2025.12.10 ヨハネによる福音書4章1節〜15節
ヨハネによる福音書の第4章に入りますが、1節から42節まではサマリアという土地が舞台となっていて、イエス様と一人の女性の対話が中心となっていますので、この部分を3回に分けてお話をさせていただこうと思います。
話しが前後しますが、この4章は、サマリアとガリラヤ(43節〜54節)という地方でイエス様を信じる人々が起こされてゆくという内容となっていますが、その章を挟む3章と5章では、エルサレムの人々がイエス様を救い主と信じない、表面的には信じているように見せかけて、心から信じきれない人々、受け入れない人々がいることが記されています。
すなわち、1章11節にある「言(イエス)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」という言葉と、続く12節の「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」という言葉が浮き彫りになっています。つまり、イエス様を信じる者はイエス様を通して神の子とされ、信じない者はその資格を自ら放棄するということです。イエス様を信じるか、信じないかに天と地の差があります。たとえ神に選ばれた民ユダヤ人であっても、神の子となる幸いを失うのです。
さて、今回は1節から15節に聴きますが、1節から3節を読みますと、「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、バプテスマを授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――バプテスマを授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。」とあります。
バプテスマのヨハネのグループよりも勢いを増してきたイエス様のグループをファリサイ派の人々を筆頭とするユダヤ教徒たち、強いて言えばユダヤの最高議会が警戒するようになったということで、それを感じ取ったイエス様たちはヨルダン川渓谷を北上し、ガリラヤ地方へ退かれたということです。ガリラヤ地方はイエス様と弟子たちの故郷であり、エルサレムから離れた安全な場所であったわけです。
けれども、そのガリラヤ地方へ行く際に、4節に「しかし、(イエス様は)サマリアを通らねばならなかった。」とあります。何故でしょうか。そこには神様のご計画があったからです。イエス様はサマリア地方でも宣教をされたのですが、その活動が記されているのは4つの福音書の中でもヨハネ福音書だけです。
ルカは「良きサマリア人」の譬えなどを記録してサマリアのことを好意的に記しますが、マタイとマルコはサマリアでの宣教についてはまったくと言って良いほど記録しません。その理由を最初にお話ししておかなければ、今回聴く4章の内実が分かりませんので、少し込み入った内容になりますが、ユダヤ人とサマリア人の関係性についてお話ししておきたいと思います。
4章9節の後半を読みますと、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」とあります。ユダヤ人は、その歴史の中でずっとサマリア人を軽蔑し、嫌悪感・敵意を抱き、サマリア人もユダヤ人と交わることを拒否していました。どちらもアブラハムの子孫でありますが、ユダヤ人は自分たちを正統な血筋と捉え、サマリア人を異邦人の血が混じったユダヤ人、異邦人と見下していました。
このことの発端は旧約聖書の時代にあります。一つの王国であったイスラエルの12部族が分裂し、サマリアを首都とする北イスラエル王国とエルサレムを首都とする南ユダ王国になります。そして、どちらの王国も主なる神を畏れることを止め、言葉に聞かず、偶像を礼拝するように堕ちて行きました。
その後、神様の裁きによって北王国がアッシリア帝国との戦争に負けて捕囚の民となり、アッシリアの政策によりサマリアの土地にメソポタミア地方からの移民を住まわせ、現地民と移民が結婚するようになり、血が混じるようになり、偶像を拝むようになり、宗教的にも純粋でなくなったと南ユダ王国の人々はサマリア人たちを見るようになりました。
その後、神様に対して同じ罪を犯していた南ユダ王国がバビロニア帝国に負けて70年の捕囚期間を過ごすことになります。けれども、その捕囚から解放されてエルサレムに帰還し、神殿と城壁を再建する際も、サマリア人たちがなん度も妨害したということがネヘミヤ書に記されています。
その後も、例えば、マカバイ戦争の際ですが、紀元前128年にはサマリアは隣国シリアに加担してユダヤ人を攻撃し、ユダヤ人もそれに報復としてサマリアのゲリジム山にあった神殿を焼き打ちにしたということが歴史の記録に残っています。同じ神を信じているはずなのに、お互いへの敵意が時を重ねる中で強まっていくのです。
ですから、イエス様の時代になっても、ユダヤ人はサマリア地方を極力避け、遠回りしても、ヨルダン川の東側へ渡って、ガリラヤ地方へ北上するというのが通常でした。サマリア人とユダヤ人には交流が一切なかったのです。
しかし、イエス様は「サマリアを通らねばならなかった。」とあります。その理由は、神様はサマリアの人々を愛し、イエス様を通して彼らが神の子となることを願っていたからです。ですから、イエス様はサマリアへ入られるのです。イエス様の弟子たちはそのことをどのように捉えていたでしょうか。
