2026.2.4 ヨハネによる福音書5章19〜30節
今回の箇所は、前回の学びの続きであり、また次回の学びに続くものです。今回の19節から次回の47節までの箇所は、「わたし」が主語となっており、イエス様だけが語られるモノローグ、あるいはイエス様の説教のような箇所です。それでは、イエス様は誰に対して語られたのかという問いですが、それはイエス様に悪意・敵意を抱き、イエス様を殺そうと狙うエルサレムのユダヤ人たちに対して語られたと理解します。
前回の学びでは、イエス様がエルサレムのベトザタという池の傍らで38年間も病気で起き上がれない人を言葉だけでいやされました。イエス様の言葉には力がある。それだけであるならば問題はないのですが、イエス様がその人をいやされたのが「安息日」であったので安息日の律法・規律を重んじるユダヤ人たちから迫害を受けるようになりました。一回のみであればまだしも、16節に「安息日にこのようなことをしておられたからである」とありますように、毎週のように安息日に人々をいやしていたことが、律法に厳格なユダヤ人たちからは受け入れられなかったのです。
イエス様に対する激しい攻撃が始まった原因は、それだけではありません。激しい追求に対して、イエス様は17節で、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とおっしゃり、18節後半で、「イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自分を神と等しい者とされたからである。」と言います。これは厳格なユダヤ人たちからすれば、とうてい見過ごすことのできない一線を越えた神への冒涜です。人間が神と等しい者であることはあり得ないことですし、神によって創造された人が神と同等になるということは決して許されることではないと考えられていました。けれども、イエス様は神様を父と呼び、御自分を神様の子と呼んだのですから怒り心頭です。
さて、学びを深めてゆく前に、覚えておきたいことが一つあります。新共同訳聖書では、小見出しに「御子の権威」とあり、この箇所はイエス様の権威についてイエス様ご自身が語っておられる所ということが分かりますが、27節には「権能」という言葉が用いられています。新改訳聖書ですとただ「権」とあり、リビングバイブルは「権威」となっています。「権威」と「権能」、何が違うのかをインターネットで調べてみました。
権威とは、「人が自発的に従いたくなるような影響力のことで、その根拠は、その人の専門知識、経験、リーダーシップ能力、あるいは人格的な優位性など、内面的なものにあります。例えば、ある分野のエキスパートや、信頼できるリーダーが持つ影響力が権威にあたります。権威は役職や地位に直接結びつくものではなく、その人自身の能力や人柄によって築かれるもの」とありました。イエス様のキリスト・救い主としての、良き羊飼いとしての影響力を権威と言い表すのだと思われます。
権能とは、「ある行為を行うことができる法的または公的な資格や能力のことで、『権利を行使できる範囲』や『特定の物事を実行できる能力』を指し、法律や組織の規定によって定められています。例えば、公の機関が持つ職務上の権能や、所有者がその物を自由に扱える権能などがこれにあたります。権能は、その人がどのような立場にあるかによって与えられ、行使できる範囲が明確に定められているのが特徴」とありました。イエス様の病をいやす力、悪霊を追い出す力、神の国について福音を語るその言葉の力、人の罪を赦し、そう宣言する力を権能と言い表すのだと思われます。
言われてみれば、イエス様にはわたしたちが自発的に従いたくなるような影響力、リーダーシップがありますから「イエス様の権威」と言っても差し支えないでしょう。同時に、イエス様はわたしたちをいやし、罪から解放し、苦しみから救い、命を与える力を神様から授けられ、派遣されていますから「イエス様の権能」と言っても差し支えないわけです。ですから、聖書を読み進めてゆく中で、ここはイエス様の権威、ここはイエス様の権能かな?と、各節を識別しながら読むのも面白い読み方かと思います。
イエス様を殺そうと目論んでいるユダヤ人たちに対して、19節で「そこで、イエスは彼らに言われた。『はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。』」と言われます。
この19節と続く24節と25節でイエス様は「はっきり言っておく」と繰り返し言われますが、新共同訳聖書註解一では、「この(はっきり言っておくという)場合は、この定型句に導入される後続の文章を強調するために用いられている。いや、単なる強調というよりも布告・宣言という荘重な響きを伴っている」(p431)とありました。イエス様は、ここでユダヤ人たちに、ご自分は何者であるかを3つ宣言しているということになります。
一つ目、イエス様がここで宣言されている事柄は、父なる神様と子なるイエス様は、何をするにもいつも一体であるということです。天地創造のずっと前から神様、イエス様、聖霊は存在され、すべてを創造されました。神様がわたしたち人間と世界のものすべてを愛されているように、自分も愛するとイエス様は宣言するのです。病にかかり、人々から「お前は汚れている。神に対して何か罪を犯したから不幸になったのだ」と勝手に決めつけられ、社会から追い出されて隅に追いやられている人々を神様は愛し、救われようとしているように、自分もそのようにしている、そうするという宣言です。
