ヨハネ(2) まことの光とその証人ヨハネ

2025.9.10 ヨハネによる福音書1章5〜13節

ヨハネによる福音書1章に聴いています。前回は、1節から4節前半までの「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。」という部分を聴きました。

 

創世記1章に「初めに、神は天地を創造された。」という有名な言葉がありますが、創造主(父なる神、御子、聖霊)が天地万物を造られたように、罪に満ち満ちた世界、暗闇に覆われた混沌とした世に新しい創造を開始するために、神は「言」をこの地上に送られて、神様による新しい世界・世の創造の業が始まったと福音書の記者ヨハネは明記します。

 

神が天地万物を創造された時、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」と記録されています。創造主なる神の第一声は「光あれ」でありました。神の言は、「光あれ!」、これによってすべてが始まったのです。ヨハネは、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と記します。

 

この「言の内に命があった」という命ある言こそが神の御子イエス・キリストであり、「命は人間を照らす光であった」という光こそが救い主イエス・キリストであると伝えるのです。地球上の生物が生きるためと自然界がバランス良く流れるためには、光が必要不可欠です。光がなければ命はありません。ですから、わたしたちに命を与えるために、生かすために、神はイエス・キリストという世の光を与えてくださったのです。

 

イエス様は、ご自分のことを「光」と呼ばれます。8章12節では「わたしは世の光である。」と言われ、9章5節では「わたしは、世にいる間、世の光である。」と言われます。また12章35〜36節では、「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」と言われ、同じ12章46節では「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」と言っておられます。このイエス様の言葉からも、イエス様が神様の言であり、命をもたらす光であり、救い主であると分かります。

 

また、イエス様を救い主と信じる者は、8章12節後半で「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」とあったり、12章36節では「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」とイエス様を信じて従うように招かれるのです。そういう中でイエス・キリストが神様から遣わされた「言葉」であり、「光」であることを示す有名な言葉が詩編119編105節(p964)にあります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」という言葉です。このように喜び、感謝する者がいます。

 

しかしながら、1章5節後半に、「暗闇は光を理解しなかった。」と過去形で記されています。この「理解」の原語は「把握する」や「捕捉(捕まえる・捉える)」という意味がありますが、イエス様がこの世に来られ、この地を歩まれた時、当時の宗教指導者たち・権力者たちはイエス様を理解することなく、神の御心を把握することなく、イエス様を捕らえて十字架に架けて殺してしまったという意味合いでとって良い言葉です。

 

けれども、現代を生きるわたしたちに問われているのは、あなたはこの世の光であるイエス・キリストを信じて従うのか、それとも拒絶するのかということです。神様から遣わされたキリストは罪に満ちた暗闇の中で煌々と輝いているけれども、あなたはこの光を喜ぶか、それとも喜んで受けないかと問われているのだと思います。そういう中で、「信じる前にもっとイエス・キリストのことを知りたい。知った上で判断する」という考えを持つこともあるかと思います。聖書を読むことも素晴らしい手段ですが、他にも方法はあります。それは自分以上にイエス様のことを知っている人の証言に聞くということです。

 

ヨハネ1章6節から8節を読みたいと思いますが、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」とあります。

 

このヨハネという人物は、「バプテスマのヨハネ」です。19節から28節にも彼の事が記されていますので、今回は手短にお話ししますが、このバプテスマのヨハネも、イエス様同様に「神から遣わされた人」でした。彼の地上での任務は、「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」とあります。ヨハネはイエス様のことを証しする事が神様から託された任務であったわけです。「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」とありますとおり、ヨハネは救い主・メシアではなく、この光という救い主について人々に証しするために神様によって造られ、この地上を歩んだのです。

 

