「パウロの最後の勧めと神への賛美」 八月第四主日礼拝 宣教 2019年8月25日
ローマの信徒への手紙16章17〜27節 牧師 河野信一郎
2018年5月から開始しましたローマの信徒への手紙の学びですが、クリスマスとイースターを挟みましたが、1年4か月にわたるシリーズを今朝で終えたいと思います。聴衆の皆さんもこの期間よく頑張られました。本当にすごいなぁと思います。とっても誇りに思います。
わたしたちは、このローマ書を2つのテーマで聴いてまいりました。一つは、わたしたちが礼拝をささげている神様、イエス様はどのようなお方であるのかということ。そして二つ目は、イエス・キリストを通して恵みのうちに神様に救われた者としてどのように生きてゆくべきか、どのように主の恵みに応えて行くべきかということをご一緒に聴きました。
ローマの信徒への手紙を1章からずっと聴き続けることは、皆さんにとってご自分の人生のように、山あり谷ありの学びであったと思います。喜んだり、感動することも多くあったと思いますが、難しすぎて戸惑ったという箇所も多分あったと思います。正直に言って、準備する私も、毎回、「格闘」か「感動」のどちらかでした。その学びも今朝で一応終わります。
この手紙の最後の章は、パウロ先生の挨拶の言葉と最後の励ましの言葉が綴られていますが、前回の宣教で16章1節から16節を聴きましたので、今朝は後半の17節から27節を通して神様の語りかけをご一緒に聴いてまいりたいと思います。パウロ先生の挨拶の前半部分の宣教をお読みになられたい方は、教会ホームページの「宣教要旨」の欄を閲覧くださればと思います。また、ローマの手紙が終わることで「ローマ書ロス」になる方がもしおられるようであれば、ガラテヤの信徒への手紙をお読みになることをお勧めいたします。この手紙もキリスト教の教理など、ローマの信徒への手紙に劣らないマニアックなことが記されていますので、すぐに「ローマ書ロス」は解消されると思います。
さて、本題に入ってゆきたいと思いますが、使徒パウロ先生は、このローマの信徒たちへの手紙を閉じるにあたり、すべて挨拶と励ましの言葉で終えたかったと思うのですが、どうしても最後にローマにあるクリスチャンたちに対して警告と言いましょうか、熱心な勧め、忠告をしなければならない状態にありました。それは、イエス・キリストの教え・言葉に反することを語り教える偽教師たちがローマにある複数の「家の教会」に入り込んでいた、入り込み始めているという状況があったからです。この偽教師がどういう間違ったことを教えていたのか、パウロ先生は具体的に記していませんので正確には分かりません。福音だけでなく、イスラエル・ユダヤの律法も同時に守らなければ救われないと言って、キリスト教+ユダヤ教に傾かせる人たちも教会の中にいたことが手紙には記されていますが、必ずしもそのような人たちが「偽教師」と特定することはできません。何故ならば、異邦人クリスチャンたちにはありませんでしたが、ユダヤ人クリスチャンたちにはそのような傾向があったからです。しかし17節と18節に偽教師たちがしていたことが記されていますので、そこを読みたいと思います。
「兄弟姉妹たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、私たちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。」とあります。
偽教師たちが教会の中でしたこと、しようとしたことは、第一に不和を生じさせて教会の交わりに分裂・分断を与えるということでした。第二に純朴な、純真なクリスチャンたちの前につまずきの石を置いて、その人たちの信仰につまずきを、不安になる材料を与えることでした。「こういう人々は、私たちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いている」とあります。キリストに忠実に仕えないで、自分たちの欲望を求めて生きている人たちがいて、言葉を巧みに操って人を騙す行為がありました。牧師である私も同じことをしていないか、見つめ直さなければならないと思わされます。