20節の「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」は、父なる神様はご計画をすべてイエス様に示され、救いのための全権をイエス様にすべて託されたということ、神様とイエス様の認識は常に一致している、一体だということです。
ここに「これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。」とありますが、「これらのこと」とはイエス様がガリラヤで役人の息子を死の淵から救ったこと、ベトザタで病人をいやしたことを指しますが、それよりも大きな業とは、21節、「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」という事、すなわち神様がイエス様を甦らせたように、イエス様の十字架と復活を信じ、救い主と信じる者たちに新しい命を与えるという約束、宣言です。
22節と23節に、「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。」とあります。イエス様が再びこの地上に来られる時、羊を右に、やぎを左に分けるようにイエス様が責任をもって裁かれる。だから、昔からの言い伝えや伝統に縛られた価値観によって人を軽々しく裁くことはせずに、イエス様がすべてを公平に裁いてくださるとイエス様の力に信頼し、任せることが重要と示されます。
二つ目、24節の「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」というイエス様の言葉は、イエス様を信じ敬うことが神様を信じ敬うことになり、イエス様につながることが神様につながり、それは神様から祝福が豊かに与えられる鍵であることが言われています。神様から永遠の命を受ける道は、御子イエス様を救い主と信じて従ってゆくこと、拒絶することではないと言っているように聴こえてきます。
三つ目、25節、「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」とありますが、二通りの捉え方をしたいと思います。
まず、1)この世の罪に支配され、無意味なことに時間とお金と労力を注ぎ、生きる真の目的を見失って、魂が死んだような状態の人々にイエス・キリストという神の言葉が与えられている。このイエスの言葉を聞くものは罪から救われ、明確に生きる目的が与えられ、生きる者とされるということをイエス様は宣言されているという捉え方です。
そして、2)今生きてイエス様の言葉を直に、あるいは聖書を読んで聞いている人はその信仰によって救われ、イエス様の前に生きて死んで眠りについた人々については神様がその憐れみの中で取り扱ってくださることだから、あなたがたが心配するようなことではない。重要なのは、今あなたが神様に対して真実をもって生きているかがと自問すること。そして日々どのように生きるべきかは、イエス様の声・言葉に聞かなければ分からないとイエス様は宣告しているという捉え方です。
26節の「父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。」とありますが、神様に永遠の命があるように、イエス様にも永遠の命があるということです。また、神様はわたしたちに生きる命を与えてくださいましたように、イエス様はわたしたちを救い、罪と死から解放し、新しい命を与えてくださいました。21節の「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」という言葉がここで明らかになります。この救い主を信じる者に、イエス様が永遠の命を与えてくださるとの宣言がここにあります。
27節の「また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。」とありますが、これは22節と同じで、神様が持っておられる人を裁く力を地上に送るイエス様に託されたということでしょう。
28節の「驚いてはならない。時が来ると」とはイエス様の再臨と裁きの時が来ると、という意味です。その時には、28・29節にあるように、「墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」とイエス様はおっしゃいます。ユダヤ人たちにこうイエス様がおっしゃるのは、律法は人を諭し、御心に沿って生きるようにしてくれるものではあるが、人が人を裁くためのものではない、安息日であっても助けを必要としている人に寄り添い、いやしや救いを必要としている人のために生き続けるということの訴えでしょう。
30節に、「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」とありますが、イエス様の謙遜さ、神様の御心のままに生きる従順さ、安息日にも救いの手を差し伸べてくださるという愛が示されていると感じます。
