イエス・キリストの遺言、その一

「イエス・キリストの遺言、その一」 棕梠の主日礼拝 宣教 2025年4月13日

 ヨハネによる福音書 19章25〜27節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。恵みの雨が降り注いでいますが、今朝もご一緒に賛美と礼拝をおささげすることができて感謝です。ゲストの方々や久しぶりに出席くださっている方々、大久保教会へようこそ!歓迎いたします。教会の皆さん、お帰りなさい。今朝は、棕梠の主日礼拝として神様に礼拝をささげていますが、受難週を土曜日まで祈りの中で歩んでいただきたいと願いつつ、今年も祈りの暦を準備しました。日本語のみですが、どうぞお用いください。

 

先週は、著作権の問題から、礼拝の中で賛美歌などを今後配信できないと言ってご心配をおかけしましたが、神様の憐れみの中、2026年3月末まで特別処置が引き続きなされるということで、今後もライブ配信でご一緒に賛美をささげることができるようになりました。これもすべて神様の憐れみです。主に心から感謝です。この感謝を賛美としてささげましょう。

 

さて、昨日は、大久保教会にとっても初のイベント・エッグハントを戸山公園の芝生広場で開くことができ、子どもたちや親御さんたち、そしてボランティアスタッフを含めて100名以上の参加がありました。木曜日と金曜日に雨が降って、たくさん祈りましたが、憐れみ深い神様が素晴らしく完璧な晴天を与えてくださいました。神様に感謝です。教会に来たことのない子どもたちにイースターの本当の意味を分かりやすくお話しすることは、とてもハードルが高く、土曜日の朝までずっと祈りましたが、神様の憐れみと聖霊の励まし、大勢の方々のお祈りに支えられて、イエス様の十字架と復活について、神様が与えてくださる希望についてお話しすることが出来ました。すべては神様の憐れみ、恵みです。大久保教会の年間標語どおりに、神様の豊かな憐れみを受けつつ、日々歩ませていただけて誠に感謝です。

 

神様から豊かな憐れみを受ける方法、それは神様とイエス様に信頼することです。朝毎に祈りをもって主の憐れみを求めることです。生活の中で、いつも神様を大きくして、自分は小さく謙遜に生きることです。すべての恵みは神様から来ると信じること、イエス様を救い主と信じること、聖書から神様の言葉を聞くこと、神様の愛の中に日々生かされていることをいつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝しつつ歩むことです。自分の知恵や勘や力だけで生きようとしないで、恵みの源である神様にお委ねして歩んでゆくことです。

 

いつものように前振りが長くなりましたが、今朝は「イエス・キリストの遺言、その一」というテーマで、イエス様の配慮に満ちた言葉を共に聞いてまいりたいと願っています。イエス・キリストは、ご自分の十字架の死を前にして、弟子たちに遺言を残されました。今朝は、そのことを覚えてください。「その一」ということは、「その二」もあるわけでして、今朝は、イエス様の遺言はどのような内容であったのかをヨハネによる福音書から聞き、来週20日のイースター礼拝では甦られたイエス様の言葉に聞き、その翌週の27日の礼拝では、復活されたイエス様が天に上げられる前に弟子たちに残された遺言について聞く準備をしています。今朝が、その一となり、27日がその二となりますので、礼拝にご出席ください。

 

個人的なことで大変恐縮ですが、数週間前にアメリカの母から電話がありました。今年の7月で88歳になるのですが、19年間勤め上げた職場を先月退職し、自由な時間が増えたのでしょう、突然何を言い出すかと思いきや、「遺言を書いたから、遺言どおりによろしくね!」と言うのです。しかし、その声は、あと20年は優に長生きするのではないかというパワーと明るさ、希望に満ちた声で言うのです。内容も手短に聞きましたが、その内容に圧倒されました。過去59年間、母に愛され、祈られていますし、心から尊敬しているので、可能な限り望みを叶えてあげたいとは思うのですが、何と申しましょうか、はちゃめちゃと言いましょうか、時空を超えた、まるでファンタジーのような内容ですので、弟妹たちとよく相談して、希望の半分ぐらい叶えてあげて、それ以外は許してもらおうと思いました。笑

 

ご存知でしたか。大久保教会には、葬儀のための遺言の取り組みが任意であります。最近は家族葬が増えましたが、主の許へ召された時に行う葬儀に関して、家族にストレスがないように、また自分の意思や希望を生前に家族と教会にはっきり示すために、このような書類に記入していただいています。このような遺言が有ると無いとでは、ご家族や教会のストレスの度合いがはっきりと分かれますので、関心のある方はお問い合わせいただければと思います。以前に準備された方々は、だいぶ年月が経過していますので更新をお勧めいたします。

 

