ルカ福音書(121) ピラトとヘロデから尋問されるイエス

ルカによる福音書23章1節〜12節

3年前に始めましたルカ福音書の学びも今回から23章に入ります。22章と23章は、イエス様の受難の箇所です。「受難」という言葉で軽々しく扱える事柄ではなく、わたしたちのために、いえ、わたしの救いのためにイエス・キリストという神の独り子が苦しみを負って死んでくださった事実を重く受け止めなければならない真実です。何からの救いであるのか。それは永遠に続く闇・滅びからの救いです。永遠の死・闇から永遠の命・光に移される。天と地ほどの差、人知では計り知れないほどの大きな差のある愛の事柄です。

 

ですから、イエス様の受難を真剣に捉え、イエス様の言動を自分のための事柄として聴いて、想像力をフルに働かせ、イエス様と共に痛んでゆくこと、その痛みの先に真の「救い」が与えられ、何にも代え難い真の「平安」があり、「信仰」が与えられ、すべては神様からの愛、恵みだと喜び、感謝することができるのだと感じます。イエス様の痛みを自分の痛みとして感じない限り、すべてのしがらみからの完全な解放はないと感じます。痛みを感じることを恐れずに、ただただ、神様の憐れみを求める必要があると感じます。

 

さて、23章に入る前に少しだけ前回の振り返りをしたいと思います。前回の学びは、イエス様が逮捕され、暴力を受けられた後、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)で裁判を受けられたところでした。民の長老会、祭司長たち、律法学者たち集まって、イエス様を裁判にかける訳ですが、そこで彼らは二つのことをイエス様に尋問します。

 

一つは、22章67節、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」という「お前はメシア、救い主か」という問いです。この問いに対して、イエス様は「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう」と言われます。最高法院のほぼ全員は、イエス様を抹殺することしか頭にありません。それが彼らの望みなのです。イエス様を排除する事しか頭にないので、イエス様が何を言っても、聞く耳も持たないし、決して信じないのです。彼らはローマにイエス様を排除してもらうため、ローマに告訴するために問いますので、イエス様が何を言っても無駄なのです。

 

「わたしが尋ねても、決して答えないだろう」というのは、イエス様が反問権を使って、「それでは、あなたがたは、わたしを何者だというのか」と逆に質問し返しても、彼らは答えをはぐらかしたり、真摯に答えないだろうということです。何故でしょうか。イエス様を葬ることしか考えていないからです。罪人の心の闇がそこにあるのです。

 

もう一つの問いは、22章69節、「お前は神の子か」という問いです。この問いかけに対して、イエス様は「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」ことだと答えられます。イエス様を亡き者にすることしか考えていない者たちに何を言ってもダメなのです。彼らはイエス様を訴える口実を得るためだけにしていますから、売り言葉に買い言葉も意味がありません。

 

イエス様は確かに神の子であられますが、そうであると信じること、信仰への招きに応えるのは、わたしたち人間の側にあり、イエス様ご自身が「わたしは神の子だ」と告白する必要はないのです。そうではなく、わたしたち一人ひとりが、「あなたこそ神の子です。救い主、あなたを信じます」と信仰を告白する必要があるのです。

 

さて、23章1節に、「そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。」とあります。「全会衆」とは最高法院にいた人々、イエス様を殺したい人たちで、その人たちがイエス様を葬るために「立ち上がる」のです。

 

しかし、その中で一人だけ例外がいたということを覚えたいと思います。それは、23章50節に出てくる「アリマタヤのヨセフ」という善良な議員です。彼だけが最高法院の同僚の決議や行動に同意しなかったということです。ですから、「全会衆」とは、このヨセフを外した最高法院の人々と捉えることが正しいのです。

 

さて、この23章からルカ独自の受難の出来事が伝えられるようになりますが、その一つが当時の権力者の二人から尋問を受けるということです。一人はローマ帝国からイスラエルを統治せよと命じられている総督ピラト。もう一人はヘロデ・アグリッパというガリラヤ地方の領主です。ヘロデ・アグリッパはヘロデ大王の三人の息子の一人で、北部ガリラヤ地方を治める領主の役目を皇帝から委ねられた人で、仮庵の祭を祝うためにちょうどエルサレムに上京していたと考えられます。

 

