キリスト・イエスのお陰で得た多くの恵み

「キリスト・イエスのお陰で得た多くの恵み」三月第五主日礼拝 宣教 2025年3月30日

 ローマの信徒への手紙 5章1〜11節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。3月最後の日曜日の朝を迎えました。この日は、2024年度最後の主日でもあります。今朝も、神様の恵みにより、この礼拝堂に集められて共に賛美と祈りと礼拝をおささげできる幸いを感謝いたします。オンラインで礼拝をささげておられる皆さんも歓迎いたします。今朝は、寒暖差が最近激しいために体調を崩されている方々、ご家族に寄り添っておられる方々、お仕事があって集えない方々、その他の理由で欠席の方々が多いのが残念ですが、今朝も神様の愛に生かされ、数え切れないほどの恵みが神様から与えられていますので、わたしたちは本当に祝福されていると感じます。

 

今日は、この礼拝の後に教会の定期総会が開かれます。この一年の歩みを振り返り、そして新しい年度の計画が話し合われます。祝福があるようにお祈りください。2024年度は、「どのような時も主に信頼して歩もう」という標語を掲げて歩んでまいりましたが、皆さんにとってどのような一年であったでしょうか。この標語へと導かれた理由は、長年の複数牧会から単独牧会になることへの不安だけでなく、教会員、礼拝出席者、献金の減少、また様々な方面から、まずわたしの信仰、そして教会の皆さんの信仰が試される年になると直感したからです。今朝、今年度最後の日曜日を迎えた中で、わたしの直感はほぼ当たっていたと思っています。こういう直感は喜ばしくありませんが、個人的にも大変な事が多くありましたし、皆さんにもご苦労されたこと、悩まれたことも色々あったかと思います。

 

しかし、大変なことよりも、それを遥かに超える祝福を神様から受けることができたと感じています。頼るべきは、人やお金の多さではなく、わたしたち一人ひとりに信仰を与えてくださる神様のみです。神様だけに信頼できるのは、神様がイエス・キリストを通してわたしたちに信仰をお与えくださり、今も与え続けてくださっているからです。ニック・ブイチッチというクリスチャンが「わたしたちの魂を燃やす燃料は『信仰』だ」と言いました。

 

日々の仕事や子育てがどんなに大変でも、病があっても、人間関係が最悪に思えても、成すことすべてが空回りしているように思えても、神様はわたしたちにイエス様を与えてくださっている、確かな約束を与えてくださっている、信仰を与えてくださっている。だから、現実は確かに厳しくても、前進する力が神様から常に与えられているから大丈夫なのです。わたしたちに必要なのは、主なる神様と救い主イエス・キリストに信頼し続けることです。そのように生きること、神の愛に生かされていることを喜ぶことが神様を笑顔にするのです。

 

さて、3月最後の礼拝ですので、この1ヶ月間のメッセージの総まとめをしたいと思っています。今月は、イエス様は何のために十字架の道を歩まれたのかという理由を探す旅に出ましたが、その理由・目的を新約聖書と旧約聖書から2回ずつ聴きました。どうでしょうか。皆さんの信仰生活の助けに少しはなったでしょうか。神様の愛を求めておられる方々にもやさしくお話ししようと心がけたつもりでしたが、難しいことをお話ししたので理解するのが大変であったかもしれません。もしそうであれば、心からお詫びしたいと思います。

 

今朝は、ローマ書5章1節から11節を通して、わたしたちは、キリスト・イエスのお陰で、数多くの恵み・幸いを得て生かされているということをお話しいたしますが、この大部分が過去形で記されていますので、イエス様の愛と救いを求めておられる方々は、たとえば1節から4節の部分を未来形で読んでいただけると良いかと思います。こういう感じです。

 

「わたしたちはイエス様を救い主と信じると、信仰によって義とされますから、イエス・キリストによって神との間に平和を得ることができ、このキリストのお陰で、これからの恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとすることができるようになります。そればかりか、苦難をも誇りとすることができるようになります。イエスを救い主と信じることで、わたしたちは大切なことを知ることができます、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」 このような読み方はいかがでしょうか。

 

使徒パウロが、ローマでたいへん苦労して生きるクリスチャンたちに向けて書いた励ましの言葉を、神様からの救いの約束として読む時に、わたしたちの多くは大いに慰められると思いますし、神様の愛を受け取りたいと求めるようになるのではないかと思います。しかし、ここで重要なのは「キリストのお陰で、この恵みに導き入れられる」という神様からの働きかけがあることです。そしてもう一つ重要なのは、わたしたちがイエス様を信じて、救いを喜んで、恵みに応答して生きる決心をすることなのです。それが信仰であり、大変なことが日々繰り返しあっても、わたしたちの魂を燃え上がらせる燃料・力となるのです。

 

