2025.10.1 ヨハネによる福音書1章29節〜34節
今回は、前回の学びでも触れました、「知る」という言葉についてまずお話ししてゆきたいと思います。わたしが参考書していつも用いて読んでいます「新共同訳 新約聖書註解Ⅰ」(日本基督教団出版局)によりますと、ヨハネによる福音書における「知る」という動詞の用例は4つあるとありました。以下、注解書(p401)から引用いたします。
まず第一の用例は、1)神とイエスとの交わりを示すものとして用いられているとのことです。神様はイエス様を知っており、イエス様も神様を知っている(7:29,10:15a)、またイエス様ご自身もご自分の使命や将来を知っている(6:6,13:1)という例があります。
第二の用例は、2)イエスと弟子たちとの交わりを示すものとして用いられています。イエス様は弟子たちを知っている(1:48,10:27)、しかし弟子たちはイエス様を知らなかった(12:16,13:7a)が、やがて知る時が来る(6:69,13:7b,16:30a)。弟子たちが知る時、それはイエス様と神様との関係を知る時(14:7a,20)であり、イエス様を知ることは神様を知ること(14:7b)であるのです。
第三は、3)イエスと敵対者との関係について用いられています。つまり、敵対者とはユダヤ人をはじめ、「この世」に属する者との関係です。イエス様は自分の敵を知っている(2:25,6:64)。またこの人々が神様とイエス様を知るように願っているイエス様がおられます(7:17,8:19c,17:23)。面白いのは、彼らはイエス様を知っていると言い張る(3:2,6:42, 7:27,9:24)のですが、本当は知らない(8:19,55,15:21)。従って神様をも知らない。
第四の用例は、4)イエスの弟子たちと「この世」の関係を示す時に用いられるとのことです。15章18節には、「この世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先に私を憎んだことを、知っておくがよい」とイエス様は弟子たちに言いました。
これも同じ注解書からの引用になりますが、「『知る』という言葉は、単なる知的理解を示すだけでなく、全人格的な交わり、神の愛(agape)と重なることが分かる。興味深いことに、イエスの弟子たちがイエスを知るようになったのは真理の霊を知ることによってである(14:17b)」。また、「『知る』という語は「信じる」と同義ないしはもっと深い意味を含んでいる点にヨハネの特色がある」とありました。わたしたちは、このヨハネによる福音書を最初から最後まで読み進めてゆく中で、イエス様が救い主であることを深く知り、その救い主を送ってくださった神様の愛をより深く知りたいと願います。
それでは本題に入ってゆきましょう。今回は、ヨハネによる福音書1章29節から34節に聴いてゆきますが、まず29節に「翌日、(バプテスマの)ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」とありますが、注目すべきは、イエス様のほうからヨハネに向かってゆき、出逢ってゆかれるという点です。
キリストの福音の素晴らしい点は、神様が主導権(イニシアティブ)を取り、神様のほうからわたしたちに出逢ってくださることです。罪という暗闇の中で彷徨っているわたしたちの只中にイエス様が世の光として来てくださり、自らわたしたちを見つけ出してくださり、そして光の内へと招き入れてくださる、これが神様の愛の現れであるイエス・キリストの福音です。世界の他の宗教は、疲れた人が「神」を探し求め、救いを求めてゆくことが多いですが、聖書の神は違い、神様から動いて出逢ってくださり、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と招かれるのです。
さて、次に「神の小羊」という言葉に注目したいと思いますが、聖書には「小羊」という言葉が合計106回出てきます。旧約聖書には71回、新約聖書には35回用いられていますが、モーセ五書と呼ばれている旧約聖書の最初の5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記ですが、そのうちの最初の4つの書物に集中して出てきます。一番多く用いられているのは民数記の22回で、そのうちの15回は「焼き尽くす献げ物としての小羊」、「贖罪の献げ物としての小羊」、「和解の献げ物として一歳の雄の小羊」というように用いられています。つまり、「小羊」というのは、神様への献げ物として用いられ、小羊の犠牲は神様との和解・平和を得るための「ささげもの」であったのです。
しかし、この「小羊」という表現の起源は、出エジプト記にあります。エジプトで奴隷とされていたユダヤ人たちをそのくびきから解放するために神様は天使を用いてエジプトの地を打たれるのですが、その裁きから逃れるためにユダヤ人たちは傷のない小羊を屠り、その血を家の扉・かもいに塗りなさいと命じられます。小羊の血が扉に塗られた家を天使が過ぎ越し、塗っていないエジプト人の家の長子がすべて打たれて死にます。
