ルカ(100) エルサレムに入られるイエス

ルカによる福音書19章28〜44節

ルカ福音書9章51節から始まったイエス様のエルサレムへの旅路も、いよいよ終わります。今回の箇所は、エルサレムへ入られる直前と直後の出来事が記されていて、大切なことが4つに区分されて記されていますので、それらに聞いてゆきたいと思います。4つの区分は、1)28〜34節、2)35〜38節、3)39〜40節、4)41〜44節です。

 

最初の区分は、28節から34節ですが、28節に「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」とあります。「イエスはこのように話してから」という言葉は、イエス様が弟子に語られたムナの譬えとこれからの出来事の内容が関連していることを示します。

 

ムナの譬えの中心的なテーマは、イエス様を取り巻く人々がイエス様をどのように扱うのかということでした。すなわち、イエス様に従う者はどのように従い、イエス様を拒絶する者はどのように拒絶するのかを示し、イエス・キリストが再び地上に来られる時に、神様と主がどのように各自を裁かれるのかを学びました。

 

主イエス様は、「先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」とありますが、これはイエス様の決意が表れている言葉です。イエス様の決意・決心とは、罪と恐れに縛られて生きているわたしたちを救うために、身代わりとなって十字架に架かって贖いの死を遂げてくださるというものです。イエス様は、わたしたちを救って生かすために、その命を捨てるために、エルサレムに入って行かれるのです。そういう意味においては、ここからイエス様の十字架の苦難の道が正式に始まり、イエス様の決意がもう一段上がったと言って良いでしょう。

 

さて、29節に、「そして、『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき」とあります。ベタニアは、エルサレムから東に約3キロの地点にある町で、ベトファゲはベタニアとエルサレムの中間地点にあります。すなわち、どちらの町もエルサレムの東側に位置します。そして、イエス様が、この「東側」からエルサレムに入ろうとされることには、神学的に大きな意味と目的があります。

 

エルサレムは、「平和の町」という意味です。「神との平和に生きる町」と理解するのがベストだと思います。創世記3章で、アダムとエバが神様に対して罪を犯した際、神様は彼らをエデンの園の「東側」に追放されました。聖書では「東・東側」とは、神様の祝福の外、「罪の中」に生きるということを意味します。

 

イエス様がその東側からエルサレムに入ろうとされるのは、イエス様がご自身の十字架の贖いの死によって、わたしたちの罪の代価をすべて支払い、神様とわたしたち人間を和解させ、関係性をアダムが罪を犯す前の状態に戻し、神様との平和にわたしたちを生かすためです。それが神学的な意味と目的です。

 

さて、ベトファゲとベタニアに近づいた時、30節と31節ですが、イエス様は「二人の弟子を使いに出そうとして言われた。『向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、「なぜほどくのか」と尋ねたら、「主がお入り用なのです」と言いなさい。』 」とお命じになられたことが記されています。ここで重要なのは、「まだだれも乗ったことのない子ろば」の意味です。

 

二つの意味があります。第一は、「まだだれも乗ったことのない」とは「汚れのないこと」を意味し、特別な祭儀を行う時に用いられました(民数記19:2、申命記21:3参照)。イエス様が汚れのない子ろばに乗ってエルサレムに入ることには、罪の贖いという特別な祭儀的な意味があることが分かります。

 

第二は、「子ろばがつないである」ということです。これは創世記49章11節によると、メシア・救い主の到来を意味すると考えられます。ですので、その子ろばをほどいて、それに乗るというのは、イエス様が汚れのないメシアとしてエルサレムに来るという意味となり、それはゼカリア書9章9節にある神の約束が成就したと理解することができます。

 

31節に、「もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」とありますが、「だれか」とは子ろばの持ち主でしょう。しかし、ここで面白いのは、この「主がお入り用なのです」というギリシャ語を直訳すると、「その子ろばの主が必要としている」となります。すなわち、子ろばの本当の主、所有者はイエス様であり、神様であるということになります。

 

この地上のもの、宇宙にあるすべてのものは、神と御子と聖霊によって造られていますので、子ろばも、神様、イエス様、ご聖霊のものです。ですから、わたしたちも、主から何かを求められたならば、今回のことを覚えて、主のご用のために納得して手渡すことことができるように祈りつつ備えましょう。

 

32節から34節を読んでゆきますと、「使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった」とあります。これは、イエス様が地上を歩まれる500年前に、預言者を通して神様が約束された言葉・救いの預言がイエス様によって成就されてゆくということを表し、イエス様がキリストであり、真のメシアであるということを明示しています。

