イエス・キリストの3つの願い

「イエス・キリストの3つの願い」 3.11を覚える礼拝 宣教 2026年3月8日

 ヨハネによる福音書 17章20〜26節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝も皆さんとご一緒に礼拝をおささげすることができて感謝です。今年の受難節を2月18日から過ごしていますが、今週はその3週間目です。そのような中、今週水曜日には東日本大震災から15年目を迎えますので、今朝の礼拝は「3.11を覚える礼拝」としておささげし、東北の被災地に建てられている3つの教会を覚えてお守りと祝福を神様に祈ります。わたしたちの祈りがただの思いと言葉だけにとどまらず、被災地に立てられている諸教会を支援することへとつながることを、わたしは神様に祈っています。

 

一昨日の朝日新聞の記事によりますと、2020年以降、岩手県と宮城県の23市町村で、被災者が孤立しないために見守る支援事業体があったそうですが、今月末でその70%の15の事業体が支援を終了するとのことです。理由は、国からの支援が打ち切られるからだそうです。一方で、8市町村は4月以降も独自に支援を存続させるそうです。これは、わたしたち大久保教会への問いかけでもあります。大久保教会は、いつまで東北の被災地にある3つの教会を覚えて祈り、支援し続けるのか。少なくとも、牧師が変わるまで支援を続けるでしょう。震災直後に炊き出しに行って帰る前に、「わたしたちのことを忘れないでね!」と言われた方々の言葉がわたしの心にまだ今も残っています。それは個人的なことかもしれない。

 

ですから、「教会としてではなく、個人で支援した方が良いのでは」とのお考えをお持ちの方も皆さんの中にはおられるかもしれません。そういう中で、皆さんに一つ質問です。キリスト教会という信仰共同体は、何故存在するのでしょうか。イエス様を信じる者たちが、みんなそれぞれが各自の信仰で神様に礼拝をおささげしたら良いのではないかというロジックです。しかし、神様が、イエス様が、聖霊が教会を誕生させたのです。神様の御心である神を愛し、隣人を愛し、イエス様の十字架と復活の福音を全世界に宣べ伝えるためには教会が必要だからです。イエス様を救い主と信じる者たちが集い、共に礼拝をささげ、祈りや交わりを通して共に成長し、神様が期待されている聖霊の実を結ぶために教会が必要なのです。

 

わたしたちの教会も色々な意味で大変は大変です。しかし、都心よりももっと高齢化が進み、人口流失が加速し、国からの支援も打ち切られる被災地にある教会はもっと大変なのです。岩手の教会も、宮城の教会も、福島の教会も、わたしたちの教会以上に大変なのです。わたしたちはそのことを忘れてはなりません。被災地にある諸教会を支援し続けることを通して、それらの教会を励まし、福音が伝えられるように支援することが神様の栄光をあらわすことになりますから、大久保教会の使命の一つにして大切にしたいと思うのです。

 

さて、受難節を過ごす中で、わたしたちの身代わりとなって十字架への道を歩んでくださり、十字架を目前にされているイエス様の言葉をヨハネによる福音書から聴いています。先々週は14章から、どのようなことがあっても「心を騒がせるな」という主の言葉とイエス・キリストが神様のもとへ導く「道」であることを聴きました。先週は16章から、日々の生活の中で嘆き悲しむことがあっても、イエス様がその悲しみを喜びへと必ず変えてくださるという約束の言葉を聴いて励まされました。これらのイエス様の言葉は、13章21節から16章33節までに記録されているイエス様の弟子たちへの決別説教の中にある言葉です。

 

この決別説教が終わるとイエス様は心を神様に向けられます。1節に「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。」とありますが、「天を仰ぐ」とは神様に祈りをささげるということです。わたしたちも、イエス様を通して、天を仰いで神様に祈ることが許されていますし、祈りへと招かれています。絶えず祈りなさいと励まされています。神の子であられるイエス様が父なる神様に絶えず祈られるのですから、祈りがどれほど重要かつ、大きな力であるかが分かると思います。わたしたちはいつでも、どこでも、イエス様の御名によって祈ることができます。神様へのアクセスをイエス様が開いてくださったからです。

 

