「キリストを模範とする者」 十月第四主日礼拝 宣教 2019年10月27日
フィリピの信徒への手紙2章1節〜11節 牧師 河野信一郎
今朝は、フィリピの信徒への手紙2章1節から11節を通して、わたしたちはイエス・キリストを模範として生きるべき存在であることを知り、感謝して生きてゆきたいと願います。
クリスチャンとは、神様から遣わされ、わたしたちの罪を贖うために十字架に死に、永遠の命への道を開くために三日目に甦えられたイエス・キリストを救い主と信じ、従う者です。イエス様を信じることが何よりも大切ですが、信じるだけでなく、イエス様に従うことも同じだけ大切、重要です。また、クリスチャンとして「何をするか」ということも大切ですが、それよりも「どういう人であるか」が重要だと思います。例えば、クリスチャンでなくても、お金を持っていれば、聖書を印刷・発行し、配布することもできますし、教会の会堂、建物だって建てることができます。病院だって、学校だっていとも簡単に設立することができます。それは、売名行為のためにできるということです。つまり、利己心や虚栄心から、自分のためにそのようなことをすることは誰でもいつでも可能であります。わたしたちの教会の目標は、礼拝出席毎回40名でありますが、礼拝の出席者数だって、お金を払って頼めば、何人だって増やすこともできます。ですから、クリスチャンとして大切なのは、「何をするか」ではなくて、「どういう人であるか」、また「どのように生きるか」が大切です。もう少し具体的にいうと、「神様の前にどのように生きるか。またどういう人として生きるか」がとっても重要だということです。
牧師仲間であるわたしの友人が以前このように言っていました。「教会というのは、必ずしも教会員数や礼拝出席人数が重要ではなくて、神の家族の『一員』としてつながること、『属する』こと、『切っても切れない絆でしっかり結ばれている』ことを喜び、感謝することであって、教会全体でそれを祈り求め、つながり合うことを大切にしてゆけば、自然と礼拝出席者も増え、教会員の数も増え、豊かに成長し、神様が喜ばれる実をたくさん結ぶことができる」と聞いて、本当にそうだなぁと思いましたが、それはつまりわたしたちが「何をするか」ということよりも、まず祈りつつ、そして自分が「どういうクリスチャンであるか。どのように生きているか」を自ら見つめ直し、悔い改めるべきことがあれば悔い改め、主イエス様と日々共に歩むことが大切であるということだと思います。
言っていることと実際にやっていることが違うならば、誰だって矛盾に気づくはずです。そういう人に限って、祈りと愛と配慮のないことが多いと思います。「神様を愛しましょう。自分を愛するように隣人を愛しましょう。イエス様がお命じになったように互いに愛し合いましょう」と牧師であるわたしがいくら声を大にして語ったとしても、この講壇から降りたわたしが日々していることが、神様を悲しませ、隣人を平気で傷つけ、教会の信頼を裏切るようなことをしているならば、皆さんの中でつまずいてしまう人が続出することでしょう。確かにわたしたちが「何をするか」も大切ではありますが、もっと重要なのは「イエス様を信じ従う者として、日々どう生きているか、常日頃からどういう人として生きているか」が重要であると思いますが、皆さんはどのようにお感じになられるでしょうか。
使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙2章1節と2節で、「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」とマケドニア地方のフィリピの地に生きるクリスチャンたちに書き送っています。このパウロ先生の言葉から判るのは、残念ながら、フィリピの地に生きるクリスチャンたちの中に、ほんの一部の人たちだけかも知れませんが、同じ思いを持ち、同じ愛を抱き、心を合わせることができない人たちが存在したということです。これは一人一人の霊性を弱め、信仰の成長にブレーキをかけ、キリストのからだである教会を形作ることを妨害することであって、人の感情からすると非常に残念なことです。
これは教会にとってピンチなことですが、ピンチはチャンスでもあります。このようなピンチを通して教会が整えられ、一つとされ、喜びに満たされてゆく絶好の機会にもなります。では、教会のピンチを、またわたしたち一人一人のピンチをチャンスにしてくれるものは一体何であるのでしょうか。それがとっても重要ですが、パウロ先生はその答えをわたしたちに示してくれています。それが1節にある「キリストによる」という言葉です。
この言葉は、新改訳聖書では「キリストにあって」と訳されています。ギリシャ語と英語の聖書では「in Christ」になっています。つまり、教会のピンチを、わたしたちの人生のピンチをチャンスに変えてくださり、救ってくださるのはイエス・キリストであるということです。キリスト・イエス様が「救いへのターニングポイント」であり、「祝福への出発点」であるということです。このイエス様を通してでなければ、この救い主によらなければ、わたしたちが生きてゆく上でとっても必要な本当の、まことの励まし、慰め、交わり、慈しみ、憐れみを得ることができないということです。しかしパウロ先生は「でも、あなたがたはもうすでにそれを受けているよね。イエス様を救い主と信じているってことは、そういうことだよね。もう救いを得て、神様に立ち返るターニングポイントを恵みのうちに越えたよね。神様に約束されている永遠の祝福へのスタートはイエス様と一緒に切ったよね。みんなイエス様に愛されているよね。みんなそう信じているのでしょう。神様の愛を喜び、感謝しているんでしょう。だったら、イエス様にあって同じ思いとなり、イエス様から平等にいただいた同じ愛を抱こうよ。心を合わせて一つ思いになろうよ。わたしの喜びを満たすということよりも、神様の喜びを一緒に満たそうよ」とパウロ先生は励まし、促しているのだと聞こえてきます。皆さんは、どのように聞こえてくるでしょうか。
