2026.2.18 ヨハネによる福音書6章1節〜15節
今日から今年の受難節・レントに入りました。これから6週間、4月4日まで続きます。この受難節は、わたしたち罪人の代わりとして神様の裁きを受け、罪の代価をすべて完全に支払うために十字架に架けられるまでのイエス様の歩みを辿りながら過ごす期間です。
ヨハネによる福音書の学びも今回から6章に入りますが、16節から21節以外は、「命のパンとその与え手」という主題があります。わたしたちが生きるために必要なパンという糧を与えてくださるのがイエス様であり、また同時に、イエス様が「命のパン」そのものであることが主題となっています。そのことを念頭に読み進めてゆきたいと思います。
さて今回の6章1節から15節に記録されている「五千人の給食」の出来事は、4つの福音書すべてに共通して記録されているイエス様のなされたしるし・奇跡ですので、その重要さが分かります。しかし、何がそんなに重要であるのか。それは、わたしたちの肉体的飢えだけでなく、心の飢え、霊的飢えを完全に満たしてくださるのがイエス・キリストという救い主であり、この救い主を信じることが「生きる」上で重要であるからです。たとえ食べ物で食欲は満たされても、イエス様なしに心が満たされることはないのです。
さて、5章の舞台は南のエルサレムでしたが、1節に「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。」とありますように、6章の舞台は再度、北のガリラヤとなります。2節前半に「大勢の群衆が後を追った。」とありますが、この群衆はエルサレムからイエス様を追ってきた人々であったのか、それともガリラヤ地方から集まった群衆であるのか判断できませんが、いずれにしてもユダヤ人全般に対して、ユダヤ人の群衆と理解するのが良いと思われます。
この所で大切なのは、大勢の群衆がイエス様の後を追ったのは、イエス様の「病人たちになさったしるしを(彼らが)見たからである。」とあります。この「しるし」は複数形になっています。エルサレムやガリラヤ各地でイエス様が人々を病から解放した奇跡の業を見た証人たちが、さらに多くの奇跡を見てみたいと期待しつつ追ってきたと推測します。
そのような群衆が自分のもとへ押し寄せてくる足音が聞こえたのかもしれませんが、3節で、「イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。」とあります。「山で弟子たちと一緒に座った」というのは、イエス様はこれから重要なことを弟子たちに教えようとしているということです。イエス様はここで弟子教育・訓練を始めるのです。どのような訓練でしょうか。どのような状況下でも、目の前におられるイエス様に信頼してゆく、拠り所としてゆき、自分の考えやこの世のものに頼らないという教育・訓練です。
しかし、4節に、突如、「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。」とヨハネは記します。この過越の祭りでは、イスラエルの民が神様の力強い御手によってエジプトの奴隷生活から解放されてカナンの約束の地へ向かっていく「出エジプト」の救いを家族単位で喜び祝います。このエジプト脱出の時、神様の命令に従って屠った小羊の血を家の入り口の二本の柱と鴨居に塗った家だけを神様が過ぎ越されて災いを免れ、小羊の血を塗らなかった家の初子を神様が撃たれたという災いがありました(詳細は、出エジプト記11章12章を参照)。神様の言葉に聞き従った人々の命は守られ、守らなかった人々は災いに嘆き悲しむことになりました。
では、そのような神様の救いの御業を覚える過越祭が近づいたとヨハネは何故わざわざここで記すのでしょうか。その理由は、イエス様ご自身がわたしたちすべての人の罪の代価を支払う小羊としてこの世に来られ、その血と命を与えてくださったということを覚らせるためです。これから記されているイエス様がパンを裂いて、そのパンを人々に分け与えるという行為は、神の小羊であるイエス様がわたしたちを神様の裁きから救い出すため、その命を十字架上で与えてくださったことと関連づけようとしているからなのです。神様とイエス様のなさる事に一切の無駄はなく、すべてに意味と目的があるのです。
5節に、「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見た」とあります。大勢の群衆とは具体的な数字で言うと、10節にありますように、男性だけで5千人です。ユダヤで人口調査をするとき、男性の数だけ数えたそうですが、女性や子どもたちを含めれば、3倍の1万五千人、4倍だと軽く2万人を超えるほどの数です。横浜みなとみらいに「Kアリーナ横浜」と言う世界最大級の音楽特化型アリーナがありますが、その集客数は2万人ですから、相当な数であることに間違いありません。
