ヨハネ(1) 初めに言があった

2025.9.3 ヨハネによる福音書1章1節〜4節

ヨハネによる福音書の学びを始めてまいります。1章から21章までを共に読み進めてゆき、神様とイエス様の言葉、主の語りかけに耳を傾けてまいります。どれくらいの期間を要するでしょうか。最低でも2年は必要かと思いますが、皆さんとご一緒に、少しずつ、コツコツと読み進めてゆきたいと願っています。また、お休みされても教会のホームページに掲載しますので、お時間のある時にお読みいただければと思います。

今回は、最初の学びとなりますので、福音書全体へのイントロダクション・導入という意味合いを込めて、基本的な情報をまずお伝えしたいと思います。しかしながら、学術的な事を話すだけの時間はありませんので、執筆年代や執筆場所、また動機などには触れませんが、誰が、何の目的でこの福音書を記したかだけを簡単にお話ししたいと思います。

まず、この福音を記したのは、ヨハネ福音書21章24節によりますと、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。」とあります。「この弟子」とギリシャ語原文では冠詞theが付けられている存在は、伝統的にはイエス様に愛された弟子ゼベダイの子ヨハネとされています。現代の神学界ではそのように支持されてはいませんが、わたしはゼベダイの子ヨハネが記したという立場を取ります。確かに、誰がこの福音書を記したのかは大切な事かもしれませんが、マタイ、マルコ、ルカたちによる3つの福音書とは全く異なった視点から、わたしたちの心に、魂に生きる力を与えてくださるイエス様の言葉と御業を記させた、記録させたのは、主なる神であり、イエス・キリストご自身であり、聖霊であると信じて読むことが重要であると考えます。

では、どのような目的でこの福音書は記されたのかということですが、20章31節に、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と明記されています。すなわち、イエスは神の子=神であり、メシア=キリスト(神に選ばれ、油注がれ、地上に遣わされた救い主)であり、この救い主を信じるすべての人が、この救い主イエスによって新しい命・永遠の命を受けるためである、その真実、神の愛、良き知らせ・福音を伝えるためにこの福音書は記されたとの目的が記されています。

ですから、福音書の構成ということで言いますと、1章から20章には、神から派遣されたイエスは何者であるかが記されています。すなわち、1章から12章はイエス様の言葉と奇跡のしるしを通してイエス様は何者であるかが記され、13章から20章にはイエス様の十字架への道と受難と復活を通してわたしたちの救いのために何をしてくださったのかが記されています。そして最後の21章においては、この福音書を最初から読み進めてきたあなたはイエス様を何者と信じるのかという問いがわたしたち一人ひとりにイエス様から問われ、その答えを各自がイエス様に告白して行くことが期待されています。ですので、この福音書を共に読み進めてゆく中で、イエス様という方に出逢ってゆきたいと願います。

さて、今回はヨハネによる福音書1章の1節から4節までを取り上げたいと思います。この福音書は、まず「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」という言葉で始まります。マタイ福音書やルカ福音書のように、イエス・キリストの誕生の記述から始まらないのもヨハネ福音書のユニークさを物語っていますが、この最初の部分を読んで、旧約聖書の創世記1章1〜3節を思い出す方も多いと思います。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であった。闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」という言葉です。

創世記には「地は混沌であった」とありますが、他の訳では「地は形がなく、何もなかった」と訳されています。新しい新改訳2017は「地は茫漠(ぼうばく)として何もなく」と訳されていますが、「茫漠」とは、「広くて、とりとめのないよう。また、ぼうっとしてはっきりしないさま」と広辞苑にありましたが、言葉を変えていうならば、カオスの状態、大混乱の状態、何もコントロールされていない状況です。規律がまったくない、正義がない、方向性もない、人々の心に隣人を思いやる寛容さも、慈しみもない。有るのは欲に塗れた思い、自分の事しか考えない自己中の心だけと言っているのでしょうか。

日本だけでなく世界中を見渡しても、卑劣な行為が繰り返されています。「混沌」とは、闇の力で支配されていて、人々が望みを抱けない状態を指しています。ユダヤ社会では、アッシリアへの捕囚、バビロニアへの捕囚があり、一生懸命に築き上げて来たものをすべて失うということを何度も経験しました。ヨハネによる福音書が記された時代は、ローマ帝国によってエルサレムが陥落し、神殿が破壊され、人々の心が折れ、また疲弊しきっている時代を歩んでいました。希望を見出せない、暗闇の中にある状態であったそうです。

