2026.1.21 ヨハネによる福音書4章43〜54節
今回は、4章の最後の部分から、わたしたちは日頃からどのような信仰を持って歩んでいるのかを確かめてみたいと思います。わたしたちにとって非常に重要な箇所です。
松本俊之牧師は、その著書「ヨハネ福音書を読もう(上)」の今回の箇所を取り扱う中で、わたしたち読者に対して、「あなたは神様に対して、またイエス様に対して『奇跡を願う信仰』を抱いているのか、それとも『見ないで信じる信仰』を抱いているのか、あなたの信仰はどちらか?」という問いかけをしてくれています。
徐々に弱くなっている教会の現状に対して危機感を抱いている牧師、神様に顧みられて教会の現状が急激に回復する、祝福されることを祈っている牧師は、「奇跡を願う信仰」を抱いてしまっていると言わざるを得ません。しかし、神様とイエス様がわたしたちに求めているのは、現状がどうであれ、まず心を開いて主の言葉に聞き、その言葉に従順に従う信仰であるということを今回の箇所でイエス様は教えておられます。
さて43節に、「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。」とあります。40節にありますように、サマリアで二日間過ごされたイエス様と弟子たちは、そこを出発して、自分たちの故郷であり、活動の本拠地であるガリラヤへ戻られたのです。弟子たちは故郷に戻ることができて喜んだと想像しますが、イエス様の心境はどうであったでしょうか。44節を読みますと、以前、イエス様はこういうことをはっきり言われたと記されています。すなわち、「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。」とあります。
このイエス様の言葉は、マタイ13:57、マルコ6:4、ルカ4:24にも共通して記録されている言葉であります。マルコ福音書においては、イエス様の故郷ナザレで、「この人は大工ではないか。マリアの息子ではないか」と人々から言われています。ナザレはガリラヤ地方の一部でありますので、ガリラヤでは敬われないとイエス様が言われた中に含まれます。イエス様は、人々は自分を受け入れないだろうと予測していたわけです。
しかし、蓋を開けてみますと、45節前半、「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。」のです。彼らの歓待ぶりとイエス様の言葉が矛盾するように感じます。イエス様の考えは、ただの取り越し苦労ではなかったかと思わせてしまいます。何故そのような歓待があったのかという理由が45節後半に続きます。「彼らも(ガリラヤの人々も)祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」とあります。
ここでのポイントは、彼ら彼女らは「すべて見ていた」という部分です。エルサレムを訪問した人々が地元に帰ってきて、土産話のように人々に自慢げにイエス様のことを話していたのかもしれません。エルサレムでなさったようなことをガリラヤでもイエス様がなしてくださり、それを自分たちも自分の目で「見ることができる」と大きな期待を寄せていたことが歓待の理由であったようです。
続く46節前半を読みますと、「イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。」とあります。「再び」という言葉には、2章でイエス様が婚礼の祝いの場で水をぶどう酒に変えた最初の奇跡を想起させる役割があります。
続く46節後半から47節を読んでゆきますと新たな展開が記されています。「さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。」とあります。
新約の時代の地図を見ていただきますと、カファルナウムはガリラヤ湖の北西に位置する町で、そこからカナまで直線距離にして30キロあります。30キロというのは、新宿から北に川越、東に習志野、西に八王子、南に横浜ほどの距離です。
自分の愛する息子が瀕死の状態に陥っています。イエス様に望みをかけて30キロの道のりを急いで来ます。馬に乗って来たと記されていませんので、徒歩で来たのでしょう。Googleマップで大久保教会から川越駅までの徒歩での移動時間を調べますと10時間30分と出ました。休憩時間を合わせますと往復で1日を要します。
49節の「役人は、『主よ、子供が死なないうちに、おいでください』と言った。」という言葉は最初の言葉ではなく、二回目・三回目の言葉であった可能性もあります。しかし、イエス様はその父親に対して、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われたのです。この言葉は必死に息子の救いを求める父親にだけではなく、ユダヤ人全体に対して言われた言葉です。
サマリアの人々は、一人の女性の言葉を聞いてイエス様を救い主・メシアと信じ、自分たちの耳でイエス様の言葉を聞いて信じましたが、ガリラヤ人を含むユダヤ人たちは、「しるしや不思議な業を見なければ、『決して』信じない」とその心の頑なさをイエス様は言っておられます。新共同訳・新約聖書註解(p425)では、「現代的な言い方をすれば、宗教すらギブ・アンド・テイクの利害関係でしか考えない人間がいる。神あるいはイエスを、息子の命が助かるための道具としてしか理解せず信じようとしない人間の問題を、イエスは見ているのである。」とありました。
