「キリストは神の愛を示す」 三月第一主日礼拝 宣教要旨 2014年3月2日
ローマ人への手紙5章1〜11節 牧師 河野信一郎
使徒パウロは、わたしたちが神の御前にいかに罪深い存在であるかを明確に示すと同時に、そのようなわたしたちを神がイエス・キリストを通していかに深く愛してくださっていることをローマ人への手紙5章の中ではっきりと示しますので、共に聴いてゆきたいと思います。
パウロは、わたしたちがいかに罪深い存在であるかを示すため、6節から10節の中で3つの表現を用います。一つ目は、6節にある「弱かったころ」の「弱さ」という表現です。この「弱さ」という言葉には、「他人に責任を押し付ける/人の所為にする」という意味があります。アダムとイブを思い出してください。禁断の果実を食べたことに対して創造主である神から質問された時、アダムは「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので」と答え、イブは「へびがわたしを騙したのです」と答えます。「弱さ」とは、自分のことは棚に上げて、悔い改めないで、人の所為にする/責任転換をすることです。こういう無責任なことが職場や家庭やさまざまな場面でくり返されるので、わたしたちは大いに痛み苦しむのです。
二つ目は、同じ6節にある「不信心な者」という表現です。これは創造主である神を信じないで、自分の力を過信し、人生のすべてを支配したい人を指す表現です。このような自己中心的な人は神から出来るだけ遠くに離れようとし、また人とも傲慢さ故に距離をつくってしまいます。自己中心的な思いを「罪」と呼びますが、「罪」というハマルティアというギリシャ語は、「的外れ」という意味であります。神の御心に従って歩むのではなく、的外れな歩みをしているということであります。この罪は、人と神との関係、また人間関係を破壊してしまいます。
三つ目は、10節にある「わたしたちが神の敵であった時」の「敵」という言葉です。わたしたちは神に対して反抗をし、背を向けて自分勝手な道を歩む罪を犯しました。わたしたちがそのように歩むことは神の御心ではありませんでしたが、神はあえてそれを許されました。神は、わたしたちに御心に従って生きるか、それとも神に背いて生きるかの自由意思を与えてくださったのです。神から与えられた自由と意志の使い方を間違えますと、神に対して罪を犯し、人間関係は音を立てて崩れてゆき、自らが大きな苦痛を負うだけでなく、周囲の人たちをも傷つけてしまうのです。わたしたち人間の罪深さが、すべての苦しみや悲しみの原因なのです。
しかし、そのような弱さをもったわたしたちを神は愛してくださり、罪を赦してくださいます。神は、御子イエス・キリストを通してわたしたちの罪を赦し、罪の報酬である「死」という滅びから救い出してくださったのです。6節と8節に「わたしたちがまだ弱かった頃、罪人であった時、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んでくださったのである」とある通りです。善人のために進んで死ぬ者もあるかもしれませんが、救いに与るに価しないわたしたち罪人のために神の御子イエス・キリストが自ら進んでその命を捨ててくださいました。この犠牲を通して、神はわたしたちに対する「愛」を示してくださったのです(8節)。
罪を犯し続ける存在であっても、神はわたしたちを憐れんでくださいます。神は「あなたが悔い改めて良くなったら愛する」と言っておられるのでなく、わたしたちが罪にどっぷり浸かっている時から愛し、救い主イエスも命を捨てて神の愛をはっきりと示してくださいました。神の御子が十字架に架けられ死ななければならない程、わたしたちの罪深さ、「罪」は深刻で重大な問題であることを認識すると同時に、わたしたちが悔い改めて神がキリストを通して差し出してくださる愛を受け取り、喜びと感謝をもって主に従って生きることが神の御旨なのです。