3節から、パウロ先生はクリスチャンが「何をするか」ということではなく、「どのような心持ちで生きることが神様の喜びを満たすことなのか」を示そうとしていると思いますので、3節から5節まで読んでまいりましょう。あなたがたは「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」とあります。
お判りになられるでしょうか。ここに「心がけなさい」とあり、「何かをする」前の「心から出る考えや思い」、つまりどのように存在するか、どのように生きるかをパウロ先生が重要視していることを。利己心や虚栄心といった自己中心的な考えを一切捨て去り、まずへりくだりなさい。そして自分のことよりも相手のことを大切に考えなさい。相手に注意を払いなさいということ。それはあなたの心を配りなさい、互いに配り合いなさいということですね。それが、自分を愛するように隣人を愛することであり、教会の中でも互いに愛し合うことであることはお判りになられると思います。そして、わたしたちが互いに愛し合い、隣人を愛することは、神様を愛することでもあると云うことができます。
パウロ先生は言います。「それはキリスト・イエスにもみられるものです」と。イエス様が心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神様を愛し、出会ってゆく隣人を自分を愛するように愛し、イエス様に従う者たちが互いに愛し合う愛を教えてくださいました。イエス様がわたしたちのロールモデル、模範となるお方であり、わたしたちが近づくべき理想の姿なのです。イエス様を信じて従ってゆきますと決心した時から、わたしたちはイエス様を模範として生きる道を歩む者とされ、イエス様が生きられたように生きる日々へと召されています。
今からわたしが6節から8節をゆっくり読みますが、パウロ先生はイエス様が「なされたこと」とイエス様の「心持ち」のどちらに重点を置いているか、聞き取っていただきたいと思います。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
ここで大切な言葉は何でしょうか。どの言葉が今朝あなたの心に強く迫ってくるでしょうか。わたしたちにとって大切な言葉が3つあると思います。それは「固執しない」、「へりくだる」、そして「従順」だと思います。
皆さんは、人として日々生きてゆくとき、生きづらさを感じていないでしょうか。クリスチャンとして日々生きてゆくとき、イエス様に従ってゆくことが大変だなぁと時折思うことはないでしょうか。毎日、サタンが攻撃してきます。誘惑してきます。人のことよりも、もっと自分を愛し、自分で稼いだものは自分のために使いなさいよ、それが何で悪いのと言い寄ってきます。自分の弱さからもそのように感じることもあります。どうしてそうなるのでしょうか。理由は様々あると思いますが、その中の一つにどうしても手放したくないものがあるから、つまり固執するものがあるからだと思います。つまり、自分の意見を固く主張したい、まげたくないと云う思いがあるからです。神様の御心よりも、自分の理想を追い求めたり、過去の栄光や現在にしがみついているからです。しかし、イエス様が神の身分を、神と等しいことに固執していたら、今のわたしたちは存在しません。わたしたちに大切なのは、握りしめている過去の栄光や現在の富や名声、持ち物などに固執しないと云うことです。新しいことをされている神様を横目に、古いものにしがみついている心では何もできません。
次に「へりくだって、謙遜に生きる」と云うことです。イエス様を通して神様に愛され、罪赦され、恵みに生かされていることを感謝して謙遜に生きると云うことです。自分一人だけの利益を計ること、自分だけ良ければ良いと云う考えること、外見だけを飾って、自分を実際よりも良く見せよう、見栄を張ろうとはしないで、周りの人に心を配ること、少しでも仕えよう、支えよう、共に生きようと考えることが大切であって、イエス様はわたしたちを救い、永遠に生かすためにその命を捨ててくださいました。わたしたちには自分の命を捨てることはできませんが、神様から与えられている時間や体力やスキルをささげることはできます。そう云うことを考えることから、何ができるだろうかと考え、行動に移すことができます。
最後に「従順」と云うことです。イエス様は、わたしたちを救いたいと云う父なる神様の思いを第一にして、十字架の死に至るまで、神様に逆らわないで、素直に神様の思いに従い、その命をも捨てられたと云うことです。しかしながら、イエス様のように従順に生きられないわたしたちは、心の中に葛藤が生じます。「そこまでできない」と云う自分を悔やんだり、責めたり、また周りの兄弟姉妹たちを見回して勝手に裁いたり、「あの人よりわたしの方がマシ」と自己肯定感に浸ったりすることもなきにしもあらずです。
しかし、固執するものがまだまだあり、いつまでもへりくだることが上手になれず、また従順でありたいと願いつつも、それができないわたしたちにいつも寄り添ってくださるのが主イエス様であり、わたしたちを励ましてくださるのがご聖霊です。このイエス様を信じなさい。信じ続けなさい。信仰の目を離してはいけない。見続けなさいと今朝わたしたちは励まされています。
固執しないで、へりくだって、そして従順に生きて仕えられたイエス様を父なる神様はどのように扱われたでしょうか。9節に「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」とあります。わたしたちは弱い存在です。わたしたちは自分のことをよく知っています。しかし、それ以上に神様はわたしたちのことを知っておられます。ですから、わたしたちにイエス・キリストという救い主・最高の模範を与えてくださり、この最高の模範であるイエス様がわたしたち一人一人といつも共に歩んでくださいます。
わたしたちに必要なことは何でしょうか。10節と11節にヒントがあると思います。それはまず自分の弱さを認めて、主イエス様の御名によって神様の御前にひざまずくこと、そして「イエス・キリストはわたしの主である」と信仰を告白してゆくことです。日々そのように生きる中で、わたしたちは徐々に造り替えられてゆき、イエス様のように父である神様をたたえる生き者にされます。イエス様が信じて、従いましょう。