2026.2.25 ヨハネによる福音書6章16〜21節
今回の学びは、前回の学びの中で話しそびれた二つの事を分かち合うことから始めたいと思います。前回は、イエス様が弟子たちを人に仕える者として訓練する中で、男だけでも五千人、女性や子どもを含めると2万人ほどの群衆に大麦パン5つと魚2匹を分け与えて、彼らが満ち足りるまで肉的な必要を満たされたという奇跡の業に聴きました。その中で、ヨハネは「過越の祭」が近づいていたという一見関係のないような言葉を4節で付け加えていることをお話ししましたが、実は関係は大有りで、そのことを切り離しては、ここでイエス様が教えようとしていることを間違って捉えてしまうのです。
イエス様の2万人への給食の奇跡は、過越の祭と大いに関係がある。それは、イスラエルの民がエジプトから救い出されて荒野を旅している時に食糧難となり、その食糧難から民を守るために神様は朝ごとに「マナ」という食べ物を民に与え、夕べには「うずら」を食べ物として与えて肉体的な飢えから守ってくださったという奇跡が出エジプト記16章に記されています。人智を遥かに超えた神様の救いの業(旧約の時代の奇跡)が、新約の時代において、イエス様によって同じ事がなされたということがここに記されています。
子どもが持っていた大麦パン5つと2匹の魚をアンデレがイエス様のもとへ持って来ましたが、2万を超える群衆をそんな僅かな食べ物で養えるはずがないと考える人たちもいます。そのような人たちは、子どもが弁当を差し出したのを見た大人たちが恥ずかしくなって自分の弁当を次々と出し始め、何も準備してこなかった人たちと分かち合ったと解釈をする人たちがいます。群衆のほとんどはみんな弁当を持っていて、それを各自が食べたという合理的解釈、持っていない人と分かち合ったのだろうという解釈をしようとします。食べ物を分かち合う心は確かに素晴らしいし、共に生きてゆく上での理想的な形です。
しかし、各自が自分と家族だけの弁当を持って来ていたら、あるいはその弁当を持っていない人たちに分かち合うと、みんなが満腹することはないと思います。また、パン屑が12籠も残るはずはありません。また、何故12籠もパン屑が残り、それを集めなさいとイエス様が弟子たちにお命じになられたのかという理由も分からなくなります。ですから、自分たちの弁当を食べて満足した、それを分かち合ったという解釈は違うと思います。
イエス様には、大麦パン5つと2匹の魚だけで2万人を養う力があったのです。その残ったもので、さらに大勢の人々に食べ物を与え、その命を祝福する力があり、その対象はユダヤ人のみならず、異邦人に及ぶ「福音」と理解し、そう素直に信じることが重要だと思います。無から有を生み出し、祝福をもって民に命の糧を惜しみなく与えてくださる神様の御子イエス・キリストですから、パン5つと魚2匹だけで民を養うことはイエス様には可能であり、充分過ぎるのです。イエス様にできないことは何一つなく、わたしたちが限られた考えや知識、期待だけでイエス様の御力と権威に制限を設けてはならないのです。
もう一つ言いそびれた事、それは15節にある群衆たちがイエス様を自分たちの王として担ぎ出そうとした時に、イエス様は「ひとりでまた山に退かれた」という部分です。わたしは、前回の学びを終えるにあたり、「イスラエルの群衆は、イエス様のその驚くべき奇跡の業を見て、イエス様をローマ帝国に抵抗する王・メシアとして担ぎ出そうとしたのですが、イエス様は山に退かれました。人々の自分に対する政治的・軍事的な王としての期待を退けたという意味があります。イエス様は、わたしたちに命のパン、命の糧を与えるために来られた救い主であるからです。」と締めくくってしまいましたが、イエス様はなぜ山に退かれたのかという理由を深掘りしませんでした。
この短い節で興味深いことは、イエス様は、「ひとりで」、「また」、「山に退かれた」という三つのことです。「また」ということは「何度も」ということです。そして「ひとり」で、山に登られるのです。山というのは、神様の臨在がある所です。モーセの場合、ホレブ山で神様と出逢い、召命を受け、神の言葉を聞いた場所であり、シナイ山でイスラエルのために戒めを受けた場所です。同じように、イエス様は山へ何度も足を運ばれ、そこで父なる神様に祈り、神様の御心を聞き、確認するのです。神様の御心・言葉を聞くとは、神様に集中することであり、自分の使命をしっかり知ることです。
イエス様は、2万人近い人々の食をお一人で満たされ、その超越した力を示されました。その奇跡の業に対する人々の驚嘆(感嘆)、称賛が大きな期待・希望となり、イエス様を自分たちの王として担ぎ出そうという動きになりました。彼ら彼女らが期待する王とは、長年続くローマ帝国の支配から解放をもたらす政治的・軍事的指導者です。しかし、イエス様はそのような期待から離れられ、お一人で山に退かれました。ご自分の心を神様に向けます。ご自分の使命に再フォーカスするためです。イエス様は、ユダヤ人だけでなく、すべての人をとその縄目から救い出すために、来られたからです。
