イエス・キリストの遺言、その二

「イエス・キリストの遺言、その二」 四月第四主日礼拝 宣教 2025年4月27日

 マタイによる福音書 28章16〜20節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。昨日からゴールデンウィークが始まり、ある方々は11日間の休暇があるとのこと。しかし、主の日を大切にされる皆さんとこのように礼拝をおささげできる幸いを主に感謝いたします。教会の家族の中には、体調を崩されたり、疲労が溜まっておられる方々がおられると聞いております。主の憐れみがありますようにお祈りいたします。

 

さて、二週間前に、「イエス・キリストの遺言、その一」というタイトルでメッセージさせていただきましたが、その遺言はイエス様が十字架で贖いの死を遂げようとされている只中で残されたものでした。今朝のメッセージは、「イエス様の遺言、その二」でありますが、死に勝利されて甦られたイエス様が天に上げられる直前に愛する弟子たちに残された遺言です。キリスト教会では「大宣教命令」と呼ばれるものです。この遺言は、すべてのクリスチャン、すべての教会に平等に与えられているイエス様の願いです。その願いがどのようなものであるかをご一緒に聴いてまいりましょう。

 

先週のイースター礼拝では、マタイ福音書28章1節から10節に聴きました。週の初めの日の朝にイエス様の亡骸が葬られた墓へ来た女性の弟子たち、マグダラのマリアともう一人のマリアに天使が現れて、「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』」と言われた箇所に聴きました。マリアたちは天使の言葉通りにイエス様が復活されたという天使の宣言を弟子たちに報告し、イエス様がガリラヤで待っておられることを伝えました。

 

16節を読みますと、「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。」とあります。もちろん、マリアたち女性の弟子たちも一緒に登ったことでしょう。甦られたイエス様に再会できるとエルサレムからガリラヤへの道を急いで進み、ワクワクしながら指定された山を登って行ったことでしょう。17節を読みますと、彼らは「イエスに会い、ひれ伏した。」と記されています。多くの弟子たちは、男女問わず、イエス様との再会を喜び、イエス様の前にひれ伏して拝むのです。その喜びと感動は大きかったことでしょう。それまで彼らが持っていた不安や恐れが一気に吹き飛んだことでしょう。

 

しかし、17節の後半には、「しかし、疑う者もいた。」と記されています。復活の主イエス様の姿を見ないでいるならば、疑っても致し方ないと思いますが、目の前に甦られたイエス様が現れて、その姿を見ても疑うというのはどういうことでしょうか。ギリシャ語原文を読みますと、マタイは「疑う者」を複数形で記していますので、弟子たちの中に疑う者が複数人いたことは確かです。では、マタイは何故このような疑う者の存在を記したのでしょうか。それは、復活という出来事が知性知能を持ったわたしたち人間にとって、いかに受け入れ難いものであるかを示していると思います。

 

大半の人々は、「人間も、動物も、いつかは死ぬ、それで終わり」と信じ込んでいるので、死者の復活などあり得ない、作り話だと思い込み、復活を受け入れないのです。それが「疑う者」たちであり、そういう人たちがイエス様の弟子の中にいたということがここに記されています。マタイが伝えたいことは、復活を信じることは大変困難であるということです。

 

しかし、もし復活を疑う者が復活を信じる者へと変わることができる方法があるとしたら、それは何でしょうか。それは簡単に諦めないで求め続けるということです。マタイによる福音書7章7節〜8節では、イエス様が「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」と励ましと約束を与えます。

 

さて、わたしたち人類の罪を贖うために十字架で死なれたイエス様を父なる神様が三日目に甦らせ、罪と死に勝利されたイエス様に天と地の一切の権能を授けます。この主なるイエス様、王なるイエス様、権能を持ったイエス様が弟子たちに三つの命令を出します。わたしは、それらを復活されたイエス様の「遺言」と理解したいと思っています。

 

