ヨハネによる福音書2章13節〜25節
今回は、2章後半の学びを進めます。前回の学びでは、イエス様が救い主・キリストとして、公生涯を開始されて最初になされた「しるし」、すなわち飲み水を最上級のぶどう酒に変えられた「奇蹟」について聴きましたが、今回はそのイエス様がエルサレムの神殿で行われた、ある意味「事件」とも言える出来事について共に聴いてゆきたいと思います。
2章13節を読みますと、「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。」とあります。このお祭りを祝うことはユダヤ人にとって重要なことですが、他のマタイ、マルコ、ルカ福音書を読みますと、イエス様は3年間の宣教活動中にエルサレムを訪れたのはたった1回なのですが、ヨハネによる福音書ではイエス様は3回もエルサレムを訪れています。とても興味深いことですが、ヨハネは彼なりにイエス様が救い主・キリストであることをわたしたちに伝えようとして、そのように記録します。
例えば、マルコ福音書では、イエス様が十字架に架けられて殺される週、つまり受難週の二日目(月曜日)に起こした「宮清め」の事件が、ヨハネ福音書ではイエス様の宣教活動の冒頭の出来事として記録されています。聖書学者の中にはイエス様の「宮清め」と呼ばれる出来事は2回あったという伝承に立つ人もいますし、学者たちの中でも色々と意見が分かれるのですが、わたしたちがいま共に聴いている福音書を記したヨハネは、この衝撃的な出来事を福音書の冒頭に置きます。彼には明確な意図があったと考えられます。
すなわち、ヨハネは、カナの婚礼での「しるし」とエルサレム神殿での「宮清め」の事件を通して、わたしたちの目の焦点をイエス様に当てさせようとしている、イエス様にフォーカスさせようとしているのだと考えます。この二つの出来事に共通する点は、どちらの場面にもイエス様の弟子たちがいました。弟子として生まれてほやほやです。そのような弟子たちに二つの重大なことを目撃させ、イエス様をさらに信じさせよう、弟子として整えようという思いがイエス様にあったのではないかと考えます。
つまり、1)カナの婚礼の時の「しるし」は、イエス様が神様から遣わされたメシア・キリストであることを知らしめるために記されたと考えます。また、2)エルサレム神殿でイエス様が「宮清め」をしたのは、神様を礼拝すべき神殿をそのイスラエルの民が商売で金儲けする場所にしてしまっていて、その間違いを強烈に指摘し、真の礼拝を神様におささげしなさい、本来あるべき信仰、神の求めている信仰へと姿勢を正しなさいと促していると考えます。この福音書の記者ヨハネは、この二つの印象的な出来事を通して、弟子たちと福音書の読者であるわたしたちの目線をイエス様にフォーカスさせること、神様とイエス様に集中させ、信仰の姿勢を正す目的で、このような2部構成になったと考えます。
さて、14節から16節は、神殿を礼拝の場所ではなく、金儲け、商売の場所としている商人たちを追い出す箇所になっています。「そして、(イエスは)神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」とあります。とてもラディカルで暴力的と思われるかもしれませんが、このような行為は父なる神様を対するイエス様の愛がそのようにさせる、その強い思いがそのような行動に移させると考えられます。暴力は確かにいけません。しかし、不正は正さなければならず、神様への間違った姿勢を正すためにイエス様はそうされました。
イエス様は、「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と言われますが、そもそも神殿は神様に礼拝をささげる場所、神様にフォーカスして、神様とのつながりをもつ場所ですが、なぜ商売の家になってしまったのか。商売人や両替人たちが勝手に始めたことではなく、彼らの商売を許可した神殿管理者たちが背後にいたのです。そして、彼らは商売人たちからリベートを取って私腹を肥やしていたのです。それが神殿の闇の部分です。
ユダヤ教の三大祭りをエルサレムで過ごすために各地から集うユダヤ教徒・巡礼者たちは献げ物・犠牲の供え物を携えてくるのは困難でしたから、現地調達をしていたわけで、彼らのニーズに応えるために羊や鳩などの供え物を売る商売人、外貨を両替する商売人がいて、確かに利便性があったわけですが、巡礼者たちの、特に経済的にも貧しい巡礼者たちの弱みにつけ込んで為替レートを吊り上げて儲けたり、供え物を高額で売って儲けるような商売人たちがいて、そのような業者たちから見返り・裏金を要求し、神殿を金儲けの場所に変えていた神殿管理者(祭司たち)が存在していたのです。そういう神に仕える者としてあるまじき行為をする人々に対して、その姿勢に対してイエス様は怒ったのです。
