2026.2.11 ヨハネによる福音書5章31〜47節
前回の学びでは、イエス様がどのような権威をお持ちであるかについて聴きましたが、その内容は難しいものでした。夜の祈祷会に出席されている方が聖書の学びをお聞きになられて短くコメントされ、「イエス様はここでご自分の位置付けをされたのですね」とおっしゃり、そういう捉え方もできるんだと驚いて、しっくりして、主に感謝をしました。
さて、今回の箇所は、大きく2つのテーマに分けられます。一つは「イエス・キリストは神の子であるのか。もしそうだとしたら、どのように証明するのか」ということがテーマと問いかけとなります。もう一つは「聖書はわたしたちに何を教えているのか」です。
イエス様は神の子であるのかという問いは、信仰上の大きな問いですが、今回はそれを誰が(何が)証明・証しするのかをイエス様は語られ、ご自分が神の子であると証しするのは次の4つであるとイエス様に対して殺意を抱くユダヤ人たちに対してお語りになります。
イエス様を神の子と証しする一つ目は、31節と32節にあります。「『もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。』」と言われます。ここでイエス様は「わたしが神の子であると証明されるのは、父なる神であり、その方の証しは真実です」と言っておられますが、おそらく、このイエス様の言葉を聞いたユダヤ人たちはカチンときた、怒りを覚えたと想像しますが、イエス様は淡々と「真実」を語られます。神様が自分と常に共におられ、味方であること以上に心強いことはありません。
二つ目の証しは、33節から35節です。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」とイエス様はおっしゃいます。「真理」とは、言うまでもなくイエス様のことです。また、バプテスマのヨハネは「真理について証しをした」とありますように、イエス様はここでヨハネのことをすべて過去形でお話しされています。すなわち、ヨハネはヘロデによって捕えられ、すでに殉教していたという事がうかがえます。「真理であるわたし(イエス様)について、生前のヨハネは忠実に証しをした」とイエス様はここで言っておられます。
しかし、イエス様はここで、「わたしは、人間による証しは受けない」という不可解な言葉を発しておられます。これはバプテスマのヨハネの証しやわたしたちの証しをイエス様は必要としないと言っておられるのでしょうか。イエス様がそのような愛のないことをおっしゃるとは考えにくいです。ここでイエス様がおっしゃっている真意は、たとえバプテスマのヨハネの証しが神の御心に適った真実な証しであっても、イエス様ご自身は人の言葉・証しのみで、ご自分が神の子であることを立証することはないと云うことを言っておられると考えられます。しかし、だからと言って、わたしたちがイエス様を救い主と告白し、証しすることが無意味であるとイエス様が言っておられる訳ではありません。イエス様は、「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」とおっしゃっています。
ここでイエス様は、「バプテスマのヨハネの人生は、『燃えて輝くともし火』のように、人々が救われるために悔い改めのバプテスマが必要であると民に宣べ伝える忠実な証し人であったし、自分の弟子たちに今後は『神の小羊』であるイエスに従いなさいとまで言われ、最終的にはヘロデに殺されることになってしまった。しかし、わたしは彼の証しの業を忘れることなく、今も喜んでいるし、彼の働きは救われたユダヤ人たちの中で今も喜びとなっている」とおっしゃっているのです。ですから、イエス様が救い主であり、神の子であると信じる者たち、主を証しする者たち、教会に対して、「あなたがたもヨハネのようにわたし証しし続けなさい。告白し続けなさい」と命じられ、励ましているのです。
イエス様は36節で、「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」と言われ、イエス様を神の子と証しする三つ目は、「父がわたしにお与えになった業、わたしが行っている業」が、父なる神がわたしを救い主としてこの地上にお遣わしになった証しであると言っておられます。
この「業」とは、水をぶどう酒に変えたり、病をいやしたり、湖の嵐を沈めたり、人から悪霊を追い出すような「しるし・奇跡」を指しています。イエス様がなさっているしるし・奇跡は、神様が共におられなければ絶対にできないことです。主の「御業・しるし」自らがイエス様を神の子と証ししているとここでイエス様はおっしゃっています。
イエス様が神の子であることを証明する四つ目は37節から38節にあります。「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。」とありますように、イエス様を神の子と証しするのは「神のお声・お言葉」です。「聖書」といって良いでしょう。この場合、聖書は旧約聖書を指しています。イエス様はここで、「あなたがたは神の言葉を聞いているようでまったく聞いていないので、神の言葉として地上に派遣された方(イエス様)をあなたがたは信じることができない」とおっしゃっています。
さて、続く39節以下は、二つ目のテーマ、「聖書はわたしたちに何を教えているのか」という内容です。ところが、イエス様は、39節で、その答えをはっきりさせています。ユダヤ人たち(律法学者や聖書の専門家)に対して、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」とストレートに言います。「あなたがたは、『どのようにしたら永遠の命を得られるか』と聖書を教科書、あるいはHow to本のように読みあさっているが、そのような読み方は根本的に間違っている。聖書は、教科書やHow to本ではなく、救いのために神が遣わされるメシア・救い主はどのような方であり、誰であるか、すなわちイエス様がメシアであり、神の子であることを記し、このメシアを通して救いが与えられ、信仰が与えられ、神様の憐れみによって永遠の命へと招かれるということが記されている」とイエス様はおっしゃるのです。
「救いは、神の子イエス・キリストにある。」と聖書は教えますが、40節、「それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」と言われます。頑なにイエス様を信じない、自ら進んでイエス様に近づこうとするどころか、積極的に拒絶し続けると言われているようです。それでは何故信じないのか、何故拒絶するのかの理由を知る必要があります。その理由をイエス様は42節で、「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」と言われます。
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。」と言うのは、自分のためだけに聖書を読んでいる。すなわち自分だけを愛していて、愛の源であり、永遠の命をくださる神様を愛していない、御心を知ろうと読んでいない。もし神様を愛しながら聖書を読み、御言葉の真意を研究すれば、目の前にいるイエスが神の子であり、メシアであることが分かるはずである。あなたがたは神を愛しているのではなく、自分自身だけを愛しているのだ。本当に永遠の命を求めているのであれば、目の前にいるメシアを愛するはずだとイエス様はおっしゃっています。
しかし、43節と44節、イエス様は、「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」と言われます。「あなたがたは自分を愛し、人から誉れを得ることだけを考えている。」と厳しく間違いを指摘します。
45節から47節にはモーセの名が出てきます。ここでの「モーセ」とはモーセ五書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指し、律法を指しています。イエス様は、「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」と言われます。
イエス様がここでおっしゃっているのは、「モーセ五書をはじめ旧約聖書が教えているのは、すべてキリストのこと、救いへの道、救いへの約束であるから、神様を愛するように聖書を読めば、神様の愛をしっかり理解することができ、イエス・キリストというメシア・救い主が与えられる約束があること、このキリストを通して救いへの道が備えられていること、この救い主を通して永遠の命が与えられると言う信仰と希望が与えられる」ということです。イエス様は、「わたしが語る神の言葉を聞いて、信じて、父なる神から差し出される愛を受け取りなさい」と招いてくださいます。
