2026.1.14 ヨハネによる福音書4章27節〜42節
ヨハネによる福音書4章1節から続くイエス様とサマリアの女性の対話から信仰生活に大切なことを聴いています。イエス様とその弟子たちは、ユダヤを去り、再びガリラヤへ向かわれる際に、サマリアを通られました。「サマリアを通らねばならなかった」と4節には記されています。イエス様は、その土地の人々にもメシア・救い主が来られたという福音を伝えたいと強く願われたのです。ユダヤ人が忌み嫌って避けて通るサマリアという土地に生きる人々にも神様の愛がイエス様を通して注がれていると伝えたかったからです。
このサマリア伝道は、イエス様と一人のサマリアの女性との対話から、イエス様の「水を飲ませてください」という願いから関わりが始まります。その対話のテーマは、「人を生かす永遠の命の水」ということでした。生きるためには、水は欠かせません。しかし、飲み水などの生活水は時が経つとまた井戸に汲みにくる必要があります。主イエス様は、13節から14節で、「この(井戸の)水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と彼女に言いました。サマリアの女性は「主よ、渇くことのないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と願います。
「永遠の命に至る水」を神様から受けるためには、イエス様を信じる必要があります。そして、イエス様を信じる前に、自分の過去と現状と向き合い、間違いを認め、悔い改めて神様に立ち返る必要があります。イエス様はこの女性の過去と現状を知っておられ、その間違いを的確に指摘されます。その上で、「婦人よ、わたしを信じなさい。霊と真理を持って神様を礼拝しなさい。」と信仰へと招かれるのです。この女性は、25節で、「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちの一切のことを知らせてくださいます。」と言いますが、イエス様は、「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」とお答えになります。これは「わたしを信じなさい」という救いへの招きの言葉です。この招きがあること自体が恵みなのです。
さて、そのような対話がなされていた時、27節を読みますと、「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と言う者はいなかった。」とあります。8節に、「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。」とありますので、食料を調達して無事戻ってきたのでしょう。しかし、サマリアという不慣れな土地で食料を購入することは、彼らにとってどこか「もどかしさ」を覚える経験であったかもしれません。サマリアの人々も彼らをいぶかしがった(不審に思った)かもしれません。
「イエス様が女の人と話をしておられるのに驚いた」とありますが、日中、見ず知らずの男女が外で話をすることはない時代、弟子たちはその光景を見て「ショックを受けた」と新約聖書註解Ⅰ(p421)にありましたが、それほどまでに、ユダヤ人男性とサマリア人女性が対話していることは「ありえない」状況であったようです。そういう中で、弟子たちの中で誰一人として「何か御用ですか」とか、「何を話しておられるのですか」とイエス様に質問しなかったとの解説がついています。彼らは「またいつものようにイエス様の方から話しかけていったのであろう」という考えがあったと理解することができます。
さて、28節から29節には、イエス様に出逢った女性がイエス様によって劇的に変えられていったかが記されています。「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』」とあります。
彼女が井戸に来た目的は、生活水を得ることでした。正午の時間帯に井戸に来たのは、人との関わりを持たないためでした。5度も離婚を繰り返し、今連れ添っているのは夫ではない、彼女のそういう後ろめたさ、人々の厳しい視線に耐えられないという思いが背景にあったと思われますが、そのような女性が、自分が井戸に来た目的の象徴である水がめを置いたまま町へ行き、人々に「さあ、見に来てください。わたしがヤコブの井戸で出会った人はメシアかもしれません」と言って、イエス様の所へ行きましょうと招くのです。
この「さあ、見に来てください」という言葉は、1章43節から51節の中で、フィリポがナタナエルに「来て、見なさい」と言った言葉と同じ意味のある言葉です。ヨハネ福音書では、このイエス様を「見る」ということが大きな意味があります。今の時代、イエス様を肉眼で見る事はできませんが、見たい・信じたいという願いの目で見ようとすることが重要で、信じれば、神様から信仰の目・霊的な目が与えられて見えるようになるのです。
「わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます」とは、彼女が犯してきたこれまでの罪がすべて指摘されることによって、彼女自身がイエス様を救い主・メシアとして信じるようになっていったということの裏付けの言葉です。「もしかしたら、この方がメシアかもしれません」という彼女の言葉は、半信半疑の言葉にも聞こえますが、「信じたい!」という非常に前向きな言葉として受け止めることが大切だと思います。
何故なら、わたしたちは、自分では自分の間違いに気付いても、それを取り繕うことはできません。イエス様に取り扱って、取り繕っていただかなければどうすることもできないのです。イエス様に取り扱っていただく中で初めてわたしたち人間の心は変えられてゆき、イエス様を救い主と信じる者へと変えられるのです。サマリアの女性が救いを受け取り、信じることができるように、イエス様の方から彼女に出逢って行かれるのです。そこにイエス様の優しさ、神様の愛が表れていると思います。
