ザアカイの発見

宣教要旨「ザアカイの発見」      大久保教会副牧師 石垣茂夫   2019:01:20

聖書ルカによる福音書19章1~10節(p146)  招詞エゼキエル書34章16節

主イエスが地上のわたしたちのもとに遣わされた目的が9章10節に明確に記されています。

人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」という言葉です。「人の子」とは主イエス、ご自身の事ですが、次の「失われたもの」とはどのような人の事でしょうか。「主なる神を知らない人々」、あるいは「神の言葉を真剣に聞こうとしない人々」が想い浮かんできます。先週の事ですが、「失われたもの」とは、「適当に生きている人」が含まれるという言葉に出会いました。厳しいなと思いました。皆さまはどう思われるでしょうか。今朝は、そのようなことを問ながらザアカイの物語からご一緒にお聞きしましょう。

 

主イエスはガリラヤを出発、しヨルダン川沿いに南下してエリコに入り、向きを変えてエルサレムに向かおうとしていました。エリコは国境に近い交通の要衝(ようしょう)です。多くの人がここを通り、沢山の物資もエリコを通過していきます。税金の徴収には最適な土地でした。ザアカイは、そのエリコの町の税関の署長のような存在でした。

19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。

ザアカイは主イエスの様々なうわさは聞いていましたが、何よりも徴税人仲間のレビが主イエスの弟子になったことを知り、レビに何が起きたのかと関心を持っていました。ある日、急に外が騒がしくなったので外に出てみると、「主イエスが、もうすぐここを通る」と人々が騒いでいます。主イエスが近付いてきたことを知ったザアカイは、「ぜひイエスを見たい」と思うのですが、大勢の人が主イエスを取り囲み、ザアカイには思うように見えないのです。

19:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。この日背の低いザアカイは、なぜ木に登ったのでしょうか。

ザアカイの仕事は、支配者ローマの手先となり、定められた税金を取り立てることでした。しかもその額を偽り、額を超えて人々から税金を徴収しては、私腹を肥やし、贅沢な暮らしをしていました。主イエスの働きを耳にしているうちに、主イエスを見たい、お会いしたいという思いが次第に強まっていたのでしょう。しかしその際に、主イエスとはまともに顔を合わせられないと思った。隠れて、そっと見ていたいという心理が働いたとわたしは感じました。

「神を隠れて見る」というこの情景は聖書の他の箇所にも見ることが出来ます。

創世記の初めに「食べてはならない」と、神が命じられた園の木の実を食べてしまった最初の人、アダムとエヴァの物語があります。二人は、神とは、まともに向き合うことが出来なくなってしまいました。神に呼ばれても、二人は木(こ)の間(ま)に隠れ、神との約束を軽く受け流し、責任を他に擦り付けて、適当に返事を返し、逃れようとしました【創世記3章】。

ザアカイも後ろめたい気持ちをもって木に登り、主イエスからは見えないようにして、一行が通り過ぎるのを待ちました。

19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

主イエスとザアカイ、その日初めて目を合わせたのに、一瞬にして互いに通じ合うものがあったのです。神の業は、このように、人の思いが及びもしなかったことから始まりました。

主イエスを取り囲んでいた群衆は、「主イエスともあろうお方が徴税人のような罪深い人の家に入った」と憤(いきどお)りました。彼らはみな一斉にその場から散ってしまったことでしょう。

しかし主イエスは、ザアカイの悩みの中に訪れてくださり、ザアカイの苦しみの中に飛び込んでこられました。欲深い「ザアカイ」の名前にも意味があります。「ザアカイ」とは「ピュアな人」「欲のない人」という意味です。どのような家庭に生まれ育ち、今家族があるのかどうかも分かりません。彼がなぜ人々が嫌う徴税人になったのかもわかりません。ザアカイには、他の人には分からない深い悩みや苦しみがあったことでしょう。しかもそのザアカイの家に、主イエスは泊ってくださったのでした。泊るという事はザアカイの苦しみとずっと一緒にいてくださるということです。

ザアカイの心は、神に向き合うようにと一瞬にして変えられました。その日、断固としてその生き方を変えました。それまで人々を脅し、だまして取って生活してきた悪夢のようなことから、ザアカイは解き放たれました。次の言葉がザアカイの本心を物語っています。

19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

「ザアカイは立ち上がって言った」のです。ここにザアカイの決意が見えます。

 

レンブラントの絵に「聖書を読む母」という題名の作品あります。母が聖書を読んでいる場面で、開いている聖書箇所はどこなのかとよく見ますと、「ザアカイの物語」です。

「ザアカイの物語」は多くの人に愛されて読み継がれ、語り継がれてきました。それは何故なのでしょうか。単にユーモラスだからという事ではなく、この物語から、「人を救う神の業」と、「救われた人の喜び」に触れることが出来るからではないでしょうか。

その後のザアカイについては、様々な伝説が残っています。ザアカイは回心し、信仰を持って歩みはじめ、やがて、カイサリア一帯の、教会の牧師のリーダーになったと言う伝説があります。「ルカが書いたザアカイの物語」は、恐らく、カイサリアの教会で、何度も何度も、ザアカイ自身が、自分の証しとして語ったことが伝えられたからではないかと言われています。

主イエスに呼ばれ、主イエスにお会いした時から、ザアカイの考え方は「わたしは、いい加減な、適当なこれまでの生き方から救われたい」、という方向に変わったのです。

「失われた人ザアカイ」を発見した主イエスは、「今日は、あなたの家に泊まることにしているから」と言ってくださいました。わたしたちも、喜んで主イエスを、わたしの家に迎える信仰へと、日々導かれましょう。