わたしたちは今、どのような時代の中に生かされているでしょうか。捕囚の民ではありませんが、物質的な豊かさを追い求め、また処理できないほどの量の情報に毎日埋れて生活しています。また時間にも追われています。周囲からの圧力などをひしひしと感じながら生きていて、人よりももっと多くを手にしたいと貪欲になる心やすでに持っているものを手放したくないという必死な思いや努力や不安で心身ともに疲弊してしまっています。これからどうなってゆくのだろうと不安しかないという方もおられるかもしれません。

しかし、そういう混沌とした世の中で疲弊し、希望を抱けない人々に対して、神様はヨハネを通して、「初めに言があった」と宣言します。これは、まったく新しい創造の業がこれから始まるという宣言なのです。この新しい創造の業を担うのが、神様から救い主・メシアとして遣わされたイエス・キリストです。このお方がわたしたちの罪によって破壊され、失われた秩序を回復するというのです。もっとも重要なのは、神様との和解、神様との新しい関係性、そして神様との平和です。では、どのようにそれをすべて回復するのかということになりますが、それはイエス様の命と引き換えになさるというのが福音書の13章から20章に記されていることで、このイエス様を救い主と信じ、このお方に希望を抱こうと励ますのです。

さて、ここで注目したいのは、日本語訳の聖書では、「言葉」とはせずに、敢えて「言」という一文字にしている点です。ギリシャ語では「ロゴス」という言葉が使われています。ヨハネは、イエス様のことを福音書で記しているのに、「イエス」という名を記しません。「イエス」という名は、地上に誕生されて付けられた人としての名前です。ヨハネがイエス様を敢えて「言」と記すのは、神様から遣わされたこのお方は特別なお方、特殊なお方であることを示すためでした。

なぜ特別で特殊な存在であるのか。ヨハネは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。」と言っています。つまり、創造の前からイエス様は神の子として父なる神様と共に存在していたということです。イエス様は、神であるという特質性をわたしたちに伝えたいのです。

創世記1章に記されている天地万物の創造の業は、神と御子と聖霊という三位一体の神による御業です。イエス様はこの地上で「イエス」という名を受けられるもっと前から、創造が始まる前から父なる神と聖霊と共に存在した神であり、「被造物」ではないということをわたしたちに理解させるために、ヨハネは「イエス」という名ではなく、「言」という言葉で新しい創造の業を始められる救い主を言い表すのです。

新共同訳聖書の小見出しに「言が肉となった」とあります。これは、言い換えれば、「神が人となった」ということです。「神の子がわたしたちを救うために人としてこの地上に来られた」という意味になります。イエス・キリストという神の言葉・ロゴスは、ギリシャ人たちが考える単なる思想・理性・論理・定義ではなく、わたしたちを「救う」ために、愛の力と行動によって生きてくださった神・救い主の人格そのものを表すために「言」・ロゴスという言葉がこの福音書の冒頭で使われたと考えられます。

それでは、わたしたちは「救い」ということをどういう意味合いで捉えるべきでしょうか。その答えが4節にあり、この福音書全体に散りばめられています。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」とあります。後半の「命は人間を照らす光であった。」という部分は次回の学びで詳しく聞いて行きたいと思いますが、最初の部分である「言の内に命があった」という「命」が鍵となる言葉です。すなわち、神の子はわたしたちに永遠の命を与えるために、父なる神から託された命、新しい命を携えて、この地上に来てくださったという意味があります。

この「言の内に命があった」という「命」は、神様が与えてくださる三つの命を総括するものと考えられます。それは1)肉体の命、2)霊の命、3)永遠の命です。わたしたちにこの三つの命を与えてくださったのは、他でもない、父なる神様、御子なるイエス様、そして聖霊です。罪によって肉体の命が滅びることがあっても、イエス様の十字架の死と聖霊によって霊の命が与えられ、この地上での生活が終わっても、永遠の命が神様の御許で与えられるのです。すべてはイエス様を通して神様から与えられる恵みなのです。

人としてこの地上にお生まれになられた救い主・神が言葉と行動をもって、わたしたちを闇から光へと、罪の状態から罪なき状態へと移し替えてくださり、神様が与えてくださるに新しい命に生かされ、神の子として新しく生きる存在としてくださる、その救いの御業がこれから始まるという宣言が、この1章1節から4節に記されているのです。