イエス様に出逢って、イエス様を救い主と信じる人は、神様の愛・憐れみによって、まったく新しくされます。過去と現状から解放されて、まったく新しいスタートを踏み出せることができるのです。一歩前に踏み出す力をイエス様が与えてくださるのです。ご聖霊が背中を押してくださるのです。そのような御力の励ましの中で、彼女の新しいスタートが、ずっと避けていた町に行き、関わりを持つことを躊躇していた人々に「救い主が来られたから見に来てください」という喜びに溢れた誘いになっていったのです。
30節に「人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。」とあります。彼女の大きな喜びが人々の好奇心を奮い立たせ、彼らをイエス様のおられるヤコブの井戸へと向かわせるのです。ネヘミヤ記8章10節(p750)に、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」とありますが、救い主に出逢ったという一人の女性の喜びが、町の人々の心をイエス様に向かわせる原動力となったのです。それは本当にすごいことです。その喜びがわたしたちの中にあるかということも同時に問われているように感じます。
さて、イエス様とサマリアの女性の対話の主題は「水」でありましたが、31節から「食べ物」が話の中心になります。この箇所をよく理解するためには、旧約聖書の申命記8章1節から10節(p294)を参照しながら読む必要があります。そこには、エジプトから救い出されたイスラエルの民が荒野を40年間旅する中で、主なる神様が水を与え、食物を与えて養ってくださったことに心を留めなさいという励ましが記されています。
さて、31節から33節に、「その間に、弟子たちが『ラビ、食事をどうぞ』と勧めると、イエスは、『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』と言われた。弟子たちは、『だれかが食べ物を持って来たのだろうか』と互いに言った。」とあります。弟子たちは、「誰かがイエス様に食べ物をくれたのだろう」と目に見える食事のことを思っていますが、イエス様は神様が与えてくださる目に見えない食事のことを言っておられます。
申命記8章3節に、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」とあります。肉体的に生存するための力は食べ物から受けられるが、心・魂が健康的に生きるためには、「主なる神様の口から出るすべての言葉を受ける以外に方法はない」とイエス様はおっしゃいます。「すべての言葉」とはイエス様の口から出る言葉のことです。イエス様の言葉に聞き従う中で、その言葉によって作り変えられてゆき、自分のためだけに生きるのではなく、神様と隣人のために仕えて生きる力が神様から祝福のうちに与えられてゆくのです。
34節で、イエス様は「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」と言っておられますが、ここでイエス様がおっしゃっているのは、イエス様の言葉に聞き従い、その言葉を生活の中で実践することによってわたしたちは本当の意味で神様の愛・恵みのうちに「生きる者」とされるということです。
35節から38節で、「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」とありますが、これは福音を伝える時の心構えと展望です。
福音の種蒔きをする時期、また収穫の時は数ヶ月後ではなく、今であるとイエス様は言われます。自分で種を蒔いたものを収穫するのではなく、誰かが種を蒔いたものをあなたが収穫の時に収穫する。あなたが種を蒔いたものを誰かが収穫の時に収穫する。だから、いつも種を蒔き続け、いつも収穫し続けなさい、それほどまでに神様の愛と罪の赦しと救いを必要としている人々の数が多いということでもあります。教会全体の働きです。
さて、39節から42節は、イエス様のサマリア伝道での結びの場面です。39節の「『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた」という言葉は、イエス様が一人の女性と対話したことから町中の人々がイエス様を信じるように導かれていったと理解することが良いと思います。
40節の「そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。」という言葉に、ユダヤ人とサマリア人の間にあった隔たり(壁・溝)がイエス様によって取り除かれていった様子が伺えます。そのことを通して、41節、「そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。」ということにつながってゆきます。繰り返しになりますが、イエス様がサマリアの地に入られ、そこで一人の女性と対話したことから福音の種蒔きがなされ、その地に神様の愛を受け取る土壌が作られてゆき、信仰を受け取って神様から祝福された人々が起こされていったのです。すべてはイエス様から始まったのです。
最後の42節に、「彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。』」とありますが、エルサレムのユダヤ人たちはイエス様によってなされる「しるしを見て信じる信仰」でしたが、サマリア人たちはイエス様の口から出る「言葉を聞いて信じる信仰」という対比がなされています。イエス様との交わりの中で、イエス様の言葉を自分の耳で聞き、心で感じる中で、イエス様を信じる「本当」の信仰が与えられてゆく、このイエス様の言葉にいつも聴いてゆき、その言葉を実践してゆく者とされてゆきたいと願います。そのように祈り求める者に信じて実践する力が与えられます。
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補足:今回の学びの中で漢字の「出逢い」と「出会い」を使い分けました。「出逢い」はその人の人生に大きな影響をもたらす重要なイベントを指し、「出会い」は一過性で人との関わりがあまりないイベントを指します。
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