2025.11.5 ヨハネによる福音書3章1節〜15節(2章23〜25節)
ヨハネによる福音書の第三章にそのまま入る予定でしたが、やはり2章23節から25節をもう一度聴いたほうが良いと思いますので、その部分からお話をしてゆきたいと思います。その理由は、この学びの準備のために様々な注解書や書籍を読む中で、面白いことに、この箇所がイエス様の神殿の宮清めの記録のエピローグなのか、それとも3章1節から始まるイエス様とニコデモという人との出会いのプロローグなのか、神学者たちの中で意見が分かれることが分かりました。しかし、どちらの見解を公平に読む中で、この箇所はヨハネが2章と3章を結ぶために記した大切な箇所であるという考えに至りました。
23節に、「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。」とあり、一見素晴らしいことと感じる訳ですが、24節には、「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」というイエス様の不思議なリアクションが記されています。「イエス様を信じたのに、どうしてイエス様は喜ばれなかったのか。信じた人達をなぜ信用されなかったのか」ととても不思議でなりません。
そういう中で、イエス様側の理由として、ヨハネは、「それは、すべての人のことを知っておられ、 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」と記します。イエス様が知っておられること、信じた人たちの心の中に何があるのかを知っておられることというのは、彼らがイエス様のなさる数々の「しるし・奇跡」を見て信じたということ、どちらかと言いますと、イエス様を信じたというよりも、「しるし・奇跡」に感動しただけだからと言う見方ができるのです。前回も参照しましたように、4章43節で、イエス様は「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われます。
イエス様を「信じた人たち」をイエス様ご自身が「信用されなかった」、他の聖書訳では「信頼されなかった」。その理由は、彼らの「信仰」がまだ上部だけのもの、未熟、未完成、不完全であったからと様々な注解書にありましたが、信仰が発展途上であったということでしょう。しるしや不思議な業だけに興味のある人は飽きたら離れます。イエス様のことをもっと知りたいと願う人はもっと熱心にイエス様に近づきます。イエス様は、「何がわたしたちの心の中にあるかをよく知っておられる」とヨハネはここで言っています。
イエス様を信じるというのは一時的な感情ではなく、イエス様につながるということです。山あり谷ありの人生であってもイエス様を信頼し続けることが「信じる」ということです。今後も繰り返し聴く内容ですが、イエス様が求めている「信仰」とは、しるしを見ないで信じる「信仰」です。十字架に架けられて贖いの死を迎え、三日目に甦られたイエス様、その復活を信じなかった弟子トマスにイエス様は出会って行かれ、20章29節で「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」と言われました。
成熟した、完成した、完全な信仰とは「見ないで信じる信仰」であるとイエス様は言われ、「信仰の成長にはプロセスがあり、成長は徐々に与えられてゆくから、わたしだけを見続け、わたしの言葉と業に学びなさい」とイエス様はわたしたちを招かれるのです。イエス様を信じる者をイエス様は信頼して御用のために用いられます。未熟なままの人やしるしだけを求める人には大切なことがまだ担えないので、イエス様は信用・信頼をおかれないという事がこの23〜25節に記されています。そういう中で、「『しるし』だけを見て信じた表面的信仰の代表者としてニコデモが登場する」と新共同訳・新約聖書註解①のp407下段に記されていましたが、非常に興味深い展開です。
それでは、これからヨハネ福音書3章に入ります。ここで興味深いのは、他の共観福音書には全く知られていない人物が登場し、イエス様と対話をすることです。場所は、エルサレム。1節に、「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」とあります。「ファリサイ派に属する」とは、厳格な律法教育を受けた人です。「ユダヤ人たちの議員」とは、ユダヤの最高議会サンヘドリンの議員です。学歴と地位を持つ、ユダヤ社会の中でもエリート中のエリートで、人望もあったでしょう。
そのような人が、2節によると、「ある夜、イエスのもとに来た」のです。なぜ夜なのでしょうか。ユダヤ社会でもよく知られた人物であったでしょうから、イエス様に会いに来たことを誰にも見られたくない、知られたくないと思ったのでしょう。なにせ、彼が会いたいと思った相手がつい数日前に神殿で商売人たちを追い出し、大騒ぎを起こした張本人ですから、もし誰かに見られれば、どのように思われるか分かりません。憶測が憶測を呼び、噂が瞬く間にエルサレム中に広まるでしょう。そうなれば地位も名誉もすべてなくすことになります。もしかしたら、彼はグループの代表として来たのかもしれません。分かりませんが、ここで評価すべきは、それでも彼は独りでイエス様を訪ねてくるのです。
夜の訪問に関して松本俊之先生の考察では、それは「象徴的な意味があるかもしれません。まず彼がイエス・キリストを訪ねた時が「夜」のように暗い時代であったということです。そういう時代であったから、イエス・キリストは神殿の中で怒りを爆発させて、清めようとされたのでしょう。さらに、ニコデモ自身が心に夜のような闇をもっていたことを暗示しているようにも思えます。」(p63)とありました。心に闇があるとは、恐れや不安、虚しさ、このままで良いのだろうかという迷いがあったということでしょうか。
そのようなニコデモはイエス様に「ラビ(先生)、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と言います。これはどちらかと言うと「おべんちゃら・お世辞」であると思われます。また、ここで興味を引くのは、「わたしども」と言っている点です。自分のためにイエス様のもとに来たはずですが、そのことを隠すかのように「わたしども」という点は日本人にも共通する点に思えます。
