「キリストの愛にとどまり続ける」 七月第一主日礼拝 宣教 2025年7月6日
ヨハネによる福音書 15章1〜12節 牧師 河野信一郎
おはようございます。神様の豊かな愛の中、今朝もこのように礼拝堂に集められ、皆さんと共に賛美と礼拝を神様におささげできる幸いを主に感謝いたします。オンラインで礼拝をおささげくださる方々も歓迎いたします。久しぶりに教会に戻られた方々もお帰りなさい。
大久保教会は、去る7月4日に60回目の誕生日を迎えましたが、この7月は、教会創立60周年を喜び、感謝する月間といたします。今朝は、久しぶりに教会オリジナル賛美である「つながろう つなげよう 主イエスさまに」を歌いましたが、この一ヶ月間、神様の愛と憐れみによって、この大久保教会が60年間も、イエス様につながり続けることができた恵みを共に味わいたいと思います。この教会がなければ、わたしたちは出会うことはありませんでした。この教会の土台は、神様の愛、イエス・キリストの十字架の死と復活、福音です。
今朝は、ヨハネによる福音書15章から主の言葉に聞いてゆきますが、この15章は十字架の死を目前にしたイエス様が弟子たちに語られた重要な箇所で、メインはイエス様と弟子たちの関係性が語られています。しかし、イエス様は1節でまず、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と言われ、ご自分と神様の関係性をはっきりさせます。ぶどうの木は農夫の保護、取り扱いのもとにあることを示し、神様への服従を表します。イエス様は、ご自分の地上での使命を知っていました。神様の望まれるままに生き、わたしたちの救いのために十字架で贖いの死を遂げる決意を持っています。
そのイエス様が、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。わたしにつながっていなさい。つながり続けなさい」とわたしたちを招きます。何故そのように招かれるのでしょうか。それは、最初は熱心に主に聞き従った人々が途中からイエス様から離れて行ったからです。この福音書を記したヨハネが牧会する複数の教会でもイエスを救い主と告白し、キリストに従う約束をしたのに、実を結ばない人が少なからず存在していたからです。何故そうなったのでしょうか。自分の救いのため、自己満足のためだけにイエス様を信じた人が多かったのです。しかし、イエス様は、神様を愛し、隣人を愛するために招かれるのです。
イエス様は、3節で「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と言われます。「わたしの話した言葉」とは、主が過去3年間の宣教活動の中で弟子たちに語ってこられた教えです。ここで重要なのは「あなたがたは既に清い」という主の宣言で、これは弟子たちだけでなく、現代を生きるわたしたちにも宣言されている言葉であり、まだ信じていない人たちへの「清くなりなさい」との招きの言葉です。キリスト・イエスを信じて従う者は、神様の愛と憐れみによって清められます。重要なのは、そのように宣言してくださるイエス様を信じる事です。では、「清くされている・清くなる」とは、どういうことでしょうか。イエス様がここでおっしゃる言葉には、2つの真理があります。
一つは、この後に主が受けられる十字架での贖いの死と復活を信じる人は、その信仰によって清くされるということです。キリストの福音は、誰でもこのイエス様の十字架の死と復活は自分の罪の赦しと永遠の生命を得させる愛の御業であると信じる信仰によって救われ、清められるのです。ただその良き知らせを信じるだけで罪が清められ、救われ、恵みのうちに神の御前に罪なき者とされるのです。ただイエス様を救い主と信じて従えば良いのです。
もう一つは、「清くなる」という言葉をギリシャ語で見ますと、農夫である神が「手入れをされる」との2節の言葉と同じ語源があり、親密な関係があるということです。「清い」はカサロスで、「手入れ」はカサイロです。つまり、主の言葉によって清くされるということは、神によって手入れ・剪定され、必要なものは残され、不必要なものは取り除かれるということです。イエス様は2節で、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れされる」とおっしゃいました。この主の言葉に心に留めるべきことが3つあります。
1)神はわたしたちが実を結ぶ事を期待されています。何か特別なことをしなければならないのではなく、ただイエス様にしっかりつながってさえいれば、実を結ぶために必要なすべては神様から与えられます。2)わたしたちが実を豊かに結ぶために神自らがわたしたちを整えてくださいます。3)剪定は確かに大きな痛みが伴いますが、イエスもわたしたちと共にいて、共に痛んでくださるのです。「剪定」とか、「取り除かれる」という言葉に捉われ、恐れる必要はありません。神様には確かなご計画があると信じ、全てを委ね、そして豊かな実を結べる事を神様に期待しつつ、実を結ぶことに集中することが大切です。
