2025.10.15 ヨハネによる福音書1章43節〜51節
ヨハネ福音書1章の最後の部分をご一緒に聴いて行きます。前回からイエス様が弟子たちと出逢ってゆく箇所を聴いていますが、ヨハネによる福音書の面白いところは、他の福音書でよく見受けられるイエス様自らが人々に出逢っていって弟子に招くというケースよりも、他の人からイエス様を紹介されて、イエス様を信じて従ってゆくケースが多いという点です。前回、シモン・ペトロがイエス様の弟子となった経緯をお話しできませんでしたので、その部分をまずお話ししてゆきたいと思います。
原始キリスト教会の土台石・基礎となった人、シモン・ペトロが、どのようにイエス様の弟子、その後には使徒と呼ばれる働き人になったのか。それは彼の兄弟であるアンデレが先にバプテスマのヨハネの弟子であって、このアンデレがまずバプテスマのヨハネの紹介・促しの中でイエス様と出逢い、そしてイエス様と時間を過ごす中で救い主と信じたことがきっかけでした。前回は、このアンデレともう一人がバプテスマのヨハネを離れてイエス様に従うようになった経緯を聴きました。40節から42節を読みましょう。
ここでの重要なポイントは、イエス様を救い主と信じたアンデレは真っ先に自分の兄弟のもとへ行って、イエス様を紹介したということです。自分の身近な人、大切な人に、「自分はメシア・救い主イエス様に出逢った」と言って、その兄弟をイエス様のもとへ連れて行くということが注目点です。皆さんも感動したこと、嬉しかったことはすぐに身近な人、家族に伝えると思います。その喜びと感動を大事な人と共有したいからです。アンデレはイエス様に出逢った感動を隠すことなく自分の兄弟に伝え、そしてその兄弟をイエス様のところへ連れてゆきました。これがイエス様を救い主と信じた人の最初の行動であり、わたしたちもそのように行動することが期待されていることを覚えましょう。
原始キリスト教会の中であれほどの大きな働きをしたシモン・ペトロは、自分の兄弟の紹介でイエス様に出逢っていきました。この引き合わせがなければ、「使徒ペテロ」は生まれなかったかもしれません。このアンデレというイエス様の弟子は、ヨハネ福音書の中ではたった3回しか登場しませんが、彼が登場する今回の1章41・42節、そして6章8・9節、12章20〜22節を見ますと、彼はいつも誰かをイエス様に引き合わせています。とても地味な働きに見えるかもしれませんが、とっても重要な働きを得意とした人で、神様に用いられた人ということができると思います。わたしたちキリスト者の使命も同じです。
さて、シモン・ペトロを見たイエス様が彼を見つめながら最初に言った言葉は、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」というものでした。ポイントはイエス様がシモン・ペトロを「見つめて」ということです。イエス様の眼差しは、わたしたちの顔の輪郭や表情を見ているだけでなく、またわたしたちのうちにある可能性を見ているだけでもなく、わたしたちの将来像を見て知っておられると言えます。神様の愛、福音を伝えるためにわたしたちをどのように用いようかを見ておられるのだと思います。「あなたをケファ(岩)と呼ぶことにする」というのは、福音を伝える上で重要な「教会」の土台石・基礎とするというペトロを指名する言葉、ペトロに使命を与える眼差しであったことを覚えたいと思います。そういう中で、わたしたちは日々の歩みの中でイエス様の眼差しを感じながら生きているかを考えさせられます。
それでは43節から読んでゆきたいと思います。「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた。」とあります。19節から四日連続の出来事は、イエス様がガリラヤへ行こうとされていた最中に起こりました。イエス様とバプテスマのヨハネが出逢い、アンデレやシモン・ペトロが弟子として従い始めたとされる場所は、「ヨルダン川の向こう側、ベタニア」であったと28節にありますが、どちらかというとエルサレムに近い地域です。そこから北に向かってガリラヤにイエス様は向かって行かれます。その理由は、イエス様は宣教活動の最初の拠点をガリラヤ地方にしていたからです。その途上でフィリポという人物に出逢って、「わたしに従いなさい」とオーソドックスな招き方をされます。この「フィリポは、アンデレとペトロの町、(ガリラヤ地方の)ベトサイダの出身であった。」とあります。
フィリポという人物は、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書では12弟子のリストに登場するのみですが、ヨハネ福音書では、アンデレと同様、人々をイエス様に引き合わせてゆく重要な働きを担う人として登場し、今回はナタナエルという人にイエス様を紹介する役目がここに記されています。
印象的な出来事として、使徒言行録8章26節〜38節で、聖霊によって導かれたフィリポがエチオピアの女王の宦官と出逢い、彼に聖書を解き明かし、イエス様の福音を分かち、彼がバプテスマを受けたいというのでバプテスマを授けます。フィリポはイエス様を紹介することに長け、主に豊かに用いられた人と言えます。今回もイエス様と出逢い、イエス様に従う決心をした直後、45節ですが、「フィリポはナタナエルに出会って言った。『わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。』 」と言って、イエス様をナタナエルに紹介するのです。
「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。」の、「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている」とは、旧約聖書全体に記されているという意味です。エチオピアの宦官に聖書を解き明かすことができたフィリポは、聖書をよく読み、神様の言葉、特にメシアを与えるとの神様の約束をよく知り、信じていたことがよく分かります。
このナタナエルという人は、フィリポたちと同じガリラヤ地方出身者です。ちなみに、ナタナエルの名前の意味は、「神、与えたもう」、「神の賜物」です。彼は、ガリラヤ地方のカナという町の出身で、カナから約20キロ南下したところにあるナザレという町のことを知っていたと思われ、46節にあるように、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と懐疑的に返答します。聖書をよく読み、聖書をよく知るフィリポの知り合いであっても、イエス様を信じない人というは大勢いたと思われますが、わたしたちの周りにもいると思います。大切なのは、イエス様に対して懐疑的でも友として接してゆくことです。
