わたしの耳を開く神

「わたしの耳を開く神」 五月第一主日礼拝 宣教 2023年5月7日

 詩編 40編2〜12節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。5月最初の日曜日の朝、共に礼拝をおささげできて感謝です。今年のゴールデンウィーク、少しゆっくり過ごすことができたでしょうか。わたしは、コロナウイルスからも完全に解放され、埼玉の青空の下、長距離の散歩をする二日間をいただきました。雲一つない広い青空を見上げるだけでも、大変リフレッシュされましたが、教会に帰って来ると庭の花々もたくさん咲いていますし、アジサイも咲き誇る準備を着々としているのが見えて本当に感動します。今日の雨は、わたしたちを暑さから少し遠ざけるだけでなく、乾いた土地を潤してくれると信じていますが、今朝、御言葉によって心をリフレッシュされ、喜びと感謝とで満たしていただき、それぞれの持ち場へ遣わされてゆきましょう。

 さて、今朝の礼拝からプログラムが少し変更になりました。3年ほど二部制にしていましたが、一部制に戻りました。オープニング賛美は礼拝の中の賛美として組み込みました。時間短縮という理由で、賛美は2節だけ賛美してきましたが、今朝から1節増やして3節ささげるようにしています。献金だけはこれまでのスタイルを継続し、自由な自分の意思で、感謝をもって献金箱の中へ献げてゆくように今後もいたします。月に一度の主の晩餐式は、礼拝を一旦終了してから、イエス様を救い主と信じる人たちが礼拝堂に残って、イエス様の贖いの死を覚え、クリスチャンとしての地上での使命を再確認してゆきます。他にも色々な変化が今後もあると思いますが、どうぞ神様の愛を身に着けて、祈りつつ、忍耐しつつ、寛容な心で教会の変化を見守っていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 さて、石川県の能登半島で震度6強の大きな地震が一昨日の5日に発生し、その後も余震が続く中、追い打ちをかけるように大雨が降っています。二次災害が起きないかと大きな不安の中に置かれ、不安で眠れない方が多いと聞きました。神様のお守りがあるように祈りましょう。実を言うと、その三日前の2日の夜に連盟の宣教室長からメールがあり、K教会の牧師が先月で辞任されたという衝撃的なニュースが入ってきました。この牧師は、まだ30代後半、とても有能で、真面目な人です。こういうスマートな人がこれからの連盟をぐいぐい引っ張っていって欲しいと願っていましたので、彼の突然の辞任に驚きました。全国的に無牧師の教会がかなり増えています。牧師仲間である友人二人も今まで誠実に仕えてきた教会を3月で辞任しましたので、やるせない思いにさせられました。覚えてお祈りください。

 もう一つ、来週14日の礼拝のことを案内させていただきたいと思います。来週の朝の主日礼拝と夕礼拝のメッセンジャーとして、カールトン・ウォーカー宣教師をお迎えします。カールトンさんとコーネリアさんは、1982年4月に南部バプテスト連盟の国外宣教局から日本に派遣されて以来、41年にわたって札幌と東京で神様の愛であるイエス様を分かち合ってきてくださいました。尊敬する宣教師夫妻は他にも何組もおりますが、わたしにとって、5本の指に入る宣教師夫妻です。流暢な日本語で神様の愛を分かち合ってくださり、心に響くメッセージをしてくださいます。どうぞ覚えて来週の礼拝にいらしてください。

 副牧師は、来る14日、Aバプテスト教会へメッセンジャーとして派遣されます。副牧師のご準備のために、旅が祝されますようお祈りください。主任牧師であるわたしはと言うと、大久保教会でのメッセージの機会は来主日はありませんが、アメリカのGT日本語教会の礼拝でメッセージをライブでします。夜中の1時半です。翌日の15日と16日は、南浦和にある連盟の事務所で泊まりがけの会議です。二日目は早く帰れると思ったら大間違い!なんと19時30分まで会議です。帰宅してから翌日の祈祷会の準備になるでしょう。翌週の21日は、Nバプテスト教会へメッセンジャーとして派遣されます。どちらも無牧師の教会です。今週は、この二つの教会でのメッセージのために準備をしますので、主の励ましとお導きがあるよう覚えてお祈りください。