人というのは、ほとんどの場合、人から認められたり、称賛されたりすると、気持ちに高ぶりが生じ、つい調子に乗ってしまい、本当の自分を見失ってしまいます。自分には力があるかのように思い込んでしまい、傲慢になってしまいます。イエス様が群衆の称賛や期待に心が揺れたということは考えられませんが、わたしたちは人からの良い評価や称賛、感謝や大きな期待を受けると心が揺れたり、ぶれたりします。神様から心が離れるということです。傲慢になってしまう。自分を大きくして、神様を小さくしてしまうのです。
ですから、そのようなことが起こらないように、自分の心を神様に修正していただくためにも、主の山にひとりで何度も登ってゆく必要がわたしたちにあります。ですから、もし人から称賛を受けた時は、そのような時こそ、神様の御前に出て、神様が自分に求めておられる御心は何であるのか、自分の使命は何であるかを確認する必要があるでしょう。それが、神様の御前に謙って生きることであり、人に対して謙遜に生きられる方法です。
それでは登るべき現代の「山」とは、どこでしょうか。それは教会でしょう。教会へ来て、神様に礼拝をおささげし、祈り、御言葉に聴く。それによって慰められ、勇気づけられて、それぞれの持ち場へと帰って、そこで誠実に生きてゆこうとする。自分の力だけでは無理なので、聖霊に助けていただいて日々を歩む。そしてまた7日毎に教会に戻って来て、また礼拝の中で神様の臨在に触れ、平安を受け、希望をいただいてゆく。そういう繰り返しが神様の願われているわたしたちの信仰生活、教会生活ではないでしょうか。
さて、それでは今回の16節から21節に聴いて行きましょう。ここはイエス様が湖の上を歩くという、これまた奇跡的なことをなさる箇所です。興味深いのは、マタイ、マルコ、そしてヨハネ福音書が共通して、イエス様の五千人の給食と湖の上を歩くイエス様の箇所を連続して記している点です。つまり、これも「過越祭」に関連しているということを示していると考えられます。これまでの神学の歴史の中で、大勢の神学者たちは、この湖の上を歩くイエス様は、出エジプト記14章にある出来事と関連していると考えています。すなわち、エジプトを去ったイスラエルの民を捕らえようとエジプト軍が追いかけてくる恐怖に震える中で、主なる神様が目の前の海の流れを堰き止めて道を備え、その乾いた所を道として与えて民に行かせて約束の地へと進ませたことと関係があると考えています。ですので、そのようなことを念頭におきながら、読み進めて行きたいと思います。
まず16節と17節に、「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。」とあります。弟子たちは、大勢の人々にパンや魚を配布したり、残ったパンを回収する作業の中、もちろん群衆たちも手伝ったと思いますが、それでも重労働で疲れたと思います。その疲れをいやすため、休息を得るために彼らは小さな舟に乗って向こう岸に渡ろうとしますが、突然「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。」と18節にあります。
ガリラヤ湖は海面下200メートルの所にあり、周囲が山で囲まれ、地形的にはすり鉢状になっているので、突風が吹くと湖は嵐のように大荒れになり、元漁師であってもどうすることができず、ただ湖の上を漂うしか方法はなかったのです。しかも「既に暗くなって」おり、イエスは彼らと共におられなかったのです。わたしたちの人生の中でも、闇の中で大きく揺さぶられ、不安を抱くことがあります。死の恐怖さえ感じることもあるでしょう。舟は「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出した」所、離れた場所から4・5キロしか離れていない湖の只中で、二進も三進も行かない、八方塞がりの状況です。出エジプトの時も同じです。エジプトを脱出したイスラエルの民は、目の前に海が立ちはだかり、そして背後から追ってくるエジプト軍の恐怖が迫ってきますが、そのような極限の中で、神様は海を開いて救いの道を備えられ、民にその道を歩みなさいと導くのです。
闇の中で大きな嵐の中に置かれた弟子たちは不安に苛まれたでしょう。そのような時に、「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られる」のです。弟子たちは闇の中で誰かが湖の上を歩いて自分たちの方向へ向かってくるので、「幽霊」だと思って大声で叫んで恐れを表したとマタイとマルコ福音書には記されています。しかし、20節、「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』」と弟子たちに向かって言われるのです。この「わたしだ」というのは、ギリシャ語で「エゴーエイミー」という言葉で、神様がモーセにホレブ山で「わたしはある。わたしはあるというもの者だ」とご自分を言い表された名でもあります。同じことをイエス様は嵐の中で苦しんでいる弟子たちに「わたしだ」と言われ、「恐れることはない」、「わたしを信じなさい」と言われるのです。続く21節、「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」とあります。イエス様を救い主と心に受け、信じる時にイエス様が救いの道となってくださる。そのことを、湖を歩くイエス様は、わたしたちに教えておられるのです。
