「ペトロの嘘と主イエスの告白」 四月第一主日礼拝 宣教要旨 2017年4月2日
ヨハネによる福音書 18章12〜27節 牧師 河野信一郎
主イエス・キリストは、弟子のイスカリオテのユダに裏切られ、祭司たちユダヤ人とローマ兵たちに捕らえられてしまいますが、最初にイエスが連れて行かれたのは、アンナスというすでに隠居していたはずの元大祭司の屋敷でした。この人はユダヤ社会の中で非常に大きな力を持っていましたが、ローマの総督に疎ましく思われ、無理やりに大祭司の座から引き下ろされた人でした。けれども、陰でユダヤ社会を牛耳っていた最高権力者でした。この者が、イエス・キリストを殺そうとしていたユダヤ教グループの黒幕でした。この者の娘婿カイアファが当時の大祭司の座についていましたので、この婿と結託して主イエスを地上から抹殺しようと群衆を先導したのです。最初から主イエスを殺す計画でしたから、主が捕まったということは十字架刑が決まっていたのと同じです。彼らは、人々に偽証をさせ、ローマの総督を脅迫し、群衆を煽動して、嘘の上に嘘を重ね、不正な裁判を進めてゆきます。
現在の日本の国会でも、誰が真実を語り、誰が嘘をくり返しているのか分からない状態が証人喚問や審議で続けられ、その背後でとてつもない大きな力が動いています。私たちの生きる社会は、また生活の中でも、たくさんの不誠実、不正、不平等、差別がくり返されています。仮面をかぶって人を騙している人、自分にも嘘をつき続けて生きる人。最初は小さな嘘が雪だるま式に大きくなりすぎてお手上げ状態の人。そのために家族や友人、社会からも関係を断ち切って生きている人たちが多く存在し、日々苦しみ悶えています。
今回の箇所を15節から38節まで見てゆきますと、主イエスの弟子の一人であるシモン・ペトロが主イエスを知らないと嘘をつく箇所と主イエスが大祭司やローマの総督ピラトからの尋問を受ける中で、気丈に真実を語り、告白される箇所が交互に記されていることが分かり、福音書の記者ヨハネがシモン・ペトロと主イエスを対照的に描き出そうとしています。
シモン・ペトロは、自分の命を守るために嘘をくり返します。しかし、主イエスは命の危険にさらされていても、真実だけを語り、弟子たちの命と信仰を守ろうとされます。嘘をつく度に激しく動揺するペトロと真実を語る度にさらに堂々とされる主イエスがいます。
今回は、ここから三つのことを分かち合いたいと思います。その三つの内の一つでもあなたの心に響くものがあれば、主イエスからあなたへの語りかけと信じて、残された受難節の歩みの中で持ち運び、よく味わってほしいと願います。
まず一つ目ですが、主イエスから離れては、私たちはとても弱い存在であるということです。シモン・ペトロは、主イエスが共にいてくださる時は、いつも自信たっぷりで、大胆な発言と行動をする人でした。「あなたのためなら命を捨てます」とか、「あなたが導く所であれば、どこへでも行きます」という人でしたが、主イエスが捕らえられ、ペトロの傍からいなくなってしまい、独りになり、信仰的なチャレンジを受けますと、彼はいとも簡単に勇気と大胆さを失ってしまい、また主イエスの弟子であることも「知らない」と嘘を言って捨ててしますような人になります。しかし、私たちの多くも、ペトロと同じ存在なのです。主イエスを近くに感じなくなる時、私たちの信仰は弱くなり、自分のことしか考えなくなり、主イエスの弟子であることを忘れてしまうのです。ですから、「自分は大丈夫。絶対に。という自信過剰が主イエスを知らないという嘘につながってゆくのです。自分の力、才能、実力、力量に自信を持つことは失敗につながるということをペトロは鶏が鳴いたときに気付かされ、深い悲しみに打ち拉がれるのです。ですから、いつも主イエスを仰ぎ見て、謙遜に生きましょう。主イエスから離れないように、信仰生活、教会生活を大切にしましょう。
二つ目ですが、主イエスは自分を殺そうとしている人々の前で堂々と真実を語ります。19節に「大祭司はイエスに弟子たちのことや教えについてたずねた」とありますが、イエスを片付けた後に、弟子たちも一人残らず捕らえてしまおうという魂胆であったのでしょう。けれども、主イエスは弟子たちの命と信仰を守るために、弟子たちのことには触れず、ご自分が今まで語って来たことは「わたしにたずねるよりも、わたしの教えを聞いた人々にたずねるがよい」とはねのけ、正々堂々とされています。ここから、主イエスがいかに弟子たちとのつながりを大切にしておられるか、またそのつながり、絆を更に強くしようとされていることが読み取れます。
しかし、シモン・ペトロはどうでしょうか。主イエスの命を守るのではなく、自分の命を守るために嘘を繰り返すのです。3回も、「わたしはイエスなど知らない。わたしは違う」と主とのつながりを否定するのです。否定する度に、主イエスとのつながりを断ち切ってゆくのです。嘘は、人とのつながりを切るだけではなく、イエスとのつながりも切ってゆくことであることを覚えて、主イエスがいつも真実を語ってゆかれ、そしてつながりを大切にされたように、主と同じように生きることをいつも主に求めてゆきましょう。
三つ目です。ペトロは門番の女中から「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と言われ、一緒に火にあたっていた人々からも「お前もあの男の弟子の一人ではないか」と問いつめられ、26節では大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が「園であの男と一緒にいるのをわたしに見られたではないか」と問われていますが、すべて打ち消します。
ここでご一緒に覚えたいのは、人は案外、あなたのことを、私たちのことをよく見ているということ、見られていないようで見られているということです。そして、主なる神は私たちのことをもっと見ておられ、知っておられるということです。もし、私たち一人一人が間違ったことをしていたり、人に隠れて罪をなにか犯していれば、神を恐れて罪を悔い改めなければなりません。けれども、いつも正直に、謙虚に、実直に生きてゆく時、神はそれを喜んでくださいますから、畏れる必要はあっても、神を恐れる必要は何一つありません。
主イエス・キリストというお方は、裏表のないお方でした。いつも父なる神には忠実に、人々には誠実でした。私たちも、二面性、多面性、仮面をかぶることから解放されて、感情や思いに裏表のない日々を送りましょう。不安であれば、主により頼みましょう。主イエスは私たちの弱さを良くご存知ですから、必ず私たちを助けてくださいます。主イエスに日々励まされて、神には忠実に、隣人には誠実にいつも生きてゆきましょう。
そのためにまず、自分と真剣に向かい合い、自分に対して嘘をつくこと、無理をすること、自力に頼ること、自分の心や思いを押し殺さないように、信実に生きてゆけるように、主イエスの御名によって神に祈り求めていきましょう。主イエスに求めてゆきましょう。
神は、そして主イエスは私たち一人一人を心から愛してくださっています。必ずあなたを、そして私たちと共にいてくださり、助け、導き、祝福してくださいます。主を信じましょう。