イエス様を救い主と信じる者の地上での任務は、バプテスマのヨハネと同じです。すなわち、イエス様が闇の中に彷徨うわたしたちを照らし、光のうちに入れるために神様の御許から来られた光・救い主であることを人々に証しをし、神様の愛を日々の生活の中で分かち合うことです。わたしたちは光ではなく、光について証しする者であり、その任務をわたしたちが忠実に行うことを神様とイエス様が期待されていること覚えたいと思います。

 

クリスチャンは、イエス・キリストという光を浴びて、光のうちに生かされている者でありますから、輝いていなければなりません。輝いていなければ、不自然なのです。光を受けて輝き続けることが、イエス様を信じて従う者の証明であるのです。しかし、それが難しいと感じる事があります。そのように感じるのは、わたしたちの心のどこかに自分の知恵や力に頼ろうとしている部分がまだあるからではないでしょうか。

 

さて、9節からまたイエス様について記されています。9節から11節を読みますと、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」とあります。イエス様は、神様から遣わされた「まことの光・救い主」、「この世のすべての人を照らす光、この世はイエスによって成った。」とヨハネは宣言します。しかし、「世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」、ほぼ完全に拒絶してしまったというのです。

 

しかし、ヨハネは次の12節でこう記します。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々」。ここにイエス様を信じる者たちが少なからずいたということが記されています。これは大きな慰めであり、喜びです。そして、そのような信仰者たちに、イエス様は「神の子となる資格を与えた。」とあります。

 

ここにイエス様が信じる者たちに神の子となる「資格」を「与えた」とあります。この「資格」という言葉は、特権、権利、力、権能とも訳せる言葉です。しかし、わたしたちのほとんどは、神の子という身分にされることは恐れ多いと感じるでしょうし、自分にはそんな資格はないと強く感じると思います。それはわたしたちがごく当たり前のように抱く感情だと思います。わたしたちは神様にずっと背を向けて生きて来た者であり、「罪ある者」です。神の子にされる資格も、権利もなければ、そうなる術も知り得ません。

 

しかし、神様はわたしたちを神の子としたいのです。神の子となる身分を与えたいのです。そのために神様はイエス様をこの地上にお遣わしになられ、イエス様はこの世に神の言、この世の光としてお生まれになられたのです。この救い主イエスが、神様とわたしたちを隔てていた「罪」という壁をすべて取り除き、わたしたちを罪から解放し、神様に再びつなげ、神様の子として永遠に生きる者とするために、わたしたちのすべての罪をその身に負って十字架に架かって死んでくださり、その罪の代価・代償を支払ってくださった。それを「贖い」と言います。ここにイエス様のわたしたちに対する愛があるのです。

 

そして、わたしたちを神の子とし、永遠の命を与えて生きさせるために、神様はこのイエス様を死から甦らせ、神の国への扉を開いてわたしたちを招いてくださり、今も招き続けてくださっているのです。ここに神様の愛と忍耐があるのです。

 

最後に13節を読みましょう。「この人々(つまりイエス様を救い主と信じる者たち)は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」とヨハネは記します。ほとんどの日本語訳聖書はこの13節の最後の部分を「神によって生まれた」と訳していますが、ギリシャ語の原文では「神の御心によって生まれた」となっています。すなわち、わたしたちすべての人間は、民族性や血筋や性別に関わらず、神様の御心、細やかな配慮と綿密な計画によって、神様の大きな愛によって創造され、平等に命が与えられ、神様の恵みに生かされているということです。

 

わたしたちが日々の営みの中でいつも心に抱くべき大切なことは、自分の力で「生きている」ではなくて、神様の愛の中で、恵みのうちに今日も「生かされている」ということです。また、神様に与えられているこの命を「どのように用いて生きるか」という神様への応答を常に考えながら生きることが大切です。どのように神様の御心、願いに沿って生きるかということですが、それは神を愛し、隣人を愛して生きるということに他なりません。今日の学びからであれば、神様の愛の素晴らしさを隣人に分かち合ってゆくこと、それが愛の言葉と行いをもってイエス様を証しするということであると思わされます。