ヨハネ(3) 神の恵みと真理はイエスを通して

2025.9.17  ヨハネによる福音書1章14節〜18節

今回の聖書箇所は、1章の14節から18節ですが、14節前半の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」というヨハネの言葉を集中的に聴いてゆきたいと願っています。何故ならば、ヨハネはここで、わたしたち人間の常識ではあり得ない大きな事柄を、不可能と考えることを語っているからです。人間の常識を根底から崩すことの出来事です。

 

「言は肉となった」とは、言い換えれば、「神は人となった」ということになります。神が人となって、わたしたちの間に宿られた・誕生された! 神が人になることなど、あり得ない事です。人間の常識では、あり得ない事です。わたしたち人間の世界では、わたしたち人間が神になりたいという欲望に駆られるのです。

 

松本敏之牧師の著書「ヨハネ福音書を読もう(上)」に以下のように記されていました。創世記3章4〜6節で、「アダムとエバが蛇にそそのかされて、神様が食べてはならないと言われた木の実を食べてしまったのは、『神のようになりたい』と思ったからでした。」、また創世記11章4節で、「天にまで届くバベルの塔を建てようとしたのも、『神のようになりたい』と思ったからではないでしょうか。しかし、それは不信仰であり、神はそのような人間の思いを打ち砕かれました。」とありました。「神のようになりたい」という方がどれだけ居られるか分かりませんが、自分が世界の中心で、自分が神と信じて、神のように生きている人は多いと思います。

 

少し世俗的なお話をさせていただきますが、わたしたちの生きる世界では、人が被造物、つまり神によって創造されたものを神として祀り、拝むという事がほとんどです。また、偉業を成し遂げた人たちを「神」と位置付けて崇めることがあります。

 

例えば、わたしの知る限りでは、学問の神様・菅原道真、漫画の神様・手塚治虫、経営の神様・松下幸之助、小説の神様・志賀直哉、投資の神様ウォーレン・バフェット、フレンチの神様ジョエル・ロブション、野球の神様ベーブ・ルース、サッカーの神様ペレ、バスケの神様マイケル・ジョーダン、打撃の神様・川上哲治、レゲエの神様ボブ・マーリーという具合です。しかし、皆さんはお亡くなりになられました。真の神ではないからです。

 

女性の場合は「神」としてではなく、例えば、女性教育の母・津田梅子、近代看護教育の母フローレンス・ナイチンゲールというように、教育や福祉や環境問題の分野で功績を残された方々を「〇〇の母」と呼ぶことが多いです。皆さん、社会の中で大きな影響を与えられましたが、例外なくお亡くなりになられました。神ではないからです。今日を生かされているわたしたちに大切なのは、周囲の人々・隣人に少しでも、何かしらの良い影響を与えることではないでしょうか。それを神様はわたしたちに期待されているのです。

 

さて、話をもとに戻したいと思いますが、神が人となって、わたしたちの間に宿られた・誕生された!という時、まず「それはあり得ない」とわたしたち人間は考えるわけです。しかし、少しでも興味のある人は、いったい誰が、いつ、どうやって、どこでと問うわけです。しかし、ここでもっとも重要な問いは、なぜ、何のためにという問いです。そういう事柄が一つ一つ論理的に理解できないと信じられないと一般的に考えるわけですが、それが常識的な捉え方だと思います。

 

そういうわたしたちのために、「神は人となって、わたしたちの間に歩まれた」という神の言葉、真実を伝えるために、マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネ福音書が記録され、キリスト教会の歴史の中で、新約聖書として編集されていって、それを今日わたしたちは読んでいるわけです。自分で聖書を読んで、自分で判断しなさいと招かれていると言っても良いかもしれません。

 

イエス・キリストを「神は人となった」というお方として信じる者たち、キリスト者たちは、神の独り子イエス様が、約2025年前に、ユダヤのベツレヘムという町で、処女マリアからお生まれになられたとマタイとルカ福音書に記されている記録を真実として信じています。しかし、イエス様はなぜ、何のために、お生まれになられたのかという事を知るがわたしたちにとって重要なことであるわけで、それが分からないと信じるか、信じないか、判断のしようもないと考えるわけです。

 

しなしながら、その答えがヨハネ福音書3章16節17節に明確に要約されています。すなわち、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とあります。

 