さて、イエス様とその一行は、5節、「それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。」とあります。6節を読みますと、「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。」とあります。暑くなる前、早朝からずっと歩いて来て、イエス様もお疲れになられたのです。
イエス様は、人の形をとって、人としてこの世に生まれられましたので、わたしたちと同じように肉体的な疲労を感じたりするわけです。人間ですから、お腹も空くし、喉も渇くわけです。わたしたちが日々の生活の中で感じる様々なことをイエス様も感じられるのは、わたしたちの思いに共感・共鳴してくださるためです。良いことを共に喜び、悲しいことも共に悲しみ、痛んでくださるのがイエス様です。
旅に疲れて井戸の側に座り込んでいたイエス様は、7節、水をくみに来た一人のサマリア人女性に会い、イエス様の方から彼女に声をかけ、「水を飲ませてください」とお願いするのです。8節に「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。」とあり、イエス様はお独りでそこに座っておられたのです。サマリアまでイエス様を追ってくるユダヤ人たちはいません。そのような土地に足を踏み入れるのは宗教的にも汚れるとでも思ったのでしょう。弟子たちもサマリアに足を踏み入れることをどのように感じていたでしょうか。
すると、サマリアの女は、「驚いたような口調で、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」とあります。彼女が驚いた理由として考えられるのは、三つです。
1)まず日差しの強い日中に外にいる人は少なく、そんな時に井戸に水をくみに来るという重労働をする人はおらず、誰かと鉢合わせになると思っていなかったからです。ましてや男性、しかもユダヤ人と鉢合わせするなんて! 2)次に、男性が外で女性に声をかけることは当時あり得えないことでした。3)また、ユダヤ人がサマリア人に声をかけるなどあり得ないことであったからです。ましてや、ユダヤ人男性が「水を飲ませてください」と丁重に依頼をしてくるのです。まったくあり得ないこと、彼女が今まで経験したことのないことの連続です。
彼女は人を極力避けていました。その理由は16節以降に記されていますので、次回の学びの中で聴いてゆきます。
さて、そのように答えるサマリアの女性に対して、10節で、「イエスは答えて言われた。『もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませてください」と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。』」と言われます。
「神の賜物」とは神様が与えてくださったものという意味です。中近東でも水は貴重な資源です。生きてゆくためには水は必要ですが、その水は自然に湧き上がってくるものではなく、神様が造られたもの、神様からの恵みとして与えられていることを知る必要がわたしたちにはあり、それを分かち合うことが共に生きる上で重要なのです。
ここで面白いことは、「水を飲ませてください」と言ったイエス様は父なる神様と聖霊と一緒に水を造られた方であるということです。イエス様は、「『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」と言われますが、イエス様という救い主の存在を知り、信じる必要があったのです。今後のヨハネ福音書の学びの中でも何度も水のテーマは出て来ますが、イエス様を信じる者には永遠に生きる水をイエス様がお与えくださるのです。
しかし、そのことがまだ分からない女性は、11節と12節で、「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」と棘のあるような言葉を言い、「あなたは先祖ヤコブよりも偉いのですか」と的外れなことをイエス様に問うのです。イエス様と出会ってまだ間もないか分からないのは普通です。
しかし、イエス様は彼女の無礼を叱ることはありません。むしろ愛をもって彼女に接しようとし、13・14節で「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言われ、「わたしから永遠の命に至る水を受けなさい」と招かれるのです。
イエス様が与えてくださる水というのは、すぐに喉が渇いてしまうような水ではなく、わたしたちの内側・心をイエス様と聖霊がまったく新しく造り変え、その心の中に生きる力(喜びと感謝と平安)が湧き上がってくる源泉を造り、その泉から絶えず生きる力を与え、残された人生を希望をもって生きるようにしてくださるということなのです。その永遠の命に至る水、生きる力を神様から受けるためには、イエス様を救い主と信じて、イエス様を心に迎える必要があるのです。
誰もがそのような水、生きる力を必要としています。しかし、たとえ巨万の富を持っていても、お金では喜びも、平安も、希望も買うことはできません。
15節で、「女は言った。『主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。』」とあります。彼女にはお金がなかったと思われます。また自堕落な生活をしていたことが16節以降に記されています。しかし、彼女の良い部分は、「その水をください」とイエス様に求めていることです。喜びと平安と希望の源はイエス様でありますから、イエス様に求めることはベストな選択です。
しかし、その水・祝福をイエス様から受ける前に彼女がしなければならないことがありました。それが次回の学びの中で明らかになります。