さて、ヨハネによる福音書を読んでゆきますと、ご自分の死を目前にしたイエス様は、遺言を弟子たちにいくつか残されています。その代表的なものが13章34節です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。」という言葉です。愛する弟子たちが神の家族となってゆくこと、互いのことをいつも思いやり、祈り合い、助け合って共に歩んでゆくこと、これが弟子たちに対するイエス様の願いであり、生前の遺言なのです。これは大久保教会に連なるわたしたちに対するイエス様の願いであり、遺言なのです。

 

他にもイエス様の遺言はあります。14章1節の「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」も遺言です。15章4節の「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」もイエス様の遺言です。16章23節後半の「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、祈り求めるならば、父はお与えになる。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」もイエス様の遺言です。

 

さて、今回は、十字架に架けられて、死が目前に迫っていたイエス様が最後に残された遺言に聴いてゆきたいと願っています。受難週の祈りの暦に、イエス様が十字架上で発せられた7つの言葉を紹介していますが、そのうちの4つは父なる神様へのイエス様の言葉です。もう1つは一緒に十字架に架けられた囚人に対する救いの約束の言葉です。そしてもう一つはヨハネ19章28節の「わたしは渇く」と言う言葉です。

 

この7つの言葉の中で唯一の遺言は、ヨハネ福音書の19章26節と27節の言葉です。25節から読みたいと思います。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」とあります。

 

親にとって、子どもが自分よりも先に死を迎えることは耐え難い苦しみです。子にとって、親に対して子どもの責任を果たせずに、親よりも先に死を迎えることは大きな痛みです。イエス様にとっても、残してゆく母のことが気がかりであったのです。25節には、「その母と母の姉妹」とありますので、母マリヤには姉か妹がいたことが分かります。また、イエス様には、ヨセフとマリヤの間に生まれた異父弟妹が複数人いました。

 

しかし、そのような肉親や親戚に母親のことを依頼するのではなく、母マリヤに対しては、「お母さん、今あなたのそばにいる彼を息子だと思って頼って生きてください」と言われ、「愛する弟子」というのはヨハネのことでしょう、ヨハネに対してイエス様は、「この母をよろしく頼みます」と言われるのです。しかし、なぜイエス様は、肉親ではなく、弟子のヨハネに母親の世話をして欲しいと願い、遺言を残されたのでしょうか。家族や親戚が親のお世話をすべきと普通に考えるのではないでしょうか。しかし、イエス様には他の考え、憐れみに満ちた配慮があるように思えます。

 

まず、イエス様が弟たちに依頼しなかったのは、彼らはまだイエス様を救い主と信じていなかったからです。彼らがイエス様を救い主と信じてクリスチャンになったのは、イエス様のご復活の後、エルサレムに教会が誕生した頃と考えられています。また、母マリヤの姉妹ということは、彼女たちの年齢は近かったと思われます。そうなると、彼女たちの晩年は、今日でいう「老々介護」になり、お互いの負担が大きくなるばかりです。そういうこともイエス様は加味しながら判断されたのでしょうか。

 

ここで大切なことは、信頼のおける弟子に大切な母を託すことがベストと考えての遺言であったと思われます。しかし、なぜ血縁関係ではなく、弟子に託すのでしょうか。それは神様の愛は血縁関係よりも強いからです。大久保教会には、性別も、生まれ育った国も、言語も、人種も違う人たちが集められて、一つの教会とされ、一緒に礼拝をささげています。わたしたち大久保教会をキリストのからだなる教会、神の家族とならしめているものは何でありましょうか。

 

それは、母マリヤと弟子のヨハネが、悲しみの中でたたずみながら見上げる十字架の上で、苦しみ悶えながらも愛する母親のために最大限の配慮をされているイエス様の贖いの血潮です。イエス様の命と引き換えに与えられた新しい命です。わたしたちは、大久保教会は、イエス様の十字架によって、神様の憐れみによって神の子とされた恵みによって、神様につなげられ、神様の愛によって神の家族として召されているからです。

 

血縁関係よりも、イエス様の血潮と命によって神様の憐れみに生かされているからこそ、わたしたちは互いに愛し合うことができるのであり、覚え合い、祈り合い、支え合い、仕え合うことができるのです。イエス様が十字架上で残された遺言は、わたしたちを信頼しての言葉です。わたしたちは互いに愛し合う者としてイエス様に信頼され、互いに愛し合うための愛が神様から絶えず注がれているのです。

 

日々の生活の中で悩み苦しむことがあったら、人を愛することに疲れたら、わたしたちの身代わりとなって十字架に架けられて苦しんでいるイエス様を見上げましょう。イエス様の苦しみはわたしたちのための苦しみなのです。主に感謝いたします。生き生きと恵みに応答する者、教会として歩んでまいりましょう。