わたしたちの献身とは

「わたしたちの献身とは」 神学校を覚える礼拝  宣教要旨  2014年6月29日

ヨハネの第一の手紙3章16〜18節      牧師 河野信一郎

 神学生と神学校を覚える中で、「献身」ということを考えたいと思いますが、特別な人が特別な任務に着くことが「献身」することではなく、一般人がごく一般的なことをする時もそれぞれが「献身」しているのです。つまり、わたしたちは何かしらに献身して生きているのです。

 その「何かしら」というのは人によって異なりますが、わたしたちが心から大切にし、愛しているものに「献身」しているのです。あなたが心から大切にし、愛する「献身の対象」は何でしょうか。配偶者、子ども、親や孫、恋人や親友、仕事や趣味と種々多様であると思います。愛しているものは一つと限らず、一度に複数あるでしょう。それがわたしたちの「献身」です。

 ある人は配偶者に献身します。何十年も連れ添って、お互いのために生きますが、いつか地上での別れを迎えます。ある人は子や孫に献身的になり、愛とお金と時間などを惜しみなく注ぎますが、子たちは成長してゆき、手元から巣立ってゆきます。ある人は仕事に打ち込み、事業や会社に献身的に働きますが、いずれ定年を迎えます。定年後に趣味を見つけるのは難しいかもしれませんし、趣味も色々と変わるかもしれません。大切な友たちとも別れを迎えます。

 どんなに心を尽くして愛しても、時間や富みを注いでも、わたしたちが献身してきたものは、この地上のものは永遠に続きません。大切にすればするほど、愛すれば愛するほど、それを失った時の寂しさ、悲しさ、やるせなさは大きいのだと思います。そういう中で「自分の人生はいったい何であったのだろう」と頭を抱えてしまう人もいると思います。ですから、わたしたちに重要なことは、永遠に残るもの、永遠に続くものに献身するということです。

 それでは、「永遠に続くもの」とは何でしょうか。旧約聖書は、神の永遠の約束・契約が永遠に続くものであると伝えています。主なる神はアブラハムに対して「あなたを祝福し、あなたの子孫を祝福する」と約束され、アブラハムも信じて従いました。この約束は、ユダヤ人だけでなく、神の子・救い主イエス・キリストを通してわたしたちにも与えられています。

 この祝福の約束を信じて、心と精神と力と思いを尽くして神を愛してゆく、礼拝して仕えてゆくことがわたしたちの献身であり、永遠の契約に生きることであるのです。

 もう一つ大切なことは、隣人のために生きることです。若者が主イエスに質問しました。「永遠の生命を得るためには、どうしたら良いですか」と(ルカ18:18以下)。若者は、神と隣人を愛し、その他の律法も守ってきたと胸を張るのですが、主イエスは「まだ足りないことがある。持ち物を全て売って、貧しい人々に分け与えなさい」とアドヴァイスしました。しかし、若者は悲しみながら去りゆきました。たくさんの資産を彼は有し、それらに献身していたからです。

 新約聖書は「神の家族・教会」を永遠に続くものとして示します。悔い改めて救い主イエスを信じる人は人種や性別や年齢や生まれた国などに関係なくすべて罪赦され、神の子とせられ、神の家族の一員とされます。ですから、福音を伝えて神の家族を増やして行く宣教の業に献身してゆきましょう。主イエスは、教会に「互いに愛し合いなさい」という戒めをお与えになりました。兄弟姉妹を愛し、神の家族である教会を愛し、献身してゆきましょう。これが永遠の命・祝福につながる道です。この道を世の光であり、御国への道である主イエスが共に歩んでくださいます。キリスト・イエスは十字架上で真の献身とは何かを示してくださいました。行いと真実とをもって私たちを愛してくださいました。故にわたしたちも行いと真実とをもって神と隣人と教会、兄弟姉妹を愛し、祈り、仕えてゆきましょう。それがわたしたちの献身です。