2025.11.26 ヨハネによる福音書3章31節〜36節
今回は、3章31節から36節までに聞きますが、はたまた難解な箇所です。この部分は鉤括弧されていますので、誰かが発した言葉のはずですが、その誰かが分かりません。バプテスマのヨハネの言葉としても聞こえますし、福音書の記者ヨハネの言葉とも聞こえます。しかし、何度も申し上げますが、いつも神様からわたしたち一人ひとりに個人的に語りかけられている神の言葉として聴くことがベストの選択です。
さて、31節に「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」とあります。「上から」とは、「神のみ許から」という意味です。その神のみ許から「来られる方」は、わたしたちを救うためにこの地上に来られたイエス・キリストです。
「地から出る者は地に属し」とは、この地上で生かされているわたしたちすべての被造物の事です。「地に属する者として語る」とは、この地上で生きる被造物は限られた知識・知能しか持ち合わせていないので、限られたことしか語れないという事です。端的に言いますと、神様のご意志、お考え、ご計画、神様の領域にあることは、地上に生きるわたしたちには計り知れず、把握することはできないので語れないということです。
しかし、「天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」とあります。神様のみ許から派遣された方、イエス・キリストは、「すべてのものの上におられる」、つまり父なる神様のすべてを知り、すべてを治めるためにおられるということです。新共同訳・新約聖書注解書一では、「(ヨハネ)1章1節から8節にあるように、キリストの先在が考えられているので、すべての被造物はキリストによってできたものであるから、キリストは被造物の上に存在することが言われている。」とありました。
ヨハネ1章1節から8節とありますが、1章最初の部分で重要だと思える箇所をお読みします。言うまでもなく、「言」とはイエス・キリストのことです。今回は、すべての「言」をイエスに置き換えて読んでみます。「1初めにイエスがあった。イエスは神と共にあった。イエスは神であった。2このイエスは、初めに神と共にあった。3万物はイエスによって成った。成ったもので、イエスによらずに成ったものは何一つなかった。4イエスの内に命があった。命は人間を照らす光であった。」、「9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。10イエスは世にあった。世はイエスによって成ったが、世はイエスを認めなかった。11イエスは、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」、
「12しかし、イエスは、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」、「14イエスは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」、「16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」とあります。
また、コロサイの信徒への手紙1章17節には、使徒パウロを通して同じことが言われていますので、そこも読んでおきます。「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」とあります。ですので、この3章31節に記されているのは、天地創造の最初から父なる神と共におられたイエス・キリストが父なる神のご計画を行うために、神のみ許からこの地上に派遣され、神の御心を行う方であるということです。
と同時に、イエス様はわたしたちに神様のことをもっとはっきり分からせてくださるお方であるということが記されています。つまり、わたしたちこの地上に属する者たちには分からなかったこと、分からないこと、神様のご意志、お考え、ご計画、神様の領域にあることをイエス様がすべて教えてくださる、ということです。他には、わたしたちの存在理由、生きる目的、すべてのことには意味があるということを教えてくださるのです。
それでは、イエス様は、それらをわたしたちにどのように教えてくださるのでしょうか。それは、旧約聖書を通して救いの約束が神様から与えられていること、そして新約聖書を通してイエス様の言葉と行動、生き様を通して教えてくださるということです。イエス様の言動とは、イエス様の3年間の宣教活動の中で発せられた言葉と癒しの御業を指します。生き様とは、究極的に言うと、イエス様の十字架における贖いの死と神様がイエス様を三日目に甦らせた主のご復活です。
参考までに、松本俊之先生は、その著書・「ヨハネ福音書を読もう(上)対立を超えて」の中(p87)で、次のように記しています。「『神の言葉』とは、第一義的にはイエス・キリスト(「啓示された神の言葉」、カール・バルトの表現、「教会教義学 神の言葉1/1」)のことであり、第二義的にはそのイエス・キリストについて預言し、証しした聖書(「書かれた神の言葉」)のことであると言えるでしょう。「神は、私たちのことをどう思っておられるのか」、「この世界をどうしようとされているのか」、そういうことを、私たちは、『神の言葉』として知るのです。」と記します。まとめますと、新旧約聖書とイエス様の生き様を通して、神様はわたしたちに必要なすべてを教えてくださるのです。