 さて、もう一つお願いがあります。ここ2・3年、8月から10月にかけて旧約聖書からシリーズでメッセージをしてきましたが、2023年も考えています。2021年はネヘミヤ記から城壁を短期間で再建したネヘミヤのリーダーシップからアフターコロナを見据えて教会の再興の知恵を学びました。2022年は、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻を受けて、ヨナ書をテキストに、わたしたちの抱く怒りは本当に正しいのか、ということを再確認しました。しかし、今年度は少し迷っていますので、皆さんからアイデアを募集したいと思います。皆さんには、旧約聖書の書物をシリーズで聞いてみたいものがありますでしょうか。もしありましたら、ぜひお知らせください。読み込んで、祈って、導きを求めたいと思います。

 さて、今朝は詩編40編の2節から12節をテキストに神様の憐れみを受け取ってゆきたいと思います。他の聖書訳ですと、1節から11節になります。中心となる箇所は7節になりますが、主なる神様はわたしたち一人ひとりの耳を開いてくださるということがテーマになります。「わたしの耳を開いてくださる」とは、果たしてどのような意味なのでしょうか。ご一緒に聴いて行きたいと思いますが、この詩編40編は大きく二つに区分することができます。一つは2節から12節です。詩人はダビデとされていますが、過去に経験した神様の救いと恵みに感謝と恵みへの応答が記されている部分です。もう一つは、13節から18節で、ダビデが現在経験している苦しみと救いを求めて祈る言葉が記されています。

 わたしたちの日常生活は、いつも穏便ではありません。苦境に立たされる時もあります。どのような苦しみがあるでしょうか。ダビデは自分の苦しみを隠すことなく詳らかに告白します。そう言う「潔さ」、素晴らしいと思います。数えきれないほどの悪が絡みつき、自分の罪にも捕らえられ、好転材料が何も見えず、心が挫けてしまっていると言います。外圧だけでなく、自分の内面の弱さとも戦っている様子がうかがえます。また、自分の命を奪おうと狙っている者たち、苦しみに遭わせようと災いを常に願っている者たち、プレッシャーを常にかけてくる者たちに囲まれていると苦境を言い表しています。

 ダビデは、それらの状況を「滅びの穴」、「泥沼」という別の言い方で表現していますが、皆さんは、「滅びの穴」や「泥沼」に足を取られて身動きが取れない苦しい状態にあるでしょうか。形容し難い将来への不安や恐れもあるでしょうし、孤独感や無力感に苦しんでいるかもしれません。自分の努力が報われないばかりか、理不尽にも拒絶されてしまうということもあるでしょうし、信頼していた人から最も簡単に裏切られるという苦しみもあると思います。人間関係もどん底の状態。心も体も疲弊してしまっていて、望みを抱く材料も何もないし、望みを持とう、前向きに生きようと言う気力もなくなっている状態かもしれません。

 ダビデも苦しかったと思います。恥も外聞もすべてかなぐり捨てて、命をつなぐために逃げ回って、岩陰に身を隠し、洞窟で息を殺して耐え続けます。そういう中で、ダビデは神様に対して、「主よ、走り寄ってわたしを救ってください。急いでわたしを助けてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください」と祈り続けるのです。このダビデの叫びが聖書に記されているということは、わたしたちも同じように救いを祈り求めて良いということです。自分の力にだけ頼って生きるのではなく、神様に信頼して、神様により頼んで生きて行ったら良いという救いへの招きであるのです。

 詩編40編2節から12節は、ダビデが過去に経験した神様の救いの業に対する感謝と信頼の言葉です。彼の言葉から、神様はわたしたちをも苦境から救い出してくださるお方であり、この神様に信頼し続けることが日々の生活の中で幸いを得る道であることを知り、この幸いを日々どのように維持しつつ、恵みに応答してゆくべきかを聴いてゆきたいと思います。