この「過ぎ越す」というヘブル語の動詞は、同時に「守る」という意味があります。すなわち、神様の裁きからわたしたちを神様の愛が守ってくださると受け止めることができます。神様は正しいお方・義なる神であられるので、罪をそのままにしておかれません。罪を犯す者を裁かれるのです。しかし、神様は同時に愛の神であられますので、わたしたちを救うために、イエス・キリストをこの地上に遣わしてくださり、わたしたちを神様の裁きから守ってくださるのです。ここで重要なのは、神様の愛と憐れみによって罪赦される者が悔い改めて神様に立ち帰るという自発的な行動です。
イスラエルにとって、神様が自分たちを過ぎ越され、守られ、解放と信仰の自由を与えてくださった救いの出来事を覚えることが命じられ、喜び感謝するようになります。そして神様の救いの業を後世に受け継がせるために、過ぎ越しの祭りを祝います。この神様の過ぎ越しに不可欠であったのが、小羊の犠牲です。つまり、イスラエルに救いと解放と自由を与えるために小羊が屠られ、その血が流された、犠牲となったのです。
民数記28章を読みますと、その小羊の献げ物は朝ごとに、夕ごとに献げられていた事が分かります。家庭ごとに献げられていました。イスラエルの歴史を考える中で、おびただしい数の小羊がこれまでずっと犠牲になって神殿で献げられてきたのです。しかし、そのような時代はイエス様がこの世に来てくださり、小羊として十字架で自らをささげてくださり、わたしたちの罪を贖うために死んでくださったことによって終わりました。神様がこの救い主イエス・キリストをわたしたちにお与えくださった。元々は神様からですから、バプテスマのヨハネはイエス様を「神の小羊」と呼んでいるのです。
ヨハネは、イエス様を見て、「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言います。誰にそう言ったかというと自分の弟子たちに対してです。ヨハネは、小羊・イエス様の地上での使命を「世の罪を取り除く」ことと明言しています。繰り返しになりますが、イエス・キリストは、この世に生きるわたしたち、すべての人たちの罪の代価を支払うために、わたしたちの中から罪をすべて取り除くために神様によって遣わされた救い主、この罪に満ち満ちた世界に癒しと解放と自由という救いを与えるために神様から派遣された救い主であると聖書に記されています。どのようにすべての罪を取り除くのか。それは、イエス様が小羊のように屠られて、尊い血潮を流して、その命を献げてくださるしか、他に方法はありませんでした。自力では自分を救うことができないわたしたちを憐れみ、神様の小羊を与えてくださった。そこに愛があり、恵みがあるのです。
バプテスマのヨハネは、30節で「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」と言います。「この救い主イエスを見よ!」と言うのです。わたしたちの罪のために、贖うために十字架で死なれた救い主を見上げ、自分の罪、自分の弱さを悔い改めなさい。そしてこのイエス様の愛を受け取りなさい。ご自分の子を犠牲にするほどまでにわたしたちを愛してくださる神様を信じ、愛を受け取り、感謝し、神をほめたたえなさいと招くのです。しかし、それは強制というよりも、わたしたちの自由な意思を尊重する愛に満ちた招きであります。この招きに応え、神の小羊・イエス様を信じ、神様の愛と赦しを感謝して、主に信頼して主のお心を受け取りたいと願います。
31節に「わたしはこの方(イエス様)を知らなかった。」と言うヨハネの言葉がありますが、これは二つの意味があります。一つは、イエス様に出逢っていなかったということです。もう一つは、神様から救い主に出逢う恵みを受け取っていなかったということです。しかし、「この方がイスラエルに現れ」てくださった、地上に来てくださったのです。イエス様からわたしたちに出逢ってくださった、神様の霊である聖霊が救い主との出逢いへと導いてくださることが「恵み」であり、この上ない「幸い」なのです。「わたしは、水で洗礼を授けに来た。」とは、ヨハネはイエス様の前に道を整える「先駆者」として、また前回学んだように、また続く32節に「ヨハネは証しした。」とあるように「証し者」として、人々に「悔い改めを告げる者」として来たということが含まれると思います。
32節から34節は、ヨハネの証しです。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」とあります。
聖霊がイエス様の上に降り、とどまるという事には二つ考えられます。一つは、「神様とイエス様の交わり・一体性が暗示されている」と注解書にありました。もう一つは「聖霊がイエス様に宿ることによってイエス様の福音宣教の業が公にこれから始められるという意味があると考えられます。地上におられるイエス様と天におられる神様が聖霊によって一つとなるのを見た。だから、イエス様は神の子であるとヨハネは証しするのです。