しかし、問題は32節、「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。」ことです。この言葉は、先ほどの1章10節と11節の、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」と関連しています。「この方は、見たこと、聞いたことを証しされる」とありますが、イエス様は神様と一緒に、わたしたちに対して注がれている愛と語られた言葉となされた御業を通して神様の愛を証明されるということです。
33節では、「その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。」とあります。イエス様を救い主と信じる者は、神様が誠に存在され、ご計画をもってわたしたちを創造し、愛をもって生かしてくださる存在であること、わたしたち一人ひとりの人生には神様の意図、計画と目的があり、またその使命をわたしたちが遂行できるための絶え間ない主の伴いと励ましがあることを日々の生活の中で聖霊の働きを通して感じ、確信できるようになります。そのために、聖霊がわたしたちの日々の歩みにおいて常に共にいて導いてくださり、その助けの中で、神様の真実さをわたしたちは確認できるのです。
34節に、「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。」とあるように、神様から救い主・メシアとしてこの地上に、この世に派遣されたのはイエス様です。イエス様が、ガリラヤから宣教を開始されてからエルサレムでの十字架の死まで、愛と真実をもって歩まれたのは、父なる神様と聖霊がいつも共にいて力を与えてくださったからだと記されています。ここには、父なる神と子なるイエスと聖霊という三位一体の神が働いておられる事が分かります。
35節では、「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。」とあります。神様に愛された御子が神様の愛と救いのご計画を委ねられて、御許からこの地上に派遣されます。「御父は御子を愛して」とあるように、神様はイエス様をこよなく愛されました。その息子に地上での全権をお委ねになりました。イエス様もその愛を十分に理解し、その愛を受け止められ、神様の思いを忠実に果たされたのです。
しかし、その愛する子を罪に満ちたこの世に遣わされるのです。愛する子がこの世から拒絶されると知っていながら、それでも神様はイエス様をわたしたちのもとに送ってくださいました。ご自分の愛する子を人間の身勝手な振る舞い、欲望に満ちた行い・罪、わたしたちの罪の代償を支払わせるために、神様は御子に十字架で命をわたしたちに与えることを委ねられたのです。
イエス様は、その救いの業のために、わたしたちを罪と死という永遠の闇の中から救い出し、永遠の光のうちに生かすために十字架の道を歩まれ、十字架上でその命をわたしたちに与えてくださったのです。この神様とイエス様の愛と犠牲に、わたしたちに対する強い愛が示されています。わたしたち人間の言葉では形容できないほどの大きな「愛、慈しみ、憐れみ」があるのです。
わたしたちに必要なのは、イエス様を通して神様から与えられているその愛を只々感謝して受け取ることです。愛を受け取ることが神様への感謝の応答になるのです。
36節には、「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」とあります。ここに「御子を信じる人は永遠の命を得ている」とあります。永遠の命という祝福・恵みは、わたしたちがこの世の人生を終えた後に与えられるのではなく、イエス様を信じていて、イエス様につながる中で、わたしたちは神様につなげられ、神様が与えてくださる永遠の命に生かされ始めるのです。その永遠の命をこの地上において守ってくださるのが聖霊なのです。
「御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」とありますが、前途の言葉と重ねてお話ししますと、イエス様を信じないということは、イエス様につながらない事であり、それは神様ともつながらないということです。そして、神様が与えてくださろうとしている永遠の命を拒否して生きることになりますので、そのように生きること自体がこの世の苦しみや痛みや絶望の中で生きることとなり、それが「神様の怒り」の中で生きることになるのです。
ですから、チャンスがあるうちに、イエス様を通して与えられている神様の愛を受け取ることが大切なのです。救いの御手はいつも差し伸べられていますが、そのイエス様の御手を握るか、握らないかの決定権はわたしたちにあります。ということは、わたしたちの決断には責任が伴うということです。しかし、第一に、神様はわたしたちを救うために御子イエス・キリストをお与えくださったことを覚え、信じましょう。恵みを受け取りましょう。「神は、その独り子をお与えたほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3章16節 アーメン
