キリストに結ばれた者

「キリストに結ばれた者」  九月第二主日礼拝  宣教 2019年9月8日

 コロサイの信徒への手紙2章6〜10節            牧師 河野信一郎

 「わたしは、いったい誰か」と新しいシリーズが先週から始まりました。新約聖書と旧約聖書から、「わたしはいったい何者であるのか。何をなして生きる存在であるのか。神様の御心は何であるのか」を聞いてゆきます。今月はコロサイの信徒への手紙から聞いてゆきますが、先週は1章から学びました。わたしたちは何者であり、どのように生きることがわたしたちを創り、愛し、救ってくださった神様と主イエス様の御心なのかということの答えを聴いてゆきます。

ほんの少しだけ先週の振り返りをしたいと思います。まず1章2節に注目しました。「コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟姉妹たちへ」あります。わたしたちはイエス・キリストによって罪赦され、「聖なる者」とされていること、そして「キリストに結ばれている兄弟姉妹たち」であることを確認し、感謝しました。

そして次に1章13節と14節に注目しました。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」とのみ言葉から、わたしたちはイエス・キリストを通して神様によって闇の力から救い出された存在であることを聴きました。「闇の力」とは、サタン、罪の力という意味ですが、その罪の支配からわたしたちを解放するために、イエス様がわたしたちの身代わりとなって十字架を負い、贖いの死と聖めによってわたしたちは罪の赦しを得て、キリストの支配下に生きる存在であることを聴きました。

また、21節と22節に注目しました。パウロ先生は「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、傷のない者、とがめるところのない者としてくださいました。」と言っています。わたしたちはイエス・キリストにあって「神様との和解が与えられた者」、「傷のない者」、「とがめるところのない者」とされていることを共に聞いて、感謝と賛美をささげしました。

キリスト・イエスによって贖われ、神様との和解が与えられ、救われ、聖とされ、キリストに結ばれ、キリストの支配下に置かれた者がイエス様を信じる者である。それはわたしたちから出たことではなく、すべて神様の側から出ている「憐れみ・恵み」であることを感謝しました。その恵みを受けている者が心から進んで、喜びと感謝をもってなすべきことは何であるのでしょうか。それはまず2節にあったように神様とキリスト・イエス様に対して「忠実」に生きることです。では、「忠実に生きる」とは具体的にどういうことであるのか。それがわたしたちの年間の目標なのです。つまり、9節後半から10節に記されていること、「どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように」ということです。神様の御心を十分に悟るために必要なのは、イエス・キリストとご聖霊です。神の霊であるご聖霊に助けられて、主イエス・キリストに日々聞き従って歩むことが大切で、キリストに結ばれていなければ神様の喜ばれる実を結ぶことは決してできません。何故ならば、キリストに結ばれるということは神様に結ばれるということであり、この神様がすべての源、愛、慰め、励まし、赦し、平和、希望、力、祝福の源であるからです。

パウロ先生は、神様とイエス様に忠実に生きるために最も重要なのは、キリスト・イエスに結ばれ続け、このキリストを「主」として歩み続けることだとコロサイの信徒たち、そして今日を生かされているわたしたちを6節で励まします。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」とあります。この6節で大切なことは、2つあります。一つは、キリスト・イエスはわたしたち一人一人の「主」であるということ。わたしの「主」であるということです。この「主」の言葉に常に聞き従うことが絶対です。それ以上でも、それ以下でもありません。もう一つは、パウロ先生はここで「主イエス・キリスト」とは言わないで、「主」の後に「キリスト・イエス」と言っている点です。このコロサイの信徒への手紙の特徴は、パウロ先生は「キリスト」という名称を数多く使っていて、イエス様の「キリスト性」、「メシア性」、「救い主」であることを強調していることです。つまり、イエス様は「インマヌエル」、「神は我々と共におられる」ということ以上に、「ご自分の民を罪から救うメシア、キリスト」であられるということを強調しています。わたしたちの外側におられ、共に歩んでくださったイエス様が、わたしたちの内側におられ、共に歩んでくださる。共に生きてくださる、だから不安になったり、恐れる必要はない、ただ信じて従ってゆけばすべてを教え、導き、力を与えて神様の喜ばれる実を結ぶ者としてくださる、だから「キリストに結ばれて歩みなさい」、歩み続けなさいと励ましているのだと感じます。

さて、これまでたくさんのことを語っていますが、今朝皆さんに分かち合いたいことは2つです。一つは、7節に記されていること。もう一つは8節に記されていることです。その中でも最も分かち合いたいことは7節ですので、最初に8節に記されていることをお話ししたいと思います。

8節に「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」とあります。そんなに難しいことはここには記されておらず、とってもシンプルなインストラクション・指示がされています。限られた知恵で生み出された哲学や思想の言葉の虜にされずに、無限の知恵と力をもってわたしたちを愛し、導いてくださるキリストの言葉のみに従って行きなさいという励ましです。わたしたちが生きているこの世界にはたくさんの言葉、情報で満ちていて、わたしたちはそれらに翻弄されて生きていますが、わたしたちに必要な言葉、ほんらい聞くべき言葉は神の言葉であるキリスト・イエスであるということ。ですから、この言葉を日々欠かさず聞くこと、霊の糧として、生きる力として聞いてゆくことが大切であるということ。世に従って生きるのではなく、主キリスト・イエスに従って生きることの大切さが強調されています。

さて7節に主キリストに結ばれて生きる者はどういう者であり、どのように生きることが神様の御心であるのかが記されています。ここに4つの動詞が記されています。「キリストに根を下ろす」、「造り上げられる」、「信仰をしっかり守る」、そして「溢れるばかりに感謝する」。

まず「キリストに根を下ろす」という動詞ですが、現在完了形が使われています。つまり、過去にあったことであるけれども、今もそのことはわたしたちに影響を及ぼしている時に用いる文法です。ここでパウロ先生が伝えたいことは、わたしたちがイエス・キリストを救い主と心に受け入れ、信じ、告白した時がイエス様に根を下ろした時ですが、それは過去に一度あったことだけでなく、わたしたちの信仰を今もなお支え続け、今の生活に影響を与え続けていることだとパウロ先生は言います。イエス様をキリストと信じ、結ばれ、根ざすことによってすべての祝福は始まり、今もその祝福がわたしたちに豊かに注がれ続けています。

次に「造り上げられる」ということですが、受動形です。キリストに結ばれて初めて造り上げられてゆきます。力強い成長があるということ、わたしたち一人一人を造り上げ、建て上げてくださるのは主キリストであり、神様なのです。

「信仰をしっかり守る」ということですが、これも受動形が用いられています。つまり、信仰はイエス・キリストを通して神様から与えられた賜物、プレゼントであり、それを持ち続けるために神様が、イエス様が、ご聖霊がいつも共にいて守ってくださるということです。

ここまで神様とイエス様とご聖霊に至れり尽くせりされるわたしたちは何者なのでしょうか。三位一体の神に心から愛されている存在、それがわたしたちです。罪に生き、暗闇をさまよっていたわたしたちに目をとめ、光で照らし、歩み寄って抱きかかえて救ってくださり、光の中に移してくださり、光の子としてくださる神様が、イエス様が、ご聖霊が愛してくださっている。絶え間なく恵みを注いでくださっている。この愛が今朝もわたしたち一人一人に豊かに注がれていますから、心を大きく開いて、めい一杯受け取りましょう。この愛に満たされた心は、溢れるばかりの喜びと感謝で満たされますから、ご聖霊の助けによって、溢れるばかりの感謝を、賛美を、礼拝を神様に、イエス様におささげしましょう。