霊の実・平和

「霊の実・平和 キリストの平和を受け取る」10月第四主日礼拝宣教 2020年10月25日

 ガラテヤの信徒への手紙 5章22節〜23節 

 ヨハネによる福音書 14章1節、25節〜27節     牧師 河野信一郎

おはようございます。早いもので10月最後の主日となり、来主日から2020年も11月です。今朝もわたしたちは神様によってこの礼拝堂へ、またインターネットを通して礼拝者として招かれていることを神様に感謝です。今夕は17時から夕礼拝もささげられ、裵宣教師がメッセージを取り次いでくださいます。オープニング賛美のような賛美をたくさんささげます。ユーチューブでライブ配信をいたしますので、どうぞご出席ください。たとえ出席が叶わなくても、夕礼拝が神様の喜ばれるささげものとなりますようにお祈りいただければ幸いです。

さて、今朝もご一緒にみ言葉に聴いてゆきたいと思いますが、10月と11月はガラテヤの信徒への手紙5章22節と23節に記されています「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という9つの霊の実について聴いています。使徒パウロは、またその他の使徒たちは、それぞれの手紙の中で何と書き記しているのか、そして主イエス様は福音書の中で何と教えておられるのかをシリーズで「霊の実を結ぶ教会」とされることを学んでいます。すでに第一と第二の主日礼拝の中で「愛」と「喜び」という霊の実について聴きましたが、ご興味のある方は教会ホームページに掲載されていますので、そこから宣教をお読みいただくか、大久保教会のユーチューブチャンネルでご覧いただければと思います。

今朝は「キリストの平和を受け取る」という主題で、「平和」という霊の実についてご一緒に聴いてゆきたいと思いますが、この「平和」という言葉は、英語では「ピースPeace」という一つの言葉で表せますが、日本語では、他に「平安」とか、「安心」という言葉に置き換えることができますので、今朝は、この「平和」、「平安」、「安心」という言葉を織り交ぜながらの宣教になると思いますので、それをご了承いただければと思います。

また、過去2回の宣教では、使徒パウロと他の使徒たちがそれぞれの手紙の中で、そのテーマについて何と記しているかを最初に聴いてから、主イエス様が福音書で何と教えておられるかという流れでお話をさせていただきましたが、今朝はイエス様の言葉と使徒たちの言葉を織り交ぜながらお話しさせていただきますので、ご了承いただきたいと思います。

さて、繰り返しになりますが、「霊の実を結ぶ教会」とされるというテーマをシリーズで聴いてゆく中でわたしたちが心得ておかなければならないことがあります。もうすでに理解されている方が大半だと思いますが、とても大事なことですので、少しだけ触れさせていただきたいと思います。パウロ先生がこの手紙をガラテヤの信徒たちに書き送った最大の理由は、教会内に「イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって救われる」というパウロ先生の宣べ伝えた福音と、「信仰プラス律法を守ることによって救われる」というユダヤ主義に立つ人たちが強調した福音が語られ、その二つの福音理解の違いが発端となり、論争が教会内で起こり、分裂し、傷つく人たちが増え、神の家族であるのに互いに愛し合えない、互いの存在を喜び合えないという痛みが生じ、神様とイエス様が求めておられる「平和な教会」でなくなっていたという悲しい実情があり、そのような痛みを負っている教会を励ますためにこの手紙は書き送られました。

傷つき弱っていたであろうガラテヤ教会のクリスチャンたちに対して、パウロ先生は「それでもイエス様を信じ続け、主が望んでおられる愛、喜び、そして平和という霊の実を結びなさい」と励まし、また今日を生きるわたしたちをも同じように励ますのです。その理由は、パウロ先生が生きた時代と今の時代は違えど、わたしたちも日々の生活の中で、愛したくても愛せない、喜びたくても喜べない、平和でありたいと願いつつも心は不安や不満や恐れでいっぱいの状態になっているからです。

前回は、なぜ喜ぶことがわたしたちにできないのかという問題点と、どうしたら喜びに満ち溢れた生活を送ることが主の憐れみによってできるのかをマタイによる福音書に記されている主イエス様の言葉から聴きました。今朝のテーマである「平和」も、前回の「喜び」というテーマに重なる部分が多くあると思われますが、もう少し角度を変えてヨハネによる福音書から宣教ができればと願っています。

さて、わたしたちの共通意識として、誰もが「心の平安」を求めていると思います。平安を求めていない人はいないと思います。しかし、平安を切に求めているのにも関わらず、平安よりもストレスを感じる日々を送っている人の方が多いのではないでしょうか。それでは、このストレス、あるいは不安はどこから来るのでしょうか。また、何が原因となって不安を抱くのでしょうか。

皆さんは、ストレスや不安、不満や怒り、痛みや悲しみを抱えながら生活されているでしょうか。もしそうであれば、あなたから平安を奪っているものは一体何でありましょうか。多くの場合、職場や学校、家族や親戚との間で繰り返される人間関係がストレスの原因となっているのではないでしょうか。ガラテヤ教会では教会内の人間関係がもつれにもつれて、大変な状態になっていました。それは非常に残念なことであり、悲しく、辛いなことです。

また、もし皆さんが恐れていることがあるとしたら、それは何でありましょうか。孤独でしょうか。失敗への恐れでしょうか。病気や死に対する恐れでしょうか。周りの人が自分のことをどう思っているのか、どう見ているのかという評価でしょうか。色々あると思いますが、わたしたちはどのように動いたり、心がけたら、ストレスや不安、恐れから解放されて生きられるのでしょうか。そのことをご一緒に考えてみたいと思うのですが、まず旧約聖書に記されていることをお話ししたいと思います。