また、ニコデモは「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」という言葉から、彼も「しるし」を見たり聞いたりして、もしかしたら神から遣わされたメシアであるかもしれないと信じた一人、イエス様が信用をおかない人の一人であったかもしれません。イエス様と会話を重ねてゆく中で、彼がイエス様のことを何も知らない、信じていないことが徐々にあらわになってゆき、10節を読みますと、イエス様から「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」と言われて、呆れられてしまいます。
ニコデモの心をよく知るイエス様は、ニコデモが求めていることの核心をつくことを3節で言い放ちます。「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」と。イエス様は、「本当のことを言います。あなたは、新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言います。
余談ですが、前回、わたしは「ヨハネ福音書の特徴として他の共観福音書で用いられる「神の国」という言葉はあまり出て来ない」と言いましたが、ここで数回使われていますが、ここから「神の国」が「永遠の命」という言葉に入れ替わってゆきます。
イエス様が「人は、新たに生まれなければ」と言われたのは、「あなたの心が新しく変えられなければ」という意味で言われたのですが、頭と心がかなり硬いニコデモはイエス様の言葉をそのまま受け止めてしまい、4節で、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と答えます。これが高学歴、高い地位にいる人が答えなのでしょうか。これは愚問です。これは完全に屁理屈をこねているだけです。このような言葉は、ニコデモが真剣にイエス様を信じようとしていない、彼の信仰とは見せかけの信仰ではないかと思わされる内容です。
松本師のニコデモの考察は、「(彼は)自分の今やっていることは基本的に正しいと思っています。それを捨ててまで、イエス・キリストに従う気はありません。根本的に新しくなろうとは思っていない。今やっていることの延長線上で、より高いことを求めているのです」と記し、「そのニコデモに対して、イエス・キリストは、『あなたの信仰の拠り所は何か。あなたはしるしを見て、ここに来たのかもしれないが、本当に大事なのはその向こうにある世界だ』と答えようとされたのでしょう。」(p67)とありました。「その向こうにある世界」とは、「神の国」であり、「永遠の命」に生きることになります。
愚問を呈するニコデモに対して、イエス様は、5節から8節で、「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。「あなたがたは新たに生まれねばならない」とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。』」と言われます。
イエス様はニコデモに対して、「あなたにはっきり言っておく」と単数形で言った後に、「だれでも」と言い、「あなたがたは」と複数形で話しかけます。ニコデモを含め、ユダヤ社会の人々、また誰でも、一人ひとりが新たに生まれなければ神の国に入れられて、永遠の命を神様から受けることはできない、そしてわたしたちに最初に必要なのはイエス様を救い主と信じて、水と霊とによって生まれなければ新しくされないということです。
それでは、「水と霊とによって生まれる」とは、一体どういうことでしょうか。ニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言ったとあります。バプテスマのヨハネの箇所でもお話ししましたが、「水によって生まれる」とは罪を悔い改めてイエス様と共に歩み始めるスタートのバプテスマ(洗礼)です。水のバプテスマはイエス様に従い続けるという信仰の所信表明です。「霊によって生まれる」とは、神様とイエス様の思いのままに生きるということです。そのことを少し説明します。
イエス様は、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と言われます。ここでイエス様は「霊」と「風」を重ねて話します。この二つは同じ「プネウマ」というギリシャ語です。つまり、神の霊は風のように目には見えないけれど、風と同じだというのです。風は音で実在を知ることもできますし、風が顔や体に当たることでその威力も分かります。暖かさも、厳しさも感じることができます。風があることによって空気があることが良く分かります。聖霊は風と同じように目には見えないけれど、神様とイエス様の存在に気付かせ、聖霊がいつも共にいて信仰を導いて、試練に遭う時も励ましてくださるのです。霊によって生まれるとは、神様のご支配の中に生きることなのです。自分の思いでなく、神様の思いのままに生きることが「信仰に生きる」ということなのです。
11節から12節で、イエス様は「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」と言われます。この地上を生きてゆく上で大切なことを示しているのに、それが分からないのであれば、神の国について話しても分からない。分かるためには、新しく生まれ、新しい心をもってイエス様に聴くことが重要となるのです。
13節から15節も重要な言葉です。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」とイエス様はおっしゃいます。「天から降って来た者、そして天に上った者はイエス・キリスト以外に誰もいない」とイエス様はご自分の誕生から十字架の死、甦り、昇天までの神様のご計画を宣教の最初からしっかり知っておられ、神様の御心のままに生きる方であることが示されます。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」という不思議な言葉は、民数記21章4〜9節にある出来事が取り上げられていますが、エジプトから救出されたイスラエルの民が荒野の旅の中で神様に呟き、神様の怒りが蛇となって民に及んで死を与えますが、悔い改めて神様に立ち帰るとモーセに言うので、モーセが蛇を砕き、杖で蛇を上げたように、イエス・キリストは十字架に上げられ、十字架上で罪を打ち砕き、復活をもって勝利をもたらすと言うことをイエス様は預言的に言っておられます。この「人の子も上げられねばならない」とは、イエス様の昇天も含まれると考えられます。
イエス様の十字架の死も、三日目の復活も、そして昇天も、信じる者すべてがイエス様によって永遠の命を得るための神様の愛の計らいと御業、イエス様の救いの御業であることがここでイエス様自らが言われていること、そのためにイエス様が十字架に向かって歩まれていることを覚えたいと思います。