イエス様は確かに「しるしや不思議な業を見なければ、『決して』信じない」とその心の頑なさを言っておられますが、その言葉の裏返しは、単純に信じなさいという招きであるとも考えられます。奇跡を「見て」信じる信仰ではなく、イエス様の言葉を「聞く」、「聞くだけ」で信じなさいというシンプルで純粋な信仰への招きにも聞こえてきます。
「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と信仰の頑なさをイエス様から厳しく指摘されても、愛する息子を諦めきれない父親は、それでも「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と食い下がり、嘆願します。そのような必死な心の状態は、イエス様の行動に期待するもっと前に、イエス様の口から出る言葉に希望を抱こうとします。イエス様の言葉を聞こうとする心の土壌(環境・条件)が整うのです。
イエス様はこの父親に対して、50節で、「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」とお命じになります。「帰りなさい」とは「わたしを信じて、息子のところへ戻りなさい」ということ、イエス様の言葉に希望を抱いて帰りなさい」ということです。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」とあります。イエス様にしがみついて、「どんなことがあっても一緒に来てください。絶対来てください」とは決して言わずに、イエス様の口から出た言葉を聞いて、信じて、息子が待つカファルナウムへと戻るのです。
何故この父親はそのような行動がとれたのでしょうか。それはイエス様の「あなたの息子は生きる」という言葉を信じたからです。「あなたの息子は生きる」というイエス様の言葉に希望を持ったからです。そうでなければ、帰りたくとも帰れません。
イエス様の言葉をそのまま信じた父親が30キロの道のりを10時間以上かけて戻る中で奇跡を彼とその家族は経験するのです。51節、「ところが、(カファルナウムに)下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。」のです。僕たちを見た時、父親は最初ドキッとしたと想像しますが、僕らの顔の表情が柔らかいのを見て安堵したと思います。彼らの口から出た言葉、「あなたの息子さんは生きています。回復しました。」と聞いて大きな喜びに満たされたと思います。わたしたちも愛する家族が助かったとの一報を聞くと大きな喜びに満たされ、感動のあまり涙が出てくると思います。
大いに喜び、安心した父親は、息子がどのように回復していったのかと当時の様子を僕たちに聞きます。いつ、どのようにして息子の具合は一気に好転したのかと僕たちに詳細を求めたのだと思います。52節、「そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、『きのうの午後一時に熱が下がりました』と言った。」とあります。それを聞いた父親は驚嘆します。心がさらに大きな喜びと感謝で満たされたと思います。53節、「それは、イエスが『あなたの息子は生きる』と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。」からです。「イエス様を信じて良かった」という思いよりも、「イエス様はわたしの救い主である」と信仰がさらに確かなものへとグレイドアップしたでしょう。「彼もその家族もこぞって(イエス様を)信じた。」とあります。
この箇所には「生きる」という言葉が50、51、53節に三回用いられています。イエス様は、わたしたちを生かすためにこの地上に来られ、「生きなさい」と招いてくださいます。「悔い改めて生きよ」と神様に立ち返って生きるように励ましてくださいます。このイエス様の言葉には、わたしたちを救う力があるのです。
これが、54節、「イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるし」であります。松本牧師は、「彼はしるしを見て信じたのではなく、見ないまま、言葉を聞いて信じた。その結果として、しるしが与えられたということです。」と記しています。
冒頭にお話ししました「奇跡を願う信仰」と「見ないで信じる信仰」についてもう一度考えてみましょう。「奇跡を願う信仰」とはその言葉からもわかりますように、人間が神様に奇跡を期待する信仰です。神様を信じて仰ぐことから大きくかけ離れた人間中心の信仰、信仰とも呼べない願望です。しかし、「見ないで信じる信仰」、それはつまり神の言葉だけを聞いて信じる信仰は、神様が信仰の中心となっている神様への信頼と服従です。
ヘブライ人への手紙11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とありますが、信仰とは見えない神の存在、神の愛とご計画をイエス・キリストの名によって確信することです。信仰は、イエス・キリストを通して神様から与えられる賜物・ギフトです。恵みの主に感謝いたします。