イエス様は6節で、「わたしにつながっていなければ、枝のように外に投げ捨てられて枯れ、集められて火に投げ入れられて焼かれてしまう」と言われます。しかし、その言葉に怖がる必要も、失望する必要もありません。大切なのは、イエス様を通して希望を持つことです。7節に、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」というイエス様の言葉があります。イエス様を通して祈り求めることが大切です。しかし何を求めるかが重要です。わたしたちが求めるべきことは、ただ一つ、イエス様につながり続けることです。
イエス様につながり続けますとどんな良いことがあるでしょうか。8節に「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」とあります。豊かに実を結び、イエス様の弟子として整えられてゆくのです。それが、神様が栄光をお受けになる、すなわち、神様が最も喜ばれるのですと主は言うのです。
続く9節と10節では、イエス様は弟子たちに、わたしたちに結んでほしい実が何であるか教えています。それは「愛」です。イエス様は、9節で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と言われます。イエス様は、神様からイエス様に注がれた愛でわたしたちを愛してくださいます。つまり、イエス様は神様の愛でわたしたちを愛してくださるのです。ですから、わたしたちもイエス様の愛をいただいて、その「愛」で、神様に喜んでいただく実を結んでゆくことが期待されています。
愛を結んでゆくために大切なことは、まず「イエス様の愛にとどまる、とどまり続ける」ということです。しかし、この「イエス・キリストの愛にとどまる」とはどういうことでしょうか。その答えが続く10節にあると思います。イエス様は10節で、「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」とおっしゃいます。
イエス様は、ヨハネ14章15節で、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と言われますが、「キリストの愛にとどまる」とは「キリストを愛する」ということであり、「神を愛する」ということなのです。わたしたちは、イエス様につながる中で、イエス様から愛と励ましを受けて、神様を愛することができるのです。
また、ヨハネ14章23〜24節で、イエス様は、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」と言っておられますから、「キリストの掟」とは「キリストの言葉」、「神の言葉」に聞き従うことだと分かります。
旧約聖書には「心と精神と思いと力を尽くして主なるあなたの神を愛しなさい」という第一の掟と、「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という第二の掟が記されています。確かにこの二つの掟は重要ですが、イエス様が10節で言っている「わたしの掟」とは、ヨハネ13章34節の「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という命令です。
ですから、キリストの愛にとどまるとは、キリストの愛をもってわたしたちが互いに愛し合うということです。主が愛して下さったように愛し合うということです。そして、この実を結ぶために、イエス様につながり続ける必要があるのです。キリストにしっかりつながり続ければ、わたしたちはキリストを通して神の愛を受け、その愛を受けて初めて神とキリストを愛し、隣人を愛し、教会という信仰共同体の中で互いに愛し合うことができます。
イエス様がこのことを話されたのは、11節にあるように「キリストの喜びがわたしたちの内に常にあり、わたしたちの喜びが満たされる」ためであったとあります。わたしたちの喜びとは何でしょうか。共に生きるということ、共に主に礼拝をおささげし、共に主と隣人に仕えてゆくことではないでしょうか。
イエス様は12節で、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と言われます。神様とイエス様の愛と憐れみに日々感謝し、喜び、互いに愛し合う中で、教会は今後も、祝福の中で建て上げ続けられます。わたしたちの業ではなく、神様の御業なのです。まずは、61年に向かって歩んでまいりましょう。互いに愛し合い、祈り合い、仕え合い、支え合って、共に歩んでまいりましょう。その先に、70年、80年、100年の教会があるはずです。