神様が天地万物を創造され、アダムとエバという人を造ってエデンの園におかれた時、「二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」と創世記2章25節に記されています。それはどういうことかと言いますと、つまり彼らは「ストレスフリーな生活」を送っていたということです。しかし、神様の言葉に背いた二人は、「自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(7節)とあり、神が園の中を歩く音が聞こえたら、「主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れ」て(8節)しまいます。神様に対して罪を犯した二人は、その時点からストレスを感じながら、恐れや不安を抱きながら生きることになります。

つまり、聖書が教えるわたしたちの不安や恐れ、ストレスの原因というのは、神様に対するわたしたちの罪にあるということです。神様との関係がわたしたちの罪によって損なわれ、自分の心にも負い目を感じ、罪にあるわたしたちは周囲の人々との関係もその心の弱さゆえにギクシャクしてしまう、摩擦が起こる。そして心にストレスを、不安や恐れをいつも抱えながら生きてしまうことになっているのです。しかし、もうダメだと諦める必要はまったくありません。何故ならば、そのようなわたしたちをそれでも、そのまま愛してくださる神様が、イエス様がいつも近くにいてくださり、わたしたちに必要な3つの平安・平和を与えてくださるからです。

わたしたちに必要な3つの平安・平和とは、まず神様との平和、自身の心の平安、そして人間関係における平和、関係性における平安といっても良いと思います。そしてこの平和・平安を神様から受け取るには「信仰」という鍵が必要です。大きな不安、恐れ、ストレスを抱く中でわたしたちに必要なのは、神様を、イエス様を信じることなのです。信じ続けること、イエス様につながり続けることが本当に重要なのです。

十字架に架かって贖いの死を迎えるためにエルサレムに入られたイエス様とまったく思いが及ばない弟子たちのことがヨハネによる福音書12章12節から記されていますが、13章では弟子たちとの最後の晩餐の出来事が記され、その中でイエス様が弟子たちの足を洗うことから始まり、弟子の中の一人がイエス様を裏切ることが予告されたり、新しい掟が与えられたり、ペトロの離反が予告されたりと、弟子たちが心の中に不安や恐れを感じること、心が騒いでストレスを感じることが記されています。そういう弟子たちにイエス様は何とおっしゃったかというと、14章1節です。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」とおっしゃったのです。心を騒がせない方法は一つだけ。神とイエス・キリストを信じること。後にも先にも、ただそれだけなのです。

使徒ペトロと使徒ヨハネは、彼らの手紙の冒頭で、「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」と挨拶を書き送っていますが、恵みと平和は神様と救い主イエス・キリストから与えられると告白しています(2ペテロ1:2、2ヨハネ1:3)。パウロ先生も第二テサロニケやテモテへの手紙の冒頭で、ペトロとヨハネと同じことを告白しています(2テサロ1:2、1&2テモテ1:2)。

平和は、神様から与えられる恵みです。この恵みを与えるためにイエス様はこの地上に神様から遣わされ、カルバリの丘の十字架上で、ご自分の命と引き換えにわたしたちに与えてくださいました。わたしたちはその恵みを信じる信仰へと招かれています。パウロ先生はローマの信徒への手紙5章1節と2節でこのように言っています。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとしています」とあります。イエス様を救い主と信じる信仰が救われる恵みなのです。

ルカによる福音書の7章と8章を読んでゆきますと、罪に苦しむ女性と病気に長い間苦しんでいた女性に対して主イエス様は「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言って家族やコミュニティに戻してゆかれます。「あなたの信仰があなたを救った。だから安心しなさい」と。

イエス様を信じる信仰によって、神様との平和が与えられるだけでなく、わたしたちの心に安心が、平安が与えられるのです。この心を持って「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とヨハネ14章34、35節でイエス様は新しい掟を与えられるのです。

人間関係がストレスの原因となっていると最初に申しましたが、イエス様を通して、イエス様を救い主と信じる信仰によって、わたしたちは神様との平和、自分自身の平安、人々との平和が与えられる。つまり、霊の実である「平和」は、イエス様を通して神様から与えられる恵みであり、イエス様を信じること、イエス様につながり続けることで結ぶことができる実であることが分かります。

ヨハネによる福音書14章25節から27節を読みましょう。「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」とイエス様はわたしたちを励まします。わたしたちが心を騒がせたり、怯えることがないために、神様の愛を、平和を十字架の死を通して、十字架の上から、その命と引き換えに与えてくださいました。この主イエス様から賜る「平和」を大切にして歩んでまいりましょう。

思い煩い、心配は、平安の対極にある感情と言われます。心配する、思い煩うという英語はworryですが、その語源はドイツ語のwerger(ヴェアゲン)という言葉だそうです。これは窒息するという意味だそうです。イエス様を通して救われ、神様から新しい命を授かったわたしたちが思い煩って、不安と恐れに支配されて窒息してしまって良いはずがありません。

では、ストレスに押しつぶされないために、心配しすぎて窒息しないために、いつも平安でいられるためにわたしたちに必要なことは何でしょうか。パウロ先生は、フィリピの信徒への手紙4章6節から7節でこのように言います。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」神様、イエス様を信じ、信頼し、祈り求めることです。祈ることです。心が騒いだら、すぐに神様に祈りましょう。神様が、イエス様が、そしてご聖霊がわたしたちの心を守り、平安を与え、人々との間で「平和」という霊の実を結ばせてくださいます。信じましょう。祈りましょう。感謝しましょう。わたしたちは神様に愛されています。