2025.11.19 ヨハネによる福音書3章22〜30節
2章13節から読んでまいりますと、イエス様は過越祭の期間に弟子たち一緒にエルサレムに滞在していたことが分かります。そしてエルサレムの神殿において、そこを商売の場所として利用していた人々を追い出す「宮きよめ」をし、その後には、真夜中にイエス様を訪れて来たファリサイ派の議員ニコデモと対話して永遠の命を得る道を示します。前回の学びでは、聖書の中でも有名な御言葉の一つである3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という言葉にある真実をご一緒に聴きました。
この有名な言葉が、イエス様の言葉であるのか、それともこの福音書を記録したヨハネという人物の言葉であるのか、非常に判断しづらいという事をお話ししましたが、ここで大切なのは、それがどちらにせよ、神様からわたしたち一人ひとりに語りかけられる言葉として聴くことが重要であるということをお話ししました。
まず22節を読みますと、「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、バプテスマを授けておられた。」とあります。聖書の後ろに聖書地図がありますが、新共同訳聖書ですと、その「⑥新約時代のパレスチナ」という地図を見ますとユダヤ地方がどこであるかが分かります。エルサレムから西方面がユダヤ地方です。そのような土地を行き巡り、福音を宣べ伝え、その行くところ行くところで福音を聴いて信じた人々にバプテスマを授けておられ、それから徐々にヨルダン川流域に行かれたようです。
続く23節を読みますと、「他方、(バプテスマの)ヨハネは、サリムの近くのアイノンでバプテスマを授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、バプテスマを受けていた。」とあります。「サリムの近くのアイノン」とありますが、先ほどの地図で見ますと、「サリム・アイノン」という地名がガリラヤ湖と死海を結ぶヨルダン川の上流、少しガリラヤよりにあります。このあたりでバプテスマのヨハネたちはバプテスマを人々に授けていたようです。
しかし、1章28節を見ますと、ヨハネが活動していたのはもっと下流のベタニアとあり、そこでイエス様もヨハネからバプテスマを受けたとありますので、ヨハネたちも移動しながらバプテスマを授けていたことが分かります。わたしは三重県四日市市でイエス様を信じてバプテスマを受けました。船橋、札幌、台湾と、みんなそれぞれ違う場所でバプテスマ・洗礼を受けたと思いますし、今後バプテスマを受ける可能性がもしかしたらあるかと思います。しかし最も重要なのは、イエス様に従う決心をして信仰生活のスタートをその場所で切ったという恵みを感謝し、イエス様に従うという信仰を持ち続けることです。
さて、ここで興味深いのは、イエス様がバプテスマを人々に授けていた時期とバプテスマのヨハネが人々にバプテスマを授けていた時期が重なるということです。24節には、「ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。」とあります。この後に、バプテスマのヨハネは投獄させられ、命を落とすのですが、その詳細をもっと知りたい方は、マタイによる福音書14章1〜12節を読んでいただければと思います。
今回の箇所で面白いのは、イエス様とヨハネの活動時期が並行していたということから発展した論争が起こったということです。25節を読みますと、「ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。」とあります。この「あるユダヤ人」とは誰なのか分かりませんが、多分、イエス様の宣教活動とバプテスマを施していたことを直に見て知っていたという人でありましょう。この人がイエス様を信じて従っていたかは分かりません。揉め事や論争が好きなただの野次馬であったかもしれません。
いつの時代でも、人間という生き物は論争が好きですね。論争というのは、二つのものを比較すること、それらを比べ合って、こちらが良い、あちらが良い、こちらにはこういう問題があり、あちらにはこういう課題があると言い争うことですが、26節を読みますと、「彼ら(ヨハネの弟子かヨハネよりの人たち)はヨハネのもとに来て言った。『ラビ(先生)、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、バプテスマを授けています。みんながあの人の方へ行っています。』」と報告します。
この報告がただの報告ではなく、妬みやひがみであったようです。松本俊之先生は、「焦り」であったかもしれないと著書に記し、この26節の言葉を、「ヨハネ先生、あのイエスという人は、あなたからバプテスマを受けた人でしょう。それが今、みんなあの人のほうへ行っています。放っておいてよいのですか。」とリフレイズされていました。
