クリスマスから十字架へ

宣教「クリスマスから十字架へ」          大久保バプテスト教会 副牧師 石垣茂夫   2020/12/13アドベントⅢ

聖書Ⅰ:マタイによる福音書1章1~6,17(新約p1)

聖書Ⅱヘブライ人への手紙7章3節(新約p408)

はじめに

今朝は、アドベント第三主日であり、来週はクリスマス礼拝を迎えます。「クリスマスから十字架へ」というタイトルの宣教で、イエス・キリスト誕生の目的は十字架にあるということを、ご一緒に覚えたいと願っています。

お読みいただきましたのはマタイの系図のうち、初めの14代ですが、既にこの箇所において、救い主は、恥と汚れにまみれた歴史を、一身に担ってお生まれになったことを、私たちに明確に示しています。

そして救い主の行く先は、世の罪をすべて引き受け、世に替わって償(つぐな)うという、十字架を目指した生涯でありました。

“クリスマスの日”、それは神の子が、私たち一人一人を、どん底に立って肉体を裂いてまで、しっかりと受け止めるために、この世にお生まれになったことを、私たちが知り、感謝する日なのです。

「系図の目指すもの」

皆様の家には「家系図」があるでしょうか。私にはそうしたものはありません。私が、自分の両親について知っているのは当然のことですが、祖父母のことになりますと、既に一部しか分かりません。皆様のご家族、特に先祖につきましては、どこまで把握できるでしょうか。

NHKテレビで、月に一度でしょうか、「ファミリー・ヒストリー」という番組があります。私もよく見ているのですが、有名人のルーツをたどって構成されています。よくここまで調べたと思えるほど、時間をかけて500年、600年前までさかのぼって正確に調べて番組を作っています。しかし、一般的にはそのようなこと不可能で、二世代か三世代前までの消息を知るのが限界のようです。

家系が続いているということは、素晴らしいことですが、その一方で、私たちの多くは、系図の分からないものなのです。

ヘブライ人の手紙7章には、「系図のないもの」という言葉が記されています。マタイの書いた、イエス・キリストの系図も、イエス・キリストで終わっていて、それ以降はないのです。これは何を意味しているのでしょうか。

マタイの系図には「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1:1)と最初に書かれています。

マタイが系図を最初の置いたのは、主イエスは歴史の流れでの中で、こうして由緒正しく、ユダヤ人として誕生したと、系図を重んじるユダヤ人に伝えようとして配置したのです。イエスは、「ユダヤ人の父・アブラハムの子である」、「ユダヤ人である」、これはユダヤ人にとって、現在に至っても、私たちの想像を超える、特別に重要なことなのです。

これを裏付ける出来事があります。クリスマスの出来事には、悪名高いヘロデ王が幾度か登場します。ヘロデ王は、実は隣国エドムにルーツを持つ人で、正当なユダヤ人ではなかったのです。本当はユダヤ人として生まれたかった。しかし消すことのできない過去を引きずりながら、ユダヤ王になったことで強い劣等感を持っていました。その反動として、一説には、彼はユダヤ全土に「系図を焼き捨てるように」との布告を出したとさえいわれています。

「系図に記された四人の女性」

ユダヤの人々はみな、神が約束されたアブラハムの血筋の子ですが、その中でも救い主は、理想の王であったダビデの子孫から生まれるとの約束を信じ、期待して待っていました。

ところが、マタイの系図によりますと、第一期、ダビデまでの、イスラエルの絶頂期に向かう最初の14代の中に、極めて不思議なことに、四人の女性が含まれているのです(1~6)。

当時、ユダヤ人の系図に女性が登場することはあり得ないことでした。しかもこの四名は、誇らしげに明記されるような人物ではなく、むしろ罪にまみれ、系図からは消し去ってしまいたい経歴の持ち主なのです。

1:2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、

 1:3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、

3節のタマルという女性ですが、創世記38章によりますと、タマルはヤコブの子ユダの長男エルの妻でしたが、夫のエルが死んだあと、続く弟を夫に迎えても子をもうけることなく、弟に先立たれてしまいました。

そうした事態に対して、義父ユダは、このタマルの苦しみを重く受け止めなかったのです。彼女は悩んだ末、義父ユダをだましてまでユダの子を宿し、家系を継いでいきました。これは許されないことでしたが、そのようにしてまで家系を継いでいった事実が明記されています。

1:5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、

二番目の女性はヨシュア記2章1節以下に登場するラハブです。彼女はエリコの城内に住むカナン人の遊女でした。このラハブは、エリコに迫るモーセの後継者ヨシュアの勢いを察知しました。そして自分たち一族を守るために味方を裏切り、ヨシュアによってエリコ城内に送り込まれた斥候の命を助けました。その功績で、エリコが陥落したときに、命を助けられ(6:25)、のちにサルモンの妻となり、ダビデ王につながる子孫、ボアズを残したと、系図は物語っています。

三番目の女性はルツです(ルツ記1章)。ルツは異国のモアブの女性でした。彼女はモアブの地で、若くして死んだ夫の母親ナオミに仕え、ナオミの故郷ベツレヘムに帰り、ボアズと再婚してダビデにつながる子孫を残しました。まことに誇れる女性ではありますが、ルツはモアブという外国の女性でした。ユダヤ人から見れば汚れた民であり、家系からは除かれるはずの人物でした。

1:6 エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、

さらに6節に出てくる四番目の女性、「ヘト人ウリヤの妻」はどうでしょうか。そのいきさつは、サムエル記下11章、12章に書かれています。

ダビデ王は忠実な部下ウリヤの妻が欲しくなり、ウリヤを戦闘の激しい戦場に立たせ、必ず死ぬように仕向けて殺害し、妻バテシバを自分のものにします。最も偉大な王の、最も大きな汚点を、系図はしっかりと書き留めています。