17節に、「弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」とありますが、この言葉は詩編69編10節の言葉です。そこには「あなたの神殿に対する熱情がわたしを食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りがわたしの上にふりかかっています」(新共同訳)とあります。この17節における疑問点は、弟子たちはこの詩編の言葉をいつ思い出したのかというタイミングです。弟子になったばかりの人たちがその時その場で思い出したとは到底考えにくく、これはイエス様が十字架に架けられて贖いの死を遂げられた後、すなわち、十字架で死なれ、三日後に甦られた救い主イエス・キリストとその言葉を振り返る中で思い出したと捉えるほうが良いと考えます。
この17節に関してもう一つわたしたちが心にとどめるべきこと、それはイエス様とその言葉をいつも思い出しながら歩むということです。この「思い出す」という言葉は22節にも出てきます。「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」とあります。イエス様とその言葉を思い出しながら歩むこと、それはイエス様と共に歩むことでもあり、そのようにイエス様と歩む中で、さらにイエス様を信じ、御言葉に信頼して日々歩めるのです。
さて、18節に「ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った。」とあります。この「ユダヤ人たち」とは誰のことでしょうか。それは、自分たちの私腹のために神殿を利用していた強欲な人たち、イエス様の行動によって自分たちの利益を損なわれたと考える自己中な人たち、このことを発端にイエス様に対して憎しみを抱いた人たちです。
そして、またここに「しるし」という言葉が出てきます。「どんな『しるし』をわたしたちに見せるつもりか」と彼らはイエス様に迫りますが、イエス様は彼らの心のうちを、彼らの信仰の姿勢を知っておられるのです。後に聴く箇所ですが、ヨハネ4章48節で、イエス様は王から遣わされた役人に対して、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われました。元の箇所に戻って、2章23節と24節を読みますと、「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」とあります。なぜか。続く24節後半に「それは、すべての人のことを知っておられ」たから、人々が何を考えているのか知っていたとあります。
挑発してくる人々に対して、イエス様は19節で、「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』」と言われます。その言葉を聞いた人々は呆れながら、20節で、「それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。」とあります。
イスラエルの歴史の中で、神殿はエルサレムで過去3回建設されました。最初はダビデ王の息子ソロモン王が紀元前10世紀に建てましたが、その神殿にはモーセがシナイ山で神様から授かった「十戒」が記されていた2枚の石の板が納められていた「契約の箱」が納められ、松本俊之氏の言葉を借りますと、「神殿は神様とイスラエルの民をつなぐ象徴であり、実際、神様はそこで人間とまみえると考えられていました。ユダヤ人にとって神殿は心のよりどころでした。」(p.56 ヨハネ福音書を読もう(上) 日本キリスト教団出版局)とあります。 しかし、神様との契約を忘れ、偶像礼拝に走った民は神様の裁きにあい、アッシリアとバビロニア帝国との戦いに負け、第一エルサレム神殿は破壊されます。
第二神殿は、捕囚から解放された民たちが紀元前6世紀に建てられましたが、度重なる戦争の中で傷つき、第一神殿とは比べようがないほど見栄えのない神殿であったそうです。第三神殿は、紀元前19年ごろ、イエス様の時代にヘロデ大王によって建設されたそうですが、建築には46年要したとヨハネ2章20節にあるとおりで、イエス様が歩まれた時代、エルサレムに来られたタイムフレームと一致します。しかし、この第三神殿もローマ帝国によって紀元後70年に破壊されてしまいます。イエス様の「この神殿を破壊してみよ」という言葉は、ユダヤ人たちの傲慢さのゆえに、神様から遣わされたメシア・イエス様を拒絶し、神様との契約を守らず、神殿を強盗の棲家にしたゆえに実際に起こった出来事となり、このヨハネ福音書が記録された時には第三神殿はすでに破壊された後でした。
さて、ここで重要なのはイエス様の言葉の意味が21節に、「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」とある事です。イエス様が「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言われたのは、ユダヤ教指導者たちがイエス様を拒絶して十字架に架けて殺す(神殿の破壊)という意味があり、しかしイエス様は三日後に復活する・甦る(三日で立て直す)という意味があるのです。つまり、イエス様は、福音を宣べ伝える最初からご自分の歩みが十字架の死へと向かう道、そしてその後に復活があり、勝利があるという確信と神様への全幅の信頼があったことをヨハネはわたしたちに伝え、キリストの教会を破壊するのでなく、建て上げなさいとわたしたちを励ますのです。