この17章全体は「大祭司の祈り」と呼ばれるイエス様の祈りです。大祭司とは、民衆に代わって神様に犠牲をささげる役目を持つ者であり、神様と人々の間に立って執り成す者ですが、イエス様は弟子たちと最後の食事をとり、その中で弟子として生きてゆくために必要なことをお話しされた後、祈りの中でどのようなことを祈られたのでしょうか。今朝のメッセージのタイトルを「イエス・キリストの3つの願い」としましたが、神様に祈る中で、イエス様は基本的に3つのことを祈り求めておられます。

 

順番が交互しますが、6節から19節にあるイエス様の神様に対する願いは、地上に残してゆく弟子たちのための執り成しの祈りとなっています。「父なる神様、わたしが弟子たちといる時は、わたしが彼らを守りましたが、わたしが離れる時、あなたが彼らの信仰を守り、一つにつなぎ止め、あなたの愛の証人として生きられるようにしてください。真理によって彼らを聖なる者としてください。」と祈り求めておられます。

 

「聖なる者とする」とは、神様の御用のために特別に分けられるということです。わたしたちを聖なる者に変えることができるのは神様の愛、御言葉、真理だけです。神様の御用とは何でしょうか。18節に「(父なる神様が)わたしを世にお遣わしになったように、わたしも弟子たちを世に遣わしました。」とありますが、イエス様の十字架と復活に現されている神様の愛と救い、永遠の命の福音を人々に伝えるためにわたしたちは世に派遣されています。

 

祈りの最初の部分、1節から5節では、イエス様はご自分のために父なる神様に祈られます。しかし、これは自己中心的な祈りではありません。弟子たちよりも自分を愛していたという証しでもありません。確かに自分の事しか考えない、自分だけを愛する人の祈りは、自分の事ばかりで長い祈りです。しかし、イエス様のここでの祈りは、自分のことが最も短く、長いのは弟子たちのための執り成しの部分、そして教会のための執り成しなのです。

 

さて、イエス様は天を仰いで最初に何と神様におっしゃったでしょうか。「父よ、時が来ました」と言われたのです。この「時」とは、罪人であるわたしたちの代わりに十字架に架けられ、罪を贖うために命を捨てる時、信じる者たちに新しい命、永遠の命を与える時が来ましたということです。それは、神様の御心が、願いが成就する時が来ましたということです。神様の愛がはっきりと示されるということです。ですから、最後の最後まで、父なる神様の御心を忠実に行えますように、どうぞ助けてくださいとイエス様は願っておられるのです。わたしたちを救うために、わたしたちを愛するがゆえに、イエス様は父なる神様の臨在と助けを求めて祈られるのです。決して自分のためだけに祈っているのではないのです。

 

それでは最後にイエス様が教会のために祈られた部分に聴いてまいりましょう。20節と21節前半でイエス様は、「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」と神様に願っています。興味深いことに、21節から23節を読みますと、イエス様は4回も「一つ、一つに」という言葉を発しておられます。イエス様を救い主と信じるわたしたちが一つの教会となり、諸教会が一つになって協力してゆくことがイエス様の願いであり、神様の御心であると示されます。わたしたちが一つになる目的、それは福音宣教のためであり、神様の栄光をあらわすためなのです。

 

それでは、どのように一つとなってゆくのか。その「道」が必要となりますが、もうすでに与えられています。「道」は、イエス・キリストです。わたしたちが一つの教会となるためには、一人ひとりがイエス様を心から信じて、神様がイエス様の内におられ、イエス様が神様の内におられるように、わたしたちも神様とイエス様の内に生きること、主に信頼して、主のご臨在の中を歩ませていただき、御言葉に日々聴き従って生きることです。イエス様は「弟子たちもわたしたちの内にいるようにしてください。」と神様に願い求めています。わたしたちの祈りも、神様の愛に日々生かされていることを忘れないで生きられるように、サタンの誘惑に負けて神様から離れることがないように祈り合うことです。小さく弱くされている人々、諸教会を覚えて祈り、励ましてゆくことが神様とイエス様の願いです。

 

23節でイエス様は、「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」と祈っておられますが、わたしたちクリスチャンが、そして教会が一つであることを証しして見せることで、世の人々はイエス様に対して心を開いて救い主と信じるようになり、それが神様の栄光をあらわす事になり、神様が喜ばれると言うのです。26節、イエス様に対する神様に愛がわたしたちの内にあり、イエス様もわたしたちの内にいてくださることを祈りましょう。主イエス・キリストの御名によって、神様の愛と慈しみを心から祈り求めましょう。