一つ目は、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」という遺言です。イエス・キリストの福音を全世界に出て行って、人々にイエス様を紹介しなさい、そしてその人たちをイエス様につなげて、イエス様に従う者にしなさいというものです。自分は何者であり、何のために生き、どこに向かって生きている者であるかが分からない人たちにイエス様を通して神様がいかに深く愛してくださっているかを伝えなさい。イエス・キリストを信じて従う時に、自分は何者であり、何をなして生き、どこに向かって生きるのかがはっきり分かるようになると励ましなさいとのイエス様の遺言です。イエス様を紹介しないで、人々はどうしてイエス様を信じ、神様の愛に生かされることができるでしょうか。

 

ここに神様の愛を受け取る救いへのプランがあります。まずイエス様の福音を聞く必要があります。そしてその福音を通してイエス様を救い主・キリストと信じます。イエス様を信じて従う前に、これまで神様に背いて生きてきたことを認め、悔い改め、その罪を神様の前に告白する必要があります。自分の間違いを認めないとその人の罪は赦されないのです。

 

イエス様は、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさいという二つ目の遺言を弟子たちに残します。イエス様を救い主と信じ、自分の罪を悔い改め、信仰を告白すると、バプテスマを受けます。これは自分の信仰を神様と人々に公にすることです。イエス様の正式な弟子となることです。今後はすべてを神様とイエス様に委ねながら、それでも自分に出来ることは率先して成してゆく、神と人に仕えてゆくということを公に宣言することです。

 

この決心ができないので、多くの方々はバプテスマを受けることを躊躇、先延ばしにします。どうしてでしょうか。やはり、決心することが難しいからです。イエス様に従う人生と従わない人生を天秤にかけて、どちらが自分に得かを計算するからです。しかし、計算しても分からないので、イエス様を信じて従うことを躊躇ったりするのです。サタン・悪魔は信じようとする人々をイエス様から引き離そうとあらゆる手を尽くして誘惑してきます。イエス様に従うわたしたちクリスチャンの役目は、そのような方々に寄り添い、愛と祈りをもってイエス様につながることをサポートすることです。

 

三つ目は、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」という遺言です。ある方々は、バプテスマは信仰が完成した証だと勘違いをされることがありますが、そうではありません。バプテスマはイエス様に従う決心の証であり、クリスチャンの第一歩なのです。ゴールではなく、スタートなのです。そこからイエス様の言葉・教えを学ぶことが始まり、イエス様にしっかりつながることができ、クリスチャンとして成長してゆき、神様とイエス様の喜ばれる人生を歩み、日々の生活の中で良い実を結び続けてゆけるのです。

 

この信仰の歩みと学びはずっと続きます。確かに人生の中では困難なことにもぶつかりますが、イエス様に従うことは喜びとなり、生きる力、希望となるのです。なぜ喜びの人生と言えるのでしょうか。それはイエス様の約束があるからです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束です。イエス様は無責任に遺言を残されるわけではありません。その遺言を守れるようにイエス様が共にいて助け導いてくださるのです。そのためにも、イエス様は甦られたのです。そのために神様はイエス様を復活させたのです。

 

マタイによる福音書は、天使がマリアの夫ヨセフに夢の中で御子イエスの誕生を告げ知らせた時、1章23節ですが、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」その名は、『神は我々と共におられる」という意味である』との宣言があります。そして福音書の最後の28章20節で「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とイエス様の宣言、約束で終わっています。

 

これは偶然ではなく、イエス・キリストこそが「神はいつもあなたと共にいる」という神様が旧約の時代に約束をされたことを成就した救い主であることをわたしたちに伝えるための手法です。神様が御子イエス・キリストを通してご自分の約束を果たすという、神様の愛の真実さを表す言葉が、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束の言葉なのです。そのような真実な神様に愛され、イエス様を通して新しい命につながれていることを信じ、感謝し、喜びながら、イエス様の遺言を共に守ってまいりましょう。