ルカによる福音書19章45〜48節
前回の学びの分かち合いの時に、宿題が与えられましたので、最初に取り扱いたいと思います。二つの質問がありました。1)エルサレムに入城された時、なぜ馬ではなく、イエス様はろばの子に乗られたのか。2)40節にある「叫びだす石」と44節にある「お前の中の石」とは、同じ石か、それとも違う石なのか。
まず、なぜ馬ではなく、ろばの子であったのかという理由ですが、馬は「力」の象徴です。軍馬として戦いで使用され、王や軍の司令官など身分の高い者たちは自分の地位や権力を民に示すために好んで馬に乗りました。しかし、ろばは「柔和さ」の象徴です。庶民の生活を助けるおとなしく、力のある動物として、貧しい人々に重宝されました。そのろばの子、前回も言いましたように、まだ誰も乗ったことのない子ろば、つまり「汚れのない」ろばに乗って、メシアは救いをもたらすためにエルサレムに入城されたのです。
イエス様は、武力をもってイスラエルをローマ帝国から解放するためではなく、わたしたち人間の罪を贖い、罪と死の支配から解放し、神の国へ導く救い主として、父なる神とわたしたちに仕えるためにエルサレムへ入城され、贖いの供ものとしてその命をささげてくださいました。武力によってもたらされる平和は長続きしません。憎しみの連鎖を生み出します。そうではなく、神の愛・憐れみによってもたらされる神様との和解、真の平和を与えるために、イエス様はろばの子に乗って、エルサレムへ入城されたのです。
イエス様の弟子たちは、イエス様のエルサレム入城の真の目的を理解していませんでしたから、これまでの3年間で体験してきたイエス様の数々の奇跡を振り返りながら、ローマからイスラエルを解放するヒーローがいよいよエルサレムに入られると思い込み、嬉しさのあまりはしゃぎすぎました。「声高らかに神を賛美し始めた」と37節にあります。
詩編118編23〜25節にあるように、「これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び踊ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」と叫びます。この「どうか主よ、わたしたちに救いを」という言葉が「ホサナ」です。
そのはしゃぎ様を見ていたファリサイ派の人々が腹を立ててイエス様に言い寄ります。彼らは弟子たちの行為は、神を冒涜することと考え、どうしても見過ごすことはできなかったのです。39節で、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言います。それに応答する形で、イエス様は「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」と言われます。「石が叫びだす」という言葉の真意は、いったい何でしょうか。
1)この人たちの叫びを誰も止めることはできないという意味で捉えることができますし、2)たとえ力によって人々を制止させ、沈黙させても今度は石が人に代わって叫び出す、つまり、いかなる権力を用いても神の御業を覆い隠すことも、沈黙させることも、押しとどめることもできないという意味で捉えることもできます。
また、3)神の真理は決して隠しておくことはできない。弟子たちがイエスの真理について沈黙すれば、普通は沈黙しているはずの石が彼らに代わって叫び出す。真理を沈黙させようとしても、真理は必ず明らかにされるという意味でも捉えることができます。
弟子たちが黙るとは、キリスト教会が誕生してからの新約の時代に、厳しい迫害を経験する期間であるかもしれません。しかし、それでも神様を賛美し、イエス・キリストの十字架と復活の福音宣教は終わらない。何故か。神様の御業であるからです。
この「叫びだす石」は、道に転がっているただの石ですが、石ころでさえ叫び出す時が来るのです。いえ、もうすでにきているのです。ある牧師がこのように語られました。「森林を切り過ぎると山が叫び出し、海を汚染すると海の生き物たちが叫び出し、化石燃料を湯水のごとく使うと大気が叫び出す。それらが気候変動、温暖化を生み出し、異常気象や災害となり、日ごろ声を出さずにじっと忍耐しているものたちがしびれを切らして叫び出す」と。これらの叫びは苦しみからくる叫びですので、弟子たちの主への賛美という観点から少しずれているかもしれませんが、ある意味、真実だと思います。
44節の「お前の中の石を残らず崩してしまうだろう」の石は、ファリサイ派の人たち、イエス様を救い主と受け入れることができず、イエス様を十字架に架けてしまったユダヤ社会指導者たちと「イエスを十字架につけろ!」と叫んだ群衆の「心の頑なさ」を表していると考えられます。ですので、二つの「石」は、全く違う石と捉えることができます。
「石」に関してもう一つ言えば、先ほど紹介しました詩編118編22節に「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」ということに関連します。使徒言行録4章11節にもありますが、本来、神の家を建てるべきユダヤ人たちが拒絶し、エルサレムの外に捨てたメシア・イエス様が神の家の隅の親石となり、イエス様を救い主と信じる者たちが集められて「教会」という神の家・神の家族が形成されてゆく、そこに神様の御心があり、驚くべき神様の救いの御業がなされて行くことを覚えたいと思います。
さて、エルサレムに入城されたイエス様が最初になされたことは「宮清め」でした。45節と46節に、「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。『こう書いてある。「わたしの家は、祈りの家でなければならない。」 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした』 」とあります。これはどういう意味でしょうか。
日本の寺や神社の境内でも祭りが催され、商売がなされると同様に、エルサレム神殿の境内でも商売をする慣習がありました。パレスチナ以外の外国から来る巡礼者たちは、傷のない動物のいけにえを現地調達するため、境内で商売をする商人たちから高額で購入しました。また、ローマ通貨など異国の通貨は汚れているとし、献金用にユダヤ通貨に両替しなければならず、高額な手数料も要求し、礼拝者たちの弱みにつけ込んでいたのです。
神殿で神に仕える祭司たちは、巡礼者からぼったくっていた商人たちから収益の一部をもらっていたのです。ですから、イエス様はそういう商人たちを神殿から追い出し、「わたしの家は、祈りの家でなければならない」とイザヤ書56章7節を引用したり、「ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」とエレミヤ書7章11節を引用するのです。
イエス様が宮清めをされた目的は、神に仕える祭司たちを厳しく咎め、商売をする欲望に満ちた人たちを神殿から追い出すためだけではありませんでした。真心の伴わない礼拝、ささげものをしている巡礼者・信仰者の信仰のなさを嘆き、その間違いを指摘する意味でそうされたのです。
それでは、信仰者たちの間違いとは何でしょうか。それは、巡礼、礼拝、ささげもの、それらが形骸化してしまい、ある種の儀式、ただのパフォーマンスになっていた。自分が何か行えば神の国に入れるだろうと傲慢にも思い、礼拝が願掛けやまじないのようになっていたのです。神様は、そのような自己愛に満ちた礼拝、ささげものを喜ばれません。
詩編40編7節(p873)に、「(主よ、)あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いてくださいました」とあります。神様がわたしたちの耳を開かれるのは、わたしたちが神様の声、神様からの語りかけを聴くためです。それが御心なのです。ですから、祈ること、ただ単に自分の願いや気持ちを一方的に神様に伝えるような祈りではなく、神様からの語りかけを聴く、そのような心の姿勢を神様はわたしたちに求めておられると理解できると思います。
サムエル記上の