2025.12.17 ヨハネによる福音書4章16〜26節
今回の学びは前回からの続きで、サマリア地方のシカルという町にあるヤコブの井戸でイエス様とサマリアの女性が対話するところです。この名前も記されていない女性は、人々の目を避けるために、人が外で活動しない日差しの強い午後に生活水を井戸に汲みに来る人でした。イエス様との会話からも、彼女には生活面で様々な問題・課題があったということが分かります。しかし、生活面というよりは、彼女の心の問題、心が喜びで満たされていない、いつも何かを求めているという心の飢え乾きがあったと考えられます。それが原因で誰に対しても素直になれない、どこか人との距離を取りたがる、物事を否定的に捉えてしまう「ひねくれた」部分があると考えられます。
しかし、イエス様は、そのような女性と出逢い、彼女の心・魂を救い、と同時にサマリアの人々を救って真の神様に立ち返らせ、真の礼拝をささげさせるために、ユダヤ人が避けて通るサマリア地方に自ら足を踏み入れました。愛に飢えていた女性の心を真の神の愛で満たし、彼女を救うために、イエス様はユダヤの人々が避けるサマリア地方へと入って行かれるのです。神様から離れてしまった小羊たちを見つけ出し、救うためです。
この女性が心の中でもがいていたことは何でしょうか。対人関係が上手くいかないということに悩んでいたことは分かります。人を信用すること、人を愛すること、人のために何か良いことをするという基本的なことができなかったようです。その裏返しは、彼女はこれまで人から信用されてこなかった、愛されてこなかった、彼女のために何かをしてくれる人がいなかったということでありましょう。
ですから、イエス様から「水を飲ませてください」と頼まれた時も、イエス様に対して素直になれず、信用できず、イエス様のために水を汲んで飲ませるという簡単なこと、寛容なことがすぐにできなかったのでしょう。しかし、イエス様は「水を飲ませてください」と彼女に頼みました。それは、「あなたの愛をわたしに少し分けてください」という、愛するということへの招きでもあるのです。
最初は否定的で気難しいような女性の心が、イエス様との対話の中で徐々にほぐれてゆきます。前回の分かち合いの中でも取り上げられましたが、彼女がイエス様のことを「主よ」と呼ぶようになって行ったのは、彼女の心に変化が徐々に現れてゆき、イエス様のことを「只者ではない」と感じ始めてゆく中で、少しずつイエス様に心を開きつつあり、信頼してみようという思いが湧き上がってきたからと考えられます。このようにしてくださるのは、ご聖霊です。神様の愛の力です。わたしたちの心を変えるのは神様の愛です。
この会話の中で、この女性はイエス様のことを「主よ」と3回呼んでいますが、ギリシャ語では「キュリエ」という言葉が用いられています。この「キュリエ」という言葉は特殊で、まず1)目上の人に対して、2)尊敬する人に対して、3)神から遣わされたと考えられる人に対して使う言葉、それぞれの場合によって使い分けられる言葉です。
ですから、最初の11節では、イエス様を自分で水を汲むことができない哀れな人だけれども、「目上の人」だからということで発した「主よ」という言葉で、次の15節は14節で「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われたイエス様に対して「尊敬の念」を込めて、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と発した言葉と理解することができます。3つ目は、今回の学びの中にある19節ですが、自分の苦しい境遇、人には恥ずかしくて言えないことすべてを言い当ててしまうイエス様を神様から遣わされた「預言者」だと捉えて、「主よ」と発しています。同じ「主」という言葉でも、ニュアンスが違っています。
ここで注目すべき大切な点は、イエス様と対話を重ねる中で、彼女の心が良い方向へと徐々に変化しているということです。つまり、わたしたちがここから学べる必要なことは、イエス様との対話を大切にするということ、すなわち、神様とイエス様の言葉が記されている聖書を日々朗読することと、祈りを通して神様とイエス様と会話することです。
しかし、この女性にはもう一歩の前進が必要です。何故ならば、イエス様は神様から遣わされた「預言者」ではなく、「救い主・メシア」であるからです。このもう一歩の前進のために何が必要でしょうか。それは自分の弱さを、自分の罪をイエス様の前でしっかり認めることです。この「悔い改め」なくして、「永遠の命に至る水」を、つまり「救い」をイエス様を通して神様から受けることはできないのです。
女性が「永遠の命に至る水をください」とイエス様に願った直後、イエス様は16節で何と言っておられるでしょうか。イエス様は、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われるのです。しかし、続く17節から18節を読んでみましょう。「女は答えて、『わたしには夫はいません』と言った。イエスは言われた。『「夫はいません」とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。』」と言われるのです。
これは、彼女にとって最も尋ねられたくない、触れられたくない恥ずかしい部分だと思います。あからさまに「あなたは自堕落な生活をしている。あなたの罪は重い。あなたは罪人だ。」と言われているのと等しいことです。そんな厳しいことを言われたら、生きてられないと思う人もおられるかもしれません。しかし、罪に大小、重さ軽さ、深さ低さは関係ないのです。そのように見えるのは人間の目線です。天におられる神様の目には、その視線からはすべて罪なのです。
