わたしは主、あなたの神

「わたしは主、あなたの神」宣教要旨 8月第三主日 2015/08/16

聖書 出エジプト記20章1~7節、マタイによる福音書5章17~18節

 

招詞では詩編1編を読んでいただきました。特に1-2節は次の様な言葉です。

『 いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、 主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。』

口語訳聖書では、「主の教え」は「主のおきて」と訳されていています。

少し古い時代から教会で過ごしてきた方にとりましては懐かしい、「十戒」がその中心でもありました。「十戒」の第一戒は「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という言葉です。

今から70年前までの数年間、日本のほとんどのキリスト教会は、警察官の監視のもと、礼拝の初めに「宮城遥拝」(皇居の方角に向って深く礼をすること)が強制され、天皇を神として崇め、戦争の勝利を祈る礼拝を捧げていました。特に「宮城遥拝」は、意味の分からない子どもたちにとっては、不思議な光景であったとお聞きしたことがあります。

「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」とは、今のわたしたちにどのような問いかけとして聞こえて来るでしょうか。わたしたちは「真の神以外に神を持たない」と、胸を張れるでしょうか。

 

出エジプト記20章2節に 「わたしは主、あなたの神」という呼びかけの言葉があります。イスラエルの民は大勢の人の共同体ですから、本来は、『あなた方は』と複数で呼びかけられるのが正しいはずです。しかし『あなたは』と一人称で呼びかけられているところに、共同体として一つであるようにとの、神の思いが表わされています。

神はわたしたち一人ひとりに、[あなた]と呼びかけられていると同時に、教会を一つと見て、教会共同体に向っても[あなた]と呼びかけ導いていかれます。

教会が、まことの神に向いて一つになるために、わたしたちも多くのエネルギーを使います。しかし、神のなさり方は半端なものではなかったのです。主エスをわたしたちの只中に送り、十字架につけてまでわたしたちを救い,教会の交わりを造ってくださいました。わたしたちは今、その恵の中にいます。わたしたちの労苦を、神のなさり方に比べることが出来るでしょうか。

人間の思いでは困難に思われることも、神は、神ご自身の力を持ってなさいます。主イエスの出来事をどこまでも信じて生きるところに、わたしたちの生き方があると導かれて参りましょう。

日々様々な誘惑の中にあるわたしたちを、神は導いてくださいます。

「わたしは主、あなたの神」と呼びかけてくださる神の声に聴き従ってこの一週を歩ませて頂きましょう。

(平和月間)