この二人は、民族も地位も権力も違います。しかし、ユダヤのリーダーたちに上手く丸め込まれてイエス様を十字架に付けてゆきます。ユダヤ人と異邦人がイエス様を十字架に追いやってゆくのです。しかし、それもすべて神様の罪人救済のご計画の一部なのです。

 

ユダヤの全会衆が立ち上がり、イエス様をピラトのもとへ連れてきて、3つの訴えをし始めます。2節に、「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」とあります。

 

3つの訴えとは、1)この男はユダヤ民族を惑わしている、2)皇帝へ税金を納めることを禁じている、3)自分はイスラエルの王だと言っている、です。

 

しかし、総督ピラトに直接的に関連するのは2番目の「皇帝へ税金を納めることを禁じている」という疑いのみです。しかし、ピラトはそのことを問題視しません。ピラトは、ユダヤ人たちがイエスという人を訴えるのは、自分たちのためであって、皇帝や帝国のためではないということを分かっているからです。ピラトがどれだけ巷の情報を得ていたかは定かではありませんが、イエス様は税金に関してユダヤ人はどうすべきかをすでに20章20節から26節で答えておられます。イエス様は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と明言されています。訴えの正反対のことだと分かります。

 

また、第三の訴えである「イスラエルの王だと言っている」か、否かについては、ユダヤ人たちが決めれば良いことで、自分には関係ないとピラトは考えていますし、第一の訴えである「ユダヤ民族を惑わしている」か、否かは、ガリラヤの領主ヘロデに判断させようと考えるのです。

 

しかし、ピラト個人としてはイエスが政治的な王か否かということだけ関心があったので、3節で「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問するのです。それに対してイエス様は、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになるのみです。「あなたが言っていること」という答えだけではイエス様を有罪にすることなどできませんから、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言ったと4節に記されています。

 

しかし、どうしてもイエス様を排除したいユダヤ人たちは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張ったと5節にあります。「これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。」と6節と7節にあります。ピラトは、イエス様をヘロデに送りつけ、自らはユダヤ教リーダーたちのプレッシャーから逃れようとするのです。

 

8節から読んでゆきますと、ルカ福音書にしか記されていないヘロデの尋問があります。ヘロデはイエス様を見ると非常に喜んだとあります。「というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。」とあります。

 

イエス様に対するヘロデの関心は、ルカ9章7節から9節の箇所まで遡ります。イエス様が活発に宣教をし、弟子たちを派遣して至る所で福音が語られ、病気をいやすのを伝え聞いたヘロデは戸惑います。というのは、人々が「バプテスマのヨハネが死者から生き返った」と言ったり、「預言者エリヤが現れた」と言ったり、「だれか昔の預言者が生き返った」と言う声を聞いたからです。ヘロデは、「ヨハネは自分が殺したからあり得ない。では、いったいイエスとは何者だろう」と興味・関心を持っていたのです。

 

しかし、最終的にはヘロデという人は興味本位だけなのです。イエス様を信じるつもりなど微塵もないのです。何かしるし・奇跡を行うのを見てみたいと自分のこと、自分を喜ばすことしか考えていないのです。ですから、このような心を頑なで自分本位なヘロデに対して、「イエスは何もお答えにならなかった。」のです。

 

10節の「祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。」と言う厄介な事実と興味が一気に失せてしまったヘロデは、「兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を(イエスに)着せてピラトに送り返した」と11節にあります。ヘロデは、ユダヤ教指導者同様、イエス様を救い主と信じることはなかったのです。

 

「派手な衣を着せる」というは、イエス様を偽者の王として愚弄する目的の行為であると考えられます。しかし、そのように愚弄されるイエス様が、十字架の死と三日後の復活後に「真の王」として君臨され、この救い主が再びこの地に降臨されるのです。

 

12節に、「この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。」と情報をルカは付け加えています。当時の歴史を記した文献によりますと、確かにピラトとヘロデは互いを見下し、敵対意識を持っていたようです。しかし、彼らが仲良くなったというのは、イエス様を侮辱する点において、またイエス様を救い主と信じない点において、仲良くなったという意味と捉えることが良いと思います。

 

わたしたちにもそれぞれ違いがありますね。考え方、物事の捉え方、感じ方が違うわけです。しかし、そのような違いのあるわたしたちを神様は愛してくださり、「わたしの遣わす独り子イエスを救い主と信じなさい」と招かれます。この招きに応える人々が仲間とされ、教会とされ、神の国へ招かれる神の家族となる。それが神様のご計画なのです。