わたしたちも懐疑的な事を言う時がありますし、周りの人たちもそういう人が多いと思いますが、フィリポはイエス様がアンデレたちに言ったように、とにかく「来て、見なさい」と言って、一度でも良いからイエス様に会ってみなさいと根気強く誘うのです。疑い深い人、あまり前向きになれない人には、とにかく前向きなことを言って励ます、諦めないで励まし続けることが大切であることをここから教えられます。イエス様に出逢ったら、自分は神様からたくさんの愛と幸いを与えられていることに気付かされるのです。
フィリポの誘いを受けてイエス様のもとへナタナエルは行きますが、47節を読みますと、「イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見た」と記されています。シモン・ペトロの時と同じように、イエス様はご自分の方へフィリポと一緒に向かってくるナタナエルをご覧になり、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と言われます。誰に対して、「見なさい」とイエス様はおっしゃられたのか。それはアンデレ、シモン・ペトロであったと思われますが、「まことのイスラエル人」とはどのような意味でしょうか。
話が前後しますが、先に48節のイエス様とナタナエルのやり取りに目を向けたいと思います。ナタナエルは、自分を見るや否や、イエス様が親しげ接してくださるので、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と尋ねます。そうしますと、イエス様は「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と答えられます。ここでもイエス様が先にナタナエルを見て知っておられることが記されています。イエス様の洞察力、そのお考えはわたしたちの人智を遥かに越えています。
「いちじくの木の下」というのは、暑い地方で学ぶのには最適な涼しい空間で、ユダヤ教の教師(ラビ)が律法を教え、学生が学ぶ所として選ばれていました。つまり、ナタナエルは律法を学んでいたのではないかと思われます。イエス様の弟子として用いられる人の中には、フィリポとナタナエルのような旧約聖書と律法を熟知している人も必要とされていたと思われます。その理由は、イエス・キリストが旧約聖書にある神様の愛の言葉であり、救いの約束の言葉を成就するメシアであることを証しすることであるからです。
また、「いちじくの木の下」は列王記上5章5節、ミカ書4章4節、ゼカリア書3章10節にも出てきますが、神様のもとにおける繁栄、また恵みに溢れる状態、神様との平和の中にいる状態を意味するそうです。聖書に親しみ、イエス様の言葉に聞く人、イエス様の弟子はそのような祝福を受け、その中を過ごすことができるということでしょう。
49節を読みますと、ナタナエルは、イエス様に「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と言いますが、彼の言葉は確信に満ちた信仰告白には聞こえません。ですから、イエス様は「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」と言われます。
さて、「まことのイスラエル人」という言葉を旧約聖書にたどってゆくとヤコブという人にたどり着きます。ヤコブは、神様から「あなたはイスラエル、あなたは名をイスラエルに変えなさい」と命じられていて、可能性として、イエス様はナタナエルをヤコブと重ねているのかもしれません。そのようなナタナエルに、51節で、イエス様は「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」と言われます。
イエス様は初対面の人に何故このようなことを言われるのでしょうか。このイエス様の言葉は、創世記28章でヤコブという人がベテルという場所で眠っている時に見た夢と似ています。夢の中には、天までの梯子が現れ、その梯子を天使たちが昇り降りするのですが、これは天と地を行き来して、神様と人々に仕えていたことが表され、その神様と人々の間に交流があったことを表しています。イスラエルは、神様によって、神様と人々に仕える民族として立てられるのです。しかし、イスラエルの歴史の中で、その民が神様との契約を忘れ、御言葉に聞き従わず、神様に背いたので、神様と人々に仕えるという大事な使命を果たすことができませんでした。
しかし、ヤコブやその子孫よりも遥かに優れたお方・メシアがこの地上に来られました。御使よりも遥かに偉大なるお方・神の御子イエス・キリストがこの地上に来てくださり、神様とわたしたちの間に立ち、わたしたちの間に和解と平和のために仕えてくださいました。その最たる実例がイエス様の十字架の贖いの死と三日後の復活です。これは神様とイエス様の御業です。その愛の御業を「あなたがたは見ることになる。」とイエス様はおっしゃいます。
ここでのポイントは、「あなた」ではなく、「あなたがた」と複数形になっている点です。すなわち、イエス様を救い主と信じ、忠実に従い、神様と人々の間に立って、イエス様を紹介する、仕える者(僕)としてナタナエル、フィリポが召し出されたように、すべてのクリスチャンが召されていることを覚えたいと思います。
ナタナエルという人が誰であるのかは、上記の情報以外には分かりません。ナタナエルという名はイエス様の12弟子のリストにはありません。その後に召された72人の弟子の一人かもしれません。しかし、そのような人がヨハネ福音書1章に記されているとは考えられず、12弟子の一人であるバルトロマイではないかとも識者の中で考えられています。しかし、決定的な証拠はありません。大切なのは、ナタナエルが誰であれ、イエス様の弟子としてイエス様に召された人には変わりなく、主イエス様に用いられたように、わたしたちも神様には忠実に、隣人には誠実に、自分にも信実な者として歩んでゆく中で神様の御用のために用いられること、それがイエス様の願いであると思います。