これらの四人の女性たちはみな、異邦人であり、様々な意味で罪にまみれ、系図からは消し去ってしまいたい女性たちでした。

ダビデ王は確かに、ユダヤの国に絶好調の時代をもたらした偉大な王でした。しかし、そうした時代の只中に、どす黒い罪を生じさせ、やがて国は下降線を転がり落ちていきました。主イエスは、そうした、時代がどん底に行き着いた時、この世にお生まれになりました。

マタイが記したこの系図は、決して誇らしいものではなく、むしろ恥の歴史なのです。マタイはこれを隠さずに伝えています。

マタイが伝えたいことは、ユダヤ人の歴史の、恥の部分を晒(さら)すことで、救い主は、過去の恥と汚れをすべて担うために遣わされ、私たちの間にお生まれになった方であると、十字架のためにお生まれになった救い主の誕生を告げようとしているのです。

『系図のないもの』(There is no record of his ancestors ヘブライ7:3)

10年ほど前のことですが、私の友人が一冊の本をくださいました。タイトルは『系図のないもの』となっていました。著者は藤木正三(ふじき・しょうぞう)という牧師です。

私はその友人の生い立ちを、つぶさに聞いていたわけではありませんが、彼は幼いころから母子家庭でした。そのような環境で育ってきた人ですので、手渡された本のタイトル『系図のないもの』を見て、私は彼自身のことなのかなと思いました。しかし書物の内容は、イエス・キリストの思いを深く掘り下げた文章が綴られていました。

その本の初めには、こう書かれていました。

「系図というものは、その人の、今あるがままを、単純に見ることを妨げてしまう。主イエスには、そのような偏見はない」。こう書かれていました。系図を絶対視するなということです。

確かに私たちは、何々家の子孫、だれだれさんの子、と聞いただけで、その人物の評価をしてしまうことがあります。

翻って、イエス・キリストはどうでしたでしょうか。どのような人に対しても、偏見を持つことはありませんでした。例え異邦人、罪びとであったとしても、どのような病に侵されていようとも、純粋にその人自身を見て接していかれたのではないでしょうか。

これまで少し長く系図について話しましたが、実はイエス・キリスト以後の系図はないのです。

ある方は、「イエス様が結婚しなかったからだ」と言っていますが、系図がないのはそれだけの理由ではないのです。いくつかの理由がありますが、最も大切なことは、神様の救いの業が、イエス・キリストで完成したのだということです。神なき時代はもう終わったということです。

私たちの生かされている今の時代は、主イエスの十字架の死と復活によってもたらされた勝利の時代であり、わたしたちは祝福された、救いの日を歩んでいるのです。

「なぜなのか」

それでもどうでしょうか。私たちには「神様なぜですか」と問うことが多いのです。ユダヤ人の重んじる系図に、四名の異邦人女性の名があったように、聖書の記事にも「なぜなのか」と問いたくなるようなことが沢山書かれています。

一つ二つの例を挙げてみましょう。

主イエスの誕生のためには、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子が、ヘロデ王の怒りのため皆殺されるという痛ましい事件がおきました。クリスマスには、あってほしくない出来事です(マタイ2:16)。なぜ救い主ともあろうお方の誕生の時に、このような凄惨な事件が起きるのかと思われないでしょうか。この事件に答えはないのです。

もう一つ、イエス・キリストの最後の言葉の中には「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)との言葉があります。これはイエス・キリストが、父なる神に発した十字架上の最後の問い掛けです。この問いかけに、父なる神は答えてくださいませんでした。

同じように、私たちの人生の歩みというものは、答えてもらえない問いの連続なのかもしれません。私たちの、そうした人生の真っただ中に主イエスは生まれ、しかも十字架の主イエスとして立ち続けてくださっています。主イエスは今、私たちとおなじように「どうして」と問いながら、私たちと共にそこに立っておられます。クリスマスとは、新しく、そのことを確認するときでもあります。

「メルキゼデクの祝福」

今朝はヘブライ人への手紙7章の初めを、合わせて読んでいただきました。

そこに、創世記14章でアブラハムに現れたメルキゼデクという王が登場します。アブラハムは、当時はまだアブラムという名前でしたが、争いを好まない柔和な人でした。しかし、甥(おい)のロトが、周辺の連合軍によって連れ去られた時、わずか400名足らずの手勢を率いて相手を降参させ、ロトを救出しました。しかも奪った戦利品の多くを、戦いの相手に返したのです。その帰り道に、突然メルキゼデクが現れ、アブラハムを祝福し、帰っていきました。メルキゼデクとは何者だったのでしょうか。アブラハムが招待したのではないのです。メルキゼデクは、ただパンと葡萄酒を持ち、「アブラムを祝福するために来た」と書かれています。

ヘブライ人への手紙には、メルキゼデクについて、創世記にはない説明がなされています。

「彼には父もなく、母もなく、誇るべき系図もない。神の子に似たようなものであり祭司である」(7:3)と書かれています。

後になってこの人は、救い主イエスを表していたと言われるようになりました。

メルキゼデクとは神の子ではないが、その姿は、まさにイエス・キリストなのです。

私たちが今、どのような喜びにあろうとも、どのような苦しみ悲しみの中にあろうとも、イエス・キリストは私たちを見ておられ、私たちが招く前に、祝福をもって私たちに近づいてこられます。

今、私たちの歩みの根底を支えているのは、主の日の礼拝によって与えられるイエス・キリストの祝福ではないでしょうか。この恵はクリスマスに限ったことではありませんが、クリスマスを迎えるにあたり、私たちは一層、神の祝福の中にあることを感謝してお受けし、この祝福を伝える者とさせていただきましょう。