 まず2節から4節を読みましょう。「主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ わたしの足を岩の上に立たせ しっかりと歩ませ、わたしの口に新しい歌を、わたしたちの神への賛美を授けてくださった。 人はこぞって主を仰ぎ見、主を畏れ敬い、主に依り頼む」とダビデは信仰を表しています。ダビデの望みは神様にのみということが強調されています。

 人という生き物はとても優柔不断で、これが良いと聞けば一目散にそれを求め、こちらがもっと良いと聞けば、すぐにそちらに鞍替えし、それを日々繰り返しています。しかし、「主なる神様のみ」が、わたしたちに心を傾け、わたしたちの叫びを聞いて救ってくださるのです。そしてわたしたちを滅びの穴、泥沼から引き上げてくださり、堅い岩の上に置いてくださり、恵みを与えて日々力強く歩ませてくださるのです。

 神様にだけ望みをおき、依り頼んで歩んでゆくと、どういう素晴らしいことが次に起こるでしょうか。ダビデは、神様が口に新しい歌を、神様への賛美を授けてくださったと言っています。神様が、わたしたちの心に大きな感動と喜びを与えてくださり、新しい賛美と賛美する力を与え、新しい賛美が湧き上がって来るのです。わたしたちの努力とか意気込みではなく、すべて神様からの祝福、恵みなのです。この賛美を聞く人々の中から、神様の存在を知り、信じ、従う者が起こされてゆくと言っています。ですから、力まないで、自然体のままで良いのです。神様にだけ信頼して歩んでゆく時に、主を賛美し、主を証しする言葉と力が聖霊を通して与えられることを覚えましょう。焦らずに、力まずに、飾らないで、神様の愛を自然体で日々感謝して受けとり、恵みのうちを生かされましょう。

 次の5節と6節には、神様の恵みの豊かさが歌われています。「いかに幸いなことか、主に信頼をおく人。ラハブを信ずる者にくみせず、欺きの教えに従わない人は。わたしの神、主よ、あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいをわたしは語り伝えて行きます。」とあります。ラハブとは高ぶる人のことで、欺きの教えとは神ではない偶像に従うという意味です。

 神様に祝福された幸いな人とは、不思議な業を通して窮地から救い出してくださる憐れみの神を信じ、罪から贖い出し、不自由さから解放してくださる救い主に信頼する人です。それだけではありません。数えきれないほどの愛と憐れみ、計らいをもって生かしてくださる神様を日々喜び、感謝し、自然体で分かち合ってゆく人が幸いな人です。この幸いに生きなさいと招かれていることを喜び、神様の素晴らしい計らいの中に委ねて歩みましょう。

 7節を読みます。「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も、罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」とあります。神様へのささげもの、すなわち礼拝、奉仕、献金は必要ないと言っているのではありません。ここで大切なのは、神様がわたしたちの耳を開いてくださるということです。では、神様は何故わたしたちの耳を開かれるのでしょうか。ローマの信徒への手紙の10章17節に「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉に聞くことによって始まるのです。」とありますように、耳が開かれないと神様の御心を聴くことができないからです。神様の御心を聴いて、その言葉どおりに従順に、素直に生きることが御心であり、供え物やささげ物よりも神様がわたしたちに求めておられることなのです。わたしたちの耳が神様によって開かれ、御言葉に従順に生きることが信仰の基礎であると、この詩編はわたしたちに教えるのです。

 では、神様の愛に救われて、幸いの中に生かされている者のなすべき事は何でしょうか。8節から12節に記されています。常に神様の近くに身を置くこと、御旨を行うことを常に望無こと、そしてイエス・キリストの言葉に聞き従うということです。主日毎に教会に集って、礼拝の中で主を賛美し、共に御言葉に養われてゆく。そして日常生活の中で、神様の真実さと救いの素晴らしさを人々に分かち合ってゆく、自然体のままで交わり、祈り合い、支え合い、共に恵みに与ってゆく、そのような教会生活、信仰生活を歩ませていただきましょう。