このローマの学びを通して、主なる神様とイエス様はわたしたちに三つの愛に生きて欲しいと切に願われていることを聴きました。その三つの愛とは、まず「心と精神と思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒めを守り、神様とイエス様を愛するということ。次に「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めどおりに隣人を自分のように、イエス様が私を愛してくださったように私の出会ってゆく隣人を愛するということ。もう一つは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というイエス様の戒めに聞き従ってわたしたち神の家族が互いに愛し合うということ。この三つの愛に生きる時に真の平和が生まれてくることを聴きましたが、そのような愛の交わりに不和を生じさせてしまう教えを語り、信徒たちがつまずいてしまうきっかけを作る人たちがいたようです。
人生の最大の不幸は、創造主なる神様を見ないで、周りの人たちを見てしまい、お互いを比べ合うこと、比較し合うこと、背伸びの競争をするだと聴きました。神様から与えられているお互いの違いを認め合い、受け入れ合い、喜び合わないで、その反対にお互いの良いところも悪いところもぜんぶ比べ合うから、競争心が芽生え、互いの存在を喜べず、競争相手だと敵視したりする。その中には優越感に浸る人、劣等感に苦しむ人が出てきて、人を簡単に評価したり、区別したり、分類したりして、一つのコミュニティを分断してしまう。
ある映画の中で「どんな才能よりも、もっとも大切なのは『愛する才能』です」という言葉がありました。才能ということだけではありませんが、なんに関しても「上には上が必ずいます」。わたしたちの才能よりももっと別格のすごい才能を持った人がいます。しかし、わたしたちがすべきこと、大切なことは、ありのままの自分を愛してくださる神様が、イエス様がおられるということを信じて、感謝して、喜んで、とことん謙遜に生きることです。そして神様が求めておられる三つの愛に生きることです。「どんな才能よりも、もっとも大切なのは『愛する才能』です」という言葉を心に刻み、神様と主イエス様がわたしたちに求めておられる三つの愛に生かされたいと願います。
わたしたちの生活の中には、残念ながら、不和を生じさせる者、つまずきの石を故意におく者たちがいます。パウロ先生は「教会の中にも入り込んできている」と忠告してくれています。では、わたしたちはその問題にどのように対処すべきでしょうか。パウロ先生は、そういう人たちを警戒しなさい。そして彼ら・彼女らから遠ざかりなさいと勧めています。
ハラスメントという問題が昨今大きく取り上げられていますが、一昔前は相手を不快な思いにさせる行為が当たり前のごとく繰り返されていた訳です。ハラスメントにも種類がありますが、基本的なところで35種類、最近では50種類を超えたとも言われています。ネットで「ハラスメントの種類」と検索すればすぐに出てきます。今、スマホを取り出して検索してはなりません、良いですか。
大切なのは、そういう人たちから離れるということです。距離を置いて付き合わないことです。教会の中では、三つの愛に生きるどころか、それを否定するような生活をしている人がいるとしたら離れるということで、牧師がまず気をつけなければならない点です。
次に大切なこと、パウロ先生が勧めることは、19節前半に記されています。「あなたがたの従順は皆に知られています」とあります。つまり、大切なことは、どんなことがあっても神様とイエス様に従順に生きるということです。いつも皆さんにお伝えしていることですが、神様に従順に生きるとは、神様に対して忠実に生きるということです。そして神様に忠実に生きるためには、隣人に誠実に生きることが大切で、隣人に対して誠実に生きるためには、自分に対して信実に生きること、自分に対して嘘を言わない、無理をしないで、正直に生きることが大切であると言っています。自分に信実な人は、隣人に対して誠実にいることができ、それが神様に対して忠実に生きることになります。主なる神様は、パウロ先生を通して、19節後半で「従順の上に、善には聡く、悪には疎くあることを望みます」と言っています。実直な人柄、ピュアな信仰は大切ですし必要です。しかし、何が良いものであり、何が悪いものであるのかを識別する力が大切で、その力を惜しみなく与えてくださるのが神様です。この神様を信じて従ってゆくことが求められています。