けれども、イエス様は彼女の罪だけを指摘したいのではないのです。イエス様は、「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」と言っています。つまり、彼女がどのような生活をしているのか、どのような状態であるかをすでに知っておられます。それを感じとった女性は、19節、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」というのです。イエス様は、彼女に、自分には弱さ、課題、罪があり、それを自分の力だけでは解決することができないということを認めさせ、悔い改めて救いをイエス様に求めるように徐々に導いて行かれるのです。
イエス様の思いは、もう一つあります。イエス様は、彼女の心が非常に大きなやるせなさで満たされていること、魂に愛も生きる喜びも平安も希望もない、魂が渇ききっている状態を知っておられるのです。そしてその魂を潤し、力を与える力をイエス様は持っておられる。だから、イエス様に心を開いて生きる水を、救いを求めなさいと招くのです。
松本俊之先生は、その著書(ヨハネ福音書を読もう・上)の中で、別の角度から彼女の状態を受け止めていますので、引用して紹介したいと思います。
「五回も結婚と離婚をくり返したという事実をどう受けとめるか。彼女の生活はみだらなものであったと言う人もあるかもしれません。しかし私は、むしろこれは彼女の不幸な結婚生活を表すものとして受け止めたいと思います。彼女は恐らくその都度、今度こそ幸せになりたいと思って結婚したのではないでしょうか。しかし、男のほうはそうは思っていない。彼女のことを本気で思っているわけではない。そして捨てられる。そのくり返しです。今同棲している相手も、彼女のことをそのようにしか考えていないかもしれません。だから結婚もしないのでしょう。彼女自身、一人でいる寂しさに耐えられず、とにかく寄りかかる相手が欲しかったのではないでしょうか。言葉を換えて言えば、彼女の渇きを一時的にでもいやしてくれる相手、あるいは忘れさせてくれる相手が欲しかったのです。しかし、その水はいくら飲んでも渇く、満たされることがない。イエス・キリストは、彼女の本当の渇きが一体どこにあるのかを知っておられたのです。・・・。イエス・キリストは、そこを捉え、永遠の命に至る水がどこにあるかを示されたのです。」とありました。
他の注解書には、5人の男性とは、北イスラエル王国がアッシリア帝国に負けて、帝国の政策としてサマリアに移民させた5つの民族(バビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイム)を表し、サマリアの人々がその移民と結婚する中で、それらの民族の神々を取っ替え引っ替え偶像礼拝していたことを表しているとありました。列王記下17章24節〜41節を参照。聖書には、偶像礼拝は罪であると明記されています。この彼女が主なる神に頼ることなく、5人の男性を頼って生きる中で、彼らが自分の魂を満たしてくれないと虚しさを感じたのでしょうか。そして今同棲している男性は、過去の虚しい経験から、もう結婚はしないと決めた彼女の魂の渇きを表しているのかもしれません。
そのように心が渇ききっていますので、イエス様から投げかけられた問いかけをすり替えようとイエス様に次のように言います。20節、「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」と言います。何故サマリアとユダヤには宗教上の対立があるのですか。同じ神を信仰しているはずなのに、何故わたしたちはゲリジム山の神殿で礼拝をささげ、あなたがたユダヤ人はエルサレムの神殿で礼拝をささげるのですか、何故競い合うのですかと尋ねます。
それに対して、イエス様は、21節で、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」と言われます。過去に縛られるのではなく、前を向きなさい、将来を見なさいと励まします。過去から解放されて未来に向かって生きるための鍵は、イエス様を救い主・メシアと信じることです。
22節で、イエス様は「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」と言われますが、救いはユダヤのベツレヘムに生まれたイエス・キリストによって来る。そして、この救い主によって真の神様を知ることができ、礼拝をささげることができると言っておられるのです。
イエス様は、礼拝の場所ではなく、神様を礼拝する「時が来る」と言われました。23節でもイエス様は、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」と言われます。
「霊と真理をもって神様を礼拝する時が今である」と言われます。「今である」とは、イエス様がこの世を歩まれた今です。「霊」とは聖霊のことです。「真理」はイエス様のことです。真理なるイエス様が来られて、父なる神様をどのように礼拝するかを教えてくださる。そして霊の神である聖霊に満たされて、力づけられて神様の喜ばれる礼拝をわたしたち人間は初めてささげることができると言うことが言われています。
24節には、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」とあります。人間の力や知恵や努力で神様を礼拝するのではなく、神様の力と、神様の霊と、真理であるイエス様に満たされて礼拝する以外に、神様に喜ばれる礼拝をささげることはできないと言うことです。そのためには、わたしたちは自我、自力、努力を捨てて、真っ白な心が必要です。わたしたちの心を真っ白にしてくださり、真の礼拝者としてくださるのがイエス様なのです。
サマリアの女性はイエス様に言います。25節、「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」と。彼女はメシアが来られるのはまだ将来的な事柄として受け止めています。しかし、それに対して、イエス様は、26節、「メシアは、あなたと話をしているこのわたしである。」と言われます。この言葉を聞いた彼女は非常に驚いたことでしょう。わたしたちも自分にそう言われたら腰を抜かすほど驚くでしょう。しかし、わたしたちに大切なのは、驚くことよりも、イエス様をキリスト・救い主と信じることなのです。