しかし、このローマ書5章を読んでも分からない部分が数多くあるかと思いますので、それらをピックアップしながら神様から与えられている多くの恵みを分かち合ってゆきたいと願っています。しかし、そもそも「恵み」という意味が分からないという方もおられるかもしれませんので、まずそこからお話ししたいと思います。この「恵み」というのは、イエス様のお陰で、神様から一方的に、そしてすべての人々に平等に与えられている神様の愛・憐れみを表す言葉です。例えば、昨日雨が降り注ぎましたが、雨を自然現象だと受け止めれば、ただの雨です。しかし、天から注がれた雨だと喜べば、それは恵みの雨となります。つまり、神様から与えられていると信じて、喜んで、感謝すれば、すべては恵みになるのです。

 

1節に、「わたしたちは信仰によって義とされた」とありますが、どういう意味でしょうか。それは1節の後半にありますように、「主イエス・キリストによって、神とわたしたちの間に平和を得ている」という意味です。この「平和」とは、心の平安とか、戦争がないという意味ではなく、神様との正しい関係があるという意味です。この正しい関係性は、イエス様を救い主と信じる信仰、それも神様から与えられているプレゼントなのですが、その信仰によって与えられるということです。わたしたちが創造主である神様に対して背を向けて自分勝手に生きることを選んでしまったために、神様との関係性は断たれてしまいましたが、その関係性を修復するために、和解を与えるためにこの地上に来られたのがイエス・キリストです。

 

わたしたちの罪の代償をすべて一括で支払うために、イエス様は罪に対する贖いの供え物・小羊として十字架に磔にされて、その流された血潮によってわたしたちの罪は洗い清められ、その命によって、神様とわたしたちの関係性を再びつなげ、回復してくださったのがイエス・キリストなのです。ですから、パウロは、すべては「このキリストのお陰で」と書き記すのです。このイエス様の十字架の死のお陰で、わたしたちは救われ、信仰へと導かれ、今ある恵みを喜び、感謝し、神様が与えてくださる平安が与えられているのです。

 

そればかりではありません。2節に「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と使徒パウロは言います。では、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」とはどういう意味でしょうか。「神の栄光にあずかる」とは、神様の憐れみによって神の許へと招かれ、御国で永遠の命に生きるということです。その希望が与えられていること、神様に愛されていることを喜び、感謝する、それが「誇り」とするということなのです。イエス様を通して神様につなげられて生きる、神様の家族の一人とされていることを素直に喜ぶ、それが誇りとなるのです。わたしたちに誇れるもの何一つなくて劣等感で苦しんでも、イエス様が神様の愛を与えてくださいます。

 

3節に「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」とあります。この苦難とは一般的な意味合いの苦難ではなくて、キリストを信じて従う者たちが世間から受ける無理解、誤解、抵抗、迫害を意味します。当時のクリスチャンたちは弾圧の中で苦しんでいました。しかし、パウロはそのような外的苦しみに屈しない。何故ならば、心に神様の愛と約束が、キリストの平和があるからです。

 

続く3節と4節に、「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」とありますが、「忍耐」とは信仰的に動揺しないということです。目の前の苦難ではなく、十字架のイエス様、復活のイエス様に信仰の目を注いでゆく時に忍耐が与えられ、「練達」が生まれるとパウロは言います。「練達」とは、成長が与えられ、自分の思いよりも神の御心を大切にするということです。神様を第一にすることによって、神様から希望が与えられ、その結果、5節にあるように、「希望はわたしたちを欺くことがありません」という揺るぎない確信を持つことができるようになるのです。

 

5節後半に、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」とありますが、わたしたちの心に愛を注ぎ、心を支え、励ましてくれるのも聖霊という神様であるとパウロは言っています。至れり尽くせりの愛を神様から受けていますが、これらもすべて、「キリスト・イエスのお陰」なのです。

 

6節から8節を読みましょう。「6実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」とあります。

 

「わたしたちがまだ弱かったころ」とありますが、これは「わたしたちがまだ罪人であったとき」という意味です。そのようなわたしたちを強くするために、信仰を与えるために、神様の前に清く正しくするために、わたしたちを罪から解放し、永遠の命に生かすために、ご自分の命を惜しまずに与えるために、イエス・キリストは十字架上で死んでくださった。この十字架に、わたしたち一人ひとりに対する神様の愛、永遠に変わることのない愛が示されているのです。

 

使徒パウロは、9節と10節で、「今や、わたしたちはキリストの血によって義とされた」と宣言します。キリスト・イエスによってわたしたちは神の怒りから救われ、神様と和解し、神の愛の中に生かされている、その恵みにいま与っている。それもすべてイエス様のお陰だ。この恵みに与り続けなさい」と励ますのです。まだ受け取っていない人は、いま受け取りなさいと招かれているのです。

 

11節は使徒パウロのさらなる励ましの言葉です。「それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」とあります。イエス・キリストのお陰で、わたしたちは神様に愛されていることを知り、信じる恵みが与えられました。その恵みを感謝し、ずっと大切に持ち続けること、それが「神を誇る」ということなのです。神様を誇りながら、主に信頼しつつ、教会が組織されてから60周年目の新しい年度へと共に踏み出してまいりましょう。主の豊かな憐れみの中、生き生きと主の恵みに応答する教会を共に目指しましょう。