20節をご覧ください。「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」とありますが、ここに二つの約束が記されています。一つは、主なる神様は勝利を収められるということ。つまり、わたしたちが今、戦いに苦しみ、悩んでいても、痛んでいても、悲しみにうち塞がれていても、神様が必ず勝利され、その勝利をわたしたちに手渡してくださるという約束です。もう一つは、主イエス様の恵みがわたしたちと常に共にあり、わたしたちを助け励まし、導いてくださるということです。神様は主イエス様の十字架の死を通してわたしたちの罪を贖い、復活を持って最大の敵である「死」に勝利してくださり、永遠の命への道を開いてくださいました。この福音を信じ、イエス様に従ってゆくことがわたしたちに求められています。
21節から23節には、パウロ先生の協力者たちからローマの兄弟姉妹たちへの平和の挨拶が記されていて、テルティオという人物がこのパウロ先生の手紙を代筆した人であったことも記されていて、興味深いことがいくつも記されていますが、ここで大切なのは二つです。一つは、「キリストに結ばれている者」というクリスチャンたちの共通点です。まず大切なのは、わたしたち一人一人がイエス様にしっかりと結ばれているということです。もう一つ大切なことは、「わたしとこちらの教会全体が世話になっている」とありますが、世話をする、つまりおもてなしの心、ホスピタリティーが教会に大切であるということです。成長して多くの実を結んでいる教会の特徴は、聖書を神の言葉として聞いて従うということと、誰でも迎え入れ、心から仕える、おもてなしのスピリットがあるということです。外に出て行って福音を宣べ伝え、神様の愛、イエス様の救いを必要な人々を迎え入れる教会は成長します。
ローマの信徒への手紙は、神様への賛美で締めくくられていて、もっともふさわしいことです。何故わたしたちは神様を信じ、礼拝をおささげするのか。
わたしたちはこの16ヶ月の間、わたしたちが礼拝をおささげしている神様、イエス様はどのようなお方であるのかということ。そしてイエス・キリストを通して恵みのうちに神様に救われた者としてどのように生きてゆくべきか、どのように主の恵みに応えて行くべきかということをご一緒に聴きました。その集大成が25節から27節に記されています。
「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります」と25節前半にあります。わたしたちが礼拝している神様は、なんでもできるお方です。God is Able. この競争社会の中で生き、絶えず人と比べられ、疲れ果てているわたしたちを励まし、強く立たせてくださるお方です。この神様を信じて、第一にて歩んで参りましょう。
「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです」と25節の後半にあり、ここになぜ礼拝を大切にすべきなのか、その理由が記されています。礼拝は、イエス様を救い主と信じる人たちが共に福音に聴き、聖書を通して神様がわたしたちのために準備してくださっているご計画を聴く時です。わたしたちの思いと神様の思いを行き来させ、コミュニケーションをとる時です。神様は、神の家族を大切にされるお方であることをローマ書から聴きましたが、信仰共同体である教会が一堂に集まり、共に父なる神様の御声に聴いてゆくのが礼拝です。
26節に「その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました」とありますが、神様の御心を完全に聴くためには、旧約聖書と新約聖書から語られる主イエス様の言葉を読み、聴くことが大切であることがここに記され、そのように生きる者を従順なものと神様がしてくださる、すべての人、異邦人であるわたしたちにもその言葉が恵みとして与えられ、この言葉に聞き従う人を永遠のいのち、永遠の住まいである御国へと主が、御聖霊が導いてくださいます。
「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン」という言葉でこの手紙は終わっています。わたしたち一人一人は、この知恵ある唯一の神様に創られ、命与えられ、絶えず愛され、イエス様を通して罪赦され、恵みのうちに生かされています。それは、神様の栄光のために、神様の喜びのために生かされているという真理が記されています。この愛と真とをもって、御聖霊に助けられつつ、共に歩んでくださる神様をほめ讃えつつ、忠実に仕え、人々には誠実に生き、平和のために仕えましょう。それが恵みに応えて生きる道です。