 

さて、2番目の区分(35〜38節)です。マタイとマルコ福音書では、人々が自分たちの服やしゅろの枝を道に敷いて、イエス様を迎えますが、ルカ福音書では、イエス様の弟子たちが自分たちの服を子ろばの上にかけ、イエス様が進んでゆかれる道に敷いたと記されています。

 

ルカ福音書では「弟子の群れ」がこぞって自分の服を道に敷きます。この行為は、旧約聖書・列王記下9章13節(p592)にありますように、王様への敬意・尊敬を表す行為です。すなわち、イエス様の弟子たちは、イエス様を特別な王として信じ、敬意を持っていたということを表します。

 

37節の「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき」というのは、ゼカリア書14章4節にある、「その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる」(p1494)という主の約束がイエス様によって成就されたということをルカは強調したいのだと考えます。

 

37節中程に「弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び」とありますが、これまでの数多くの奇跡、また直近のエリコで盲人の目が開かれた奇跡や徴税人ザアカイとその家が救われたことも、イエス様がなさった救いの業と弟子たちは信じ、喜んだということです。そして、その信仰と喜びは、38節にあるように、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」 という神様を賛美することにつながってゆきます。これは、詩編118編26節が引用されています。

 

さて、ここで弟子たちは、イエス様を「王」と呼んでいますが、この王はイスラエルの民や弟子たちの多くが期待する王ではありません。すなわち、ローマ帝国を転覆させてイスラエルを自由にする王ではなくて、イエス様を信じる者たちすべてを罪と死の支配から救い出し、神の子として神の国に招くための救い主です。しかし、弟子たちはそのことをまだ理解していません。それが分かるのは、復活のイエス・キリストに出会った時からです。

 

3番目の区分は、39節から40節になります。2番目の区分では弟子たちがイエス様を来るべきメシア・王として賛美していますが、39節から40節にはユダヤ指導者たちの敵意が現れています。「すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、『先生、お弟子たちを叱ってください』と言った。イエスはお答えになった。『言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。』 」とあります。

 

ファリサイ派の人々の言い分は、「イエスよ、あなたの弟子たちは間違ったこと、神を冒涜することを言っているから、師匠として彼らを黙らせなさい」と言います。しかし、イエス様は、「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」とお答えになります。もし弟子たちが黙っても、石が叫び出すほどにイエス様が救い主・メシアであることは隠し難い公然の真理であり続けると言われるのです。

 

キリスト教会の歴史においても、ユダヤ指導者たちがキリスト者とキリスト教会を迫害し続け、たくさんの殉教者が出ました。しかし、イエス・キリストの福音は、地の果てまで宣べ伝えられてゆくことがここで言われています。

 

最後の4番目の区分になりますが、41節から44節です。ここで注目すべきは、イエス様がいよいよエルサレムに近づき、エルサレムが見えて来た時、エルサレムのためにイエス様が泣かれたということです。なぜ泣かれたのでしょうか。それは、救い主・メシアが自分たちのすぐ近くに来ても信じない、それどころか、その救い主を拒絶して、十字架に架けて殺そうとする。心を頑なにして神様の愛を受け取ろうとしない人々の傲慢さ、罪の深さをイエス様は嘆かれます。

 

そのようなエルサレムは、どうなってしまうのでしょうか。答えは43節と44節にあります。「やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう」と言われます。神様の裁きが訪れて、エルサレムは滅亡するとイエス様は言われ、エルサレムのことを嘆かれ、涙を流されるのです。

 

実際に、西暦70年にエルサレムと神殿は、ローマ軍によって徹底的に破壊されてしまいます。イエス・キリストという救い主を信じない人、拒絶する人は、滅びる。しかし、それは神様の御心、願いではない。神様の御心は、すべての人がイエス様の御前に悔い改めて、神様に立ち返ることです。

 

イエス様は、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。しかし今は、それがお前には見えない」と42節で言われます。「わきまえる」とは「知る」という意味ですが、イエス様を救い主と信じなければ、平和の道を見ること、知ることはできないのです。

 

神様との和解、神様が与えてくださる「平和の道」は、イエス・キリストなのです。神様の愛と憐れみによって、わたしたちはイエス様を救い主と信じさせていただいているのです。これはすべてイエス様を通して神様から与えられる恵みなのです。