また、イエス様はその群衆に何をご覧になられたのかということですが、それは「飢え」です。先ほども申しました、肉体の飢えと霊的飢えですが、イエス様は肉体的飢えに着目し、弟子のフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねられます。ここでは、「どこで」が鍵となります。イエス様は、フィリポに、「この人たちの肉体的な飢えを満たすためにはどうしたら良いか」、「どこから調達したら良いか」と尋ねるのです。続く6節には、イエス様が「こう言ったのはフィリポを試みるためであった」とありますが、試みるとは弟子たちへの挑戦、弟子訓練という意味で、弟子はこのような時、最初に何を考えるべきかを主イエス様は教えようとされます。
イエス様はどこで、どこから食べ物を調達したら良いかと尋ねるのですが、7節に、「フィリポは、『めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた。」とあります。フィリポは現実主義の強い人であったようで、この課題をまず金銭的に捉え、すぐに頭の中で計算を始めます。1デナリオンは労働者の一日分の労賃です。一日約5千円で計算すれば2百デナリオンは100万円です。1万円で計算すれば200万円ほどの金額になりますが、200万円で2万人以上の人に食べ物を供給するのは現実的に不可能だとフィリポはイエス様に答えます。そのような金額をもってしても、わたしたちには目の前の群衆の飢えを満たすことはできないとイエス様に答えます。
そうしますと、8節9節、「弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』」と言うのです。アンデレは、ここに僅かなものですがこれだけの物がありますとイエス様に伝えます。彼の答えは、大麦パン5つと魚2匹ですが、「ここに」と言って、イエス様の「どこで、どこから」の質問に答えています。たとえ僅かであっても、「ここに」ある物、手にある物をイエス様の所へまず持ってくることが大切であることが教えられています。
さて、弟子たちの答えの焦点がだいぶぐっと絞られてはきましたが、まだ答えは正確ではありません。これが弟子たちの、そしてわたしたちの考えつく知恵や配慮の限界なのでしょう。この世の物や力に頼るという限界です。しかし、イエス様は「御自分では何をしようとしているか知っておられたので」、10節で、イエス様は弟子たちに「人々を座らせなさい」とお命じになります。「そこには草がたくさん生えていた」とありますが、光景としては、詩編23編2節の「主はわたしを青草の原に休ませ、・・・、魂を生き返らせてくださる」という言葉が浮かびます。
11節、「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」とあります。神様の恵みに感謝し、食物の祝福を祈ってから、イエス様は弟子たちの手でパンと魚を群衆に分け与えられます。イエス様ご自身が「どこから、どこで」というイエス様の問いかけの答えであることを弟子たちに教え、何万人という人々すべてにパンと魚を欲しいだけ分け与えるのです。「欲しいだけ」とは、大盤振る舞いのように聞こえますが、どのような時と場合と人数であっても、すべての人の肉と霊の必要を満たし尽くしてくださるのがイエス・キリストという救い主であることをヨハネはここで伝えようとしています。
12節と13節に、「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。」とあります。イエス様は、「少しも無駄にならないように残ったものを集めなさい」と弟子たちに命じますが、自分(たち)は十分満たされたから、もうそれで良い、満足したと言って、残された主の恵みをそのまま放置して無駄にしてはならず、その恵みを必要としている人々に分かち合うことがイエス様の願いであるように聞こえてきます。パン屑は神様の恵みなのです。
残ったものを集めると「残ったパンの屑は12籠いっぱいになった」と記録されています。12という数字は、イスラエル12部族を象徴していますが、イエス様を救い主・メシアと信じる者たちが神様の愛と恵みによって新しいイスラエル、神の民とされることを象徴していると捉えることができます。その中には、わたしたち異邦人が恵みに与るものとされていると捉えることもできると思います。パン屑を受けるだけでも、わたしたちは救いに与ることができるのです。神様の愛とわたしたちを救う力がパン屑にもあるのです。
最後に、14節と15節、「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」とあります。イスラエルの群衆は、イエス様のその驚くべき奇跡の業を見て、イエス様をローマ帝国に抵抗する王・メシアとして担ぎ出そうとしたのですが、イエス様が山に退かれました。人々の自分に対する政治的・軍事的な王としての期待を退けたという意味があります。イエス様は、わたしたちに命のパン、命の糧を与えるために来られた救い主であるからです。
