いとご聖霊のお守りによって果たされ続けます。そして、2)イエス様の御名によって祈る者に神様は必ず応えてくださるという約束です。イエス様を通して神様にお祈りできることは恵みであり、キリスト者の特権です。この恵みに感謝し、この特権をフルに活用しないことはもったいないことです。
十字架の死を目前にされているイエス様は、24節で、「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」と不安の中に置かれている弟子たちに、そして現代において多くの悩み苦しみのあるわたしたちに、「祈りなさい。そうすれば、救いの道が与えられ、あなたの心は喜びで満たされる」と励ましを与えてくださっています。
今朝、神様は、十字架の道を歩まれるイエス様を通して、わたしたちの目の前に立ちはだかる問題に悩まされ、不安や恐れや悲しみのうちに生きるのではなく、イエス・キリストを通して与えられる大きな喜び、復活の命に生きなさいと招いてくださっています。疑い迷うわたしたちをそれでも愛してくださる神様とイエス様の愛を受け取って、今週も、これからも主の愛と恵みのうちに生かされましょう。それが神様とイエス様の心からの願いなのです。
