ヨハネ(11) 永遠の命へと招くイエス

2025.11.12 ヨハネによる福音書3章16〜21節

今回の箇所にある3章16節は、キリスト教会史の中で、代々のクリスチャンたちから最も愛された暗唱聖句の一つであり、新約・旧約聖書の中で、何故イエス・キリストがこの地上にお生まれになられたのか、イエス様がこの世界にもたらした福音とは何かを最も的確に言い表した聖句です。宗教改革者のマルチン・ルターは、この聖句を「小聖書」と呼び、聖書全体のメッセージを一言で言い表していると言ったそうです。

さて、先に進む前にお話ししておきたいのは、驚かれるかもしれませんが、聖書訳によっては、この16節から21節の箇所がイエス様の言葉になっていたり、福音書を記したヨハネの言葉になっていて、どちらの言葉であるのか判断がつかないということです。新共同訳聖書では誰かの言葉を表す鉤括弧が10節から始まって21節で終わっており、ニコデモとの会話の中でイエス様がおっしゃった言葉となっています。しかし口語訳聖書では、ニコデモとの会話は15節で終わり、16節からはヨハネの言葉となっています。

興味深いのは、新しい聖書協会共同訳聖書は、15節で括弧が終わっていますので、同じ聖書協会から出版された聖書でも、訳された時代の識者たちによって違いがあるのです。ちなみに、新改訳2017も15節で括弧が終わっています。それぞれの聖書を訳したチームの力量によるものですが、常に神の言葉、聖書の言葉として読むことがベストです。

さて16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあります。わたしは、口語訳聖書を長年読んできましたので、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」のほうが親しみ深いです。この聖句の主語は神様であり、つまり主導権は神様にあります。わたしたちが救い主を先に願い求めたから与えられたのではなく、神様が配慮して先に動いてくださり、独り子をお与えくださったのは、この世・この世界を愛されたからである。この世のすべてのもの、つまり人間も動物も自然も、すべての被造物を神は愛しておられると聖書ははっきり語っています。

この16節での注目点は2つです。一つ目は、この「世」とはいったい何を指しているのか。二つ目は、「お与えになった・賜った」という言葉の意味は何かです。

まず「世・この世」とはいったい何を指しているのか。この「世」という言葉はギリシャ語では「コスモス」という言葉は新約聖書に185回用いられていますが、ヨハネが記した福音書では78回、手紙では25回も用いられています。つまり半数以上はヨハネ一人が用いていることになります。皆さんは、この「世」という言葉を耳にするとご自分も含まれていると思われるでしょうか。勿論そうだと思います。疑うことはないと思います。

確かに、この「世」という言葉は、イエス様の伝道・宣教の対象者を表す目的で用いられます。神様の愛は、すべての人に平等に注がれています。しかし、受け取るか、受け取らないかはわたしたち人間の自由な意思に任されています。イエス様は、すべての人の救いのために十字架で死なれ、わたしたち人類が神様に対して犯してきたすべての罪の代価を十字架上で完全に支払ってくださいました。それを信じるか、信じないかも、わたしたちの心に任せてくださいます。決して強制はなさいません。強制は、愛ではないからです。

さて、この「世」という言葉は、他方ではイエス様を拒絶する人々を指す言葉としても用いられています。すなわち、自分たちの地位や特権や名声や富を愛するがゆえにイエス様と対立したり、反抗したり、あげくの果てにはイエス様を十字架につけて殺す勢力を指しています。対立・反抗とまではいかなくても、イエス様を信じようとしない、無視する、関係ないという人たちを指しています。ですので、この「世」というのは、イエス様の敵対者を指すと同時に、イエス様の愛の対象者を指していると理解することが重要です。

ゆえに、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という言葉は、神様は心の柔らかい者も頑なな者も愛してくださっている。その理由はすべての人に神様に立ち返って、神の子として神と共に永遠に生きてほしいと願っておられるから。神様の存在とその愛に気付かされて立ち返る方法は、イエス・キリストである。このイエス様を救い主と信じて神様の愛を受け取るならば、その人は滅びることはなく、永遠の命を得るとあるのです。

二つ目の注目点は、「お与えになった・賜った」という言葉の意味です。これは一つに、神様から救い主を贈りものとして頂戴するという意味でもありますが、もう一つの意味としては、「神は、その独り子を死に引き渡されたほどに、わたしたちを愛された」ということがあると松本俊之先生の著書「ヨハネ福音書を読もう(上)」にありました。

松本先生は、「神様が独り子をお与えになるということは、ただ単にこの世界にお遣わしなるだけではありません。死に引き渡すことを覚悟で遣わされた。もっとはっきり言えば、死に引き渡すために遣わされたということです。その命と引き換えに、私たちは命を得ました。」と言われています(p73)。ご自分の独り子を死に引き渡しても、わたしたちを罪と死から救い出し、永遠の命を与えようとする神様の愛を、悔い改め、感謝しつつ受け取るか、受け取らないかは、わたしたちの自由な意思に任せられているのです。

17節に「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とありますが、ここにも神様のイエス様派遣の目的が明記されていて、わたしたちすべての人がイエス様を通して神様に立ち返り、魂の救いを得るためであることが分かるかと思います。

18節には、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」という、わたしたちの受け止め方に対する結果が記されています。イエス様を救い主と信じる者は罪から解放され、赦されているので神様に裁かれない。しかし、イエス様を信じない人は罪から解放されていないので、その罪が神様に問われて裁かれるということになります。

しかしながら、ここで注目すべき点は、神様の裁きというのは、イエス様の再臨(終末)の時、あるいはこの地上での命が終わった後にあるとわたしたちは考えてしまうのですが、ここでは「信じない者は『既に』に裁かれているとあります。そんなことがあるのかと思われるかもしれませんし、17節の内容と矛盾すると思われるかもしれません。

松本俊之先生は、同じ著書の中で、以下のように記しておられました。「私は、信じることができないということが裁きの状態であるのだと思います。逆を言えば、イエス・キリストを主と信じて生きることそのものの中に、裁きからの解放があり、喜びがあるのです。救いとは、つらいことを辛抱して辛抱して、その報いとして死んだ後に与えられるというようなものではないと、私は思います。言い換えれば、イエス・キリストのことを知り、イエス・キリストと共にあること、そのもとに生きることの中にすでに救いがあり、その外に置かれていることが裁きなのです。ヨハネ福音書記者は、それをさらに(19節から21節で)こう言い換えます。」(p76)と言っておられます。

19節から21節に、「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」とありますが、これをわたし流にリフレイズするならば、以下のようになるでしょう。

「神様の許から御子イエス・キリストがこの世に遣わされたのは、この世に生きる者たち、わたしたちが罪に生きることを喜びとし、悪という暗闇に生きること選び取っているがゆえに、有りとあらゆるおぞましい悪の思いに支配され、そのような中で苦しみ、痛み、悲しみ、絶望の中に生きている。その状態が既に「裁き」であり、自らの行いが自分を裁いていることになるのです。ですから、そのような悪循環の闇からわたしたちを救い出し、光のうちに生かすため、神様は救いの業を計画され、預言者たちを通してそのことを民に約束され、その神の言葉をイエス様が忠実に実行し、神が約束されたことをすべて成就なさったのです。それによって神様の愛がわたしたちすべてに示されたのです。」

イエス様は、わたしたちが心の中に抱く悪い思いについて、マルコによる福音書7章20節から23節でこのように言っておられます。「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな(心の)中から出て、人を汚すのである。」と言われました。

これらの思いに支配されていること自体がもう既に自分を裁いていることであり、神様が裁かれなくても「裁き」を受けていることだと言うのです。このような闇の中から光の中へわたしたちを救い出し、神の子として歩ませるために、神様はイエス様を救い主としてこの地上に送られ、十字架の死に引き渡されたとここでそう言っているのです。

「悪を行う者」と「真理を行う者」が対比され、その結末も対比されています。悪を行うものはこの世に属し、真理を行う者は神に属すのです。この対比は、わたしたちに対して、「あなたはどちらを選び取って日々生きるのか?」という問いであり、「光・真理のうちに生きなさい。わたしの愛の中に生きなさい」という神様の招きでもあるのです。