「ピリピ教会の始まり」 2014年5月18日
聖書 使徒行伝16章6-15節(口語訳聖書p208)
わたしたち大久保教会では、この4月から、「ピリピ人への手紙」のみ言葉を、教会の年間聖句としています。
わたしは、しばらくの間、宣教の時は、「この手紙」から、中心となるテーマを見出して宣教させていただきます。
今朝はこの手紙の宛先である「ピリピの教会」が、どのようにして始められたのか、使徒行伝16章を辿ってみましょう。
「弟からの手紙」
皆さんは手紙を書くということを、現在、どの程度なさるでしょうか。
最近のわたしは、メールで済ませますので、手紙を書くことは年に2-3回になりました。
そして、短くすることばかり考え、心を込めて書くことはなくなってしまいました。
これまでの人生で、手紙を交わした経験として、最も印象に残っているのは、一つ下の弟とのことです。
互いに高校を卒業するころになって、父の病が重いということが分かり、家業を二人で継いでいこうという思いになっていました。
わたしは、親もとにいまして、仕事をしながら大学に通いましたが、弟は職人となるため、小さな工場に弟子入りし、住み込みで雇ってもらいました。
弟の月給は2000円でした。当時としても低いもので、月給というよりは、お小遣い程度のものでした。
二年を過ぎた頃、弟にとって辛いことがあり、わたし宛てに手紙をよこしました。
その手紙は、「親方とうまくいかなくなってしまった。もう家に帰りたい」という内容でした。
弟からもらった初めての手紙であり、読んでいてわたしも辛くなり、涙がでてきたのを覚えています。
しかし、思いがけない、弟からの手紙であり、とても、うれしく感じました。
わたしは、心を込めて返事を書き、「もう一年がんばれ、そして一緒に仕事をしよう」と励ましました。
それから間もなく、兄弟で一緒に仕事を始めたのですが、最初から最後まで、わたしたちはケンカばかりしていました。
それでも、わたしにとって、弟からの手紙は一番心に残っている手紙であることに、今も変わりはありません。
さて、パウロが書き、教会に届けた手紙というのは、そうした私的なものではありません。
手紙は、教会の大勢の人の前で、繰り返し読むように指示されたものでした。
その手紙は、注意深書き写して新しくされ、千年を超える期間、教会で読み継がれていきました。
現在はその手紙が、聖書となって、世界中の人が読んでいます。
手紙を書いたパウロさんも、驚いていることでしょう。
「教会の始まり」
さて、この手紙の宛先である「ピリピ教会」はどのようにして始まったのでしょうか。使徒行伝にその様子が描かれています。
6節~8節にこのように記されています。
「アジヤ州にいた時、そこで御言葉を語ることを御霊に禁じられた」、とあります。
そのためパウロの一行は向きを変えて、北方のビテニヤに行こうとしたところ、今度は「イエスの霊が、これを許さなかった」とあります。
自分たちの思いと違って、前に進むことを、聖霊によって禁じられたというのです。
そのため彼らは、西に向かい、エーゲ海に面したトロアスに留まることになりました。
なにもできないまま、パウロ一行は、トロアスにいて、目の前に広がるエーゲ海を見ていたのです。
この事態をどう理解すればよいのでしょうか。
それは、使徒パウロの宣教活動に先立って、主が働き、新しい道を備えてくださっているという以外に、答えの持てないことでした。
実は、行くことを禁じられたアジヤ州の宣教は、後に他の人々によってなされていったのです。
エペソをはじめ、7つもの教会が、その後誕生したことが、黙示録1-3章に記されています。
「マケドニヤ人の幻」
ある夜のトロアスに留まるパウロに、一つの幻が現れました。
幻の中で、一人のマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに来てわたしたちを助けてください」とパウロに願ったのです。
マケドニヤはエーゲ海を挟んでトロアスの対岸にあり、当時の世界の中心であるギリシャの大都市でした。
行く手を阻まれたと思われた時、全く新しい道がそこに開かれていきました。
10節に「 パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。」とあります。
一同は、これを「神からの呼びかけだ」と信じることができたのです。
11節「 そこで、わたしたちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた」
12節 「そこからピリピへ行った。これはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。わたしたちは、この町に数日間滞在した。」
ここに始めてピリピという町の名前が出てきました。
この町の名は、世界制覇をなしたアレキサンドロス大帝の父フィリッポス二世の名をとったもので、大いに栄えていた町でした。
渡った先はもう、アジヤではなく、ヨーロッパです。
キリスト教がアジヤから、初めてヨーロッパへと伝わった時でした。
それは主イエスの言葉、「エルサレムばかりでなく、地の果てにいたるまで、わたしの証人となる」という言葉が一歩前進したときでした。
「ピリピでの宣教」
13節 「ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。
パウロたちは新しい土地では、いつも必ずユダヤ人の会堂・シナゴーグを訪ね、そこで集会を開いてきたのですが、ピリピにはまだ、会堂と呼べる建物はなかったようです。
「祈り場があると思って、川のほとりに行った。」とあります。会堂がないときでも、ユダヤ人は「祈り場」を作って集まっていたのです。
しかも、集まってきたのは女性たちであったことがはっきりと書かれています。
14節「 ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。」
ここに、アジヤ州テアテラ市の人、紫布の商人でルデヤという女性が登場します。
テアテラ市という場所は、パウロたちが行くことを止められたアジヤ州にある街です。
そのような不思議な出会いが、ここピリピで起きました。
テアテラは、紫の染料の産地でした。そこで扱う紫布は高級な布でした。
しかも女性が主人となって、高級な布を扱う事業をしていたのです。
「ピリピ教会の始まり」
15節 そして、この婦人もその家族も、共にバプテスマを受けたが、その時、彼女は「もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい」と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った。
「もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、」というルデヤの言い方は非常に謙遜であったという印象を与えます。
当時の習慣として、主人であるルデヤが信仰に入ったということは、その家族はもちろん使用人も含めて,一族が信仰に入ることを意味していました。
ルデヤはテアテラ出身で異邦人です。
ヨーロッパで最初のパブテスマは、異邦人の女性と、その一族でした。
ルデヤの一族とルデヤの家によって、ピリピ教会成立の基礎が据えられたということです。
この頃すでに、地中海世界には、多くのユダヤ人が住んでいました。男性が10人いれば、そこにユダヤ人の会堂を建てたといわれています。
しかし、そのような時代に、ピリピ教会の出発は、異邦人女性を中心に、女性たちによって始められたのです。
招詞では、使徒行伝1章の『 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう』(使徒1:8)というお言葉をお聞きしました。
この言葉は、復活の主イエスの、地上での最後の言葉となりました。
そして、この言葉のとおりに、福音が伝わって行くことを、使徒たちは経験させられていきました。
福音の宣教は、このピリピのように、各地にキリストの教会を作るということで広まって行ったのです。
この、キリストの教会による宣教の方法は、パウロたちが思いついたことではありません。
キリストの教会を、どこに作ろうかと、パウロたちが探したわけでもありません。
ただ、聖霊の導きの中でとしか、言い表せない出来事の連続でした。
大久保教会は来年7月で50歳になります。
この教会の始まりも、神さまによって幻を見せられ、聖霊の導きのうちに、路傍に立って祈った方があったからです。
ピリピの時と同じようにして始められた宣教の働きが、ここ大久保で起きたことを大切にして参りましょう。
「ピリピ教会の始まり」の思いに、わたしたちも立ち帰りこの一年を導かれて参りましょう。[祈り]