こうなると「焦り」というよりも、ヨハネを「煽っている」ようにも聞こえてしまいますが、人々はイエス様のバプテスマとヨハネのバプテスマのどちらに罪を清める有効性・パワーがあるのか、どちらが正当なのかを比べているのです。ある意味、消費者の目線で、どちらのほうでバプテスマを受ければ自分は最上級の罪の赦しが与えられるのかということを比べているようです。わたしたちは、そのようなことができる身分や資格があるわけでもないのに、そういう身勝手な論争を繰り広げようとする弱さがあるのです。
また、最初は「清め」ということが論争の焦点でしたが、徐々にその論点がイエス様のことへの言及から始まり、イエス様に移ってゆくのです。つまり、イエスとヨハネはどちらが偉いのか、どちらに「パワー」があるのかという論点です。
そういう愚かと思えるような論争に対して、当事者の一人であるバプテスマのヨハネが終止符を打ちます。彼の言葉は、27節から30節にありますが、ここを二つのセクションに分けて聴いてゆきましょう。まず27節から28節です。「ヨハネは答えて言った。『天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、「自分はメシアではない」と言い、「自分はあの方の前に遣わされた者だ」と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。』」とヨハネは言っています。
ヨハネは、自分の弟子たちに対して、「あなたがたにすでに言い聞かせただろう。覚えているだろう。わたしはメシアではない。わたしはメシアのために道を整えるために遣わされた人間だ。イエスというお方は天の神から御力を与えられて降りてこられたお方である。神から遣わされたメシアでなければ、今イエス様がなされていることはできない。そうあなたがたに伝えたであろう」と言うのです。わたしたち人間は、目の前にいる人や目の前で起こった出来事・しるしに目と心が向いてしまい、その背後のおられる神様という存在とそのご計画があることを見ないでしまい、限られた知恵と経験を基に薄っぺらな論争を繰り返してしまいます。バプテスマのヨハネは意味のない論争は止めて、神様を仰ぎ、神様の御心・ご計画を求めなさいと弟子たちを励ますのです。ヨハネは、自分は何者であるかを熟知された人であり、人々をイエス様へ向ける証言者であったのです。
松本俊之先生は、「バプテスマのヨハネは、旧約の時代の最後の預言者であり、イエス様による新約の時代におけるイエス様をメシア・救い主と言い表した最初に証言者であった」というニュアンスのことを著書に記していましたが、ヨハネという人は人々にイエス様を紹介し、イエス様につなげる働きをされた証し者であったことは間違いありません。
そのヨハネが29節で、「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」と言っています。これはどういう意味でしょうか。旧約聖書では、神様とその民イスラエルの関係性を比喩的に、神が花婿で、イスラエルが花嫁という婚姻関係で表しますが、バプテスマのヨハネは、新約の時代においては、イエス様が花婿で、クリスチャンが花嫁という関係性を紹介します。そして、その花婿の介添人として自分がイエス様のそばに立って、この花婿の声に耳を傾け、花婿に仕えることを喜びとすると言っているのです。
すなわち、イエス様が主役であり、自分は脇役であるということ、つまり自分の介添人としての役目が終われば一線を去る人間であるということをわきまえている言葉です。そのような役目について「わたしは喜びで満たされている」と言います。人々にイエス様を紹介する証し人であることをヨハネは光栄に感じ、その役目を心から喜んでいるのです。ヨハネは脇役に徹するのです。何故そのようにできるのか。ヨハネは神様を畏れ、イエス様を救い主・メシア、「世の罪を取り除く神の小羊」であると信じきっているからです。
30節にあるバプテスマのヨハネの「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と言う言葉に対して可哀想だとか、不憫さを感じる必要はありません。いえ、不憫だと思ってはならないのです。不憫だと感じるのは、外から内側を傍観している無責任な群衆の一人の思いだけであるのです。バプテスマのヨハネ自身が、そのような生き方・使命を心から喜ぶ、感謝しているからです。そのように生きることが自分の使命であることをヨハネは信じ、その使命に全力を注ぎ、神様とイエス様の栄光をあらわそうと生きているのです。そのような神様とイエス様に忠実な人に、神様は大きな喜びを与えられるのです。
わたしたちは何者でしょうか。わたしたちはみんな神様に造られ、その愛の中で生かされている存在です。その愛を無視して生きてきましたが、わたしたちを罪とその報酬である死から救い出すためにイエス様は十字架上で命を捨ててくださいました。イエス様の愛と祈りと犠牲の中に生かされている存在です。命の源は神様で、わたしたちを救い、永遠の命へと導いてくださるのがイエス様なのです。つまり、人生の主役はわたしたちではなく、神様とイエス様なのです。わたしたちの働き・生きる使命は、神様の愛とイエス様の十字架と復活の救いの業を周囲の人々に分かち合い、共に救われ、共に喜びと平安に満たされて、神様の恵みのうちに共に生かされることです。それが神様の願いなのです。