それでは、「神は、どのようにしてその独り子をお与えになったのか」という問いが投げかけられますが、その答えはイエス様の受難、十字架での贖いの死です。イエス様は、わたしたちが神様に対して犯してきたすべての罪をすべて肩代わりしてくださり、その命を十字架上で捨てることによってわたしたち本来支払うべき罪の代償を払ってくださり、それによってわたしたちへの神様の愛を示してくださいました。

 

このイエス様をわたしの「救い主」と信じ、このお方に従って生きたいと願う人が神様の愛によって救われ、その信仰によって義とされ、永遠の命が与えられると聖書にはっきり記されており、わたしたちは信じることへと招かれているのです。義とされるとは、神様の目に良しとされることです。イエス様がご自分の命を捨てるというのは、わたしたちにその命を与えてくださるという一方的な愛であり、常識では把握できないほどの驚くべきことであり、それをわたしたちは感謝をもって「恵み」と呼ぶのです。

 

さて、これから分かち合うことも松本牧師の著書に記されていたことですが、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という大切なことをわかりやすく説明されているので、みなさんに分かち合いたいと思います。神が人となられたということは、「永遠のお方が時間の中に入ってこられたということ、どんな場所にも限定されないお方が、あえてある場所の中に入ってこられたということ、無限のお方が有限の世界に入ってこられたということです。神が人となるとは、そういうことなのです」とありました。

 

神という存在は、わたしたちが当然だと捉えている「時間・Time」、「空間・Space」、「物質・Matter」にまったく影響されない、それらを超越された存在です。神は初め(アルファ)であり、終わり(オメガ)です。神様には時間的な制約がありません。神は目には見えないほどの大きな存在でありますから、限られた空間の中に収まるお方ではありません。つまり、空間という制約がないのです。また、神は無限な「神」でありますから、この地上に存在する何かに制限されるようなちっぽけな存在であるはずはないのです。

 

しかし、わたしたち人間・人類は、神という存在をそういう人間の限られた知識という枠組みの中に無理やり押し込もうとするのです。しかし、そのような人間の限られた知恵の枠組みの中に収まるようなお方が神であるはずはないのです。わたしたちの人智という枠組みの中に入れられないほど、その大きさにおいても、知識においても、力においても、わたしたちの叡智を遥かに超越されたお方であるからこそ、「神」なのです。

 

わたしたちへの良き知らせ、福音というのは、そのような時間と空間と物質的なものを越えて、神様がわたしたちのうちに、間に宿ってくださった、つまり人として共に生きてくださった。その理由についてすでにお話ししましたが、わたしたちが覚えなければならない2つの重要なこと、それは1)「神」でなければ、わたしたちを罪と死という滅びから救えないということ、また2)「人」でなければ、十字架に架けられて、その命を捨てて、すべての罪をすべて贖うことはできない、ということです。ですから、無限の神・言が有限のイエスという救い主としてこの地上に誕生・神によって遣わされ、神の愛を教えてくださり、その大きな愛を十字架上で示してくださった。その愛を受け取りなさいという招きがあるという良き知らせが福音と呼ばれているのです。

 

14節後半に、「栄光」という言葉があり、人は自分なりの「栄光・輝かしい誉れ」を求めます。しかし、「栄光」は本来、神にのみに帰せられるものです。被造物にではなく、創造主にある神にあるべきなのです。そしてヨハネ福音書は、イエス・キリストが神であり、この世の光であると宣言し続けるのです。「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とあります。イエス様に神の栄光がある、それはつまり、イエス様は神であるということを明確に示すのです。

 

イエス様の栄光、それは十字架に上げられたイエス様に見ることができます。神の独り子がわたしたち罪人のために命を捨てられるという中で、神様の愛と恵みが表され、真理が明らかにされるのです。真理とは、わたしたちがイエス・キリストを救い主と信じることによって救われ、神の子とされること、それが神様の究極的な願い・御心であり、ご計画であり、イエス様をこの地上に遣わされた目的であるという真実を知ることです。

 

15節のバプテスマのヨハネの証言は、イエス・キリストこそ救い主であることを示します。神様の愛を受けるにふさわしくないわたしたちが神様に愛されている。16節にあるように、「わたしたちは皆、このイエス様の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更なる恵みを日々受け」て生かされているのです。18節、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神(イエス)、この方が神を示されたのである。」とあるとおりなのです。神を見たいという人は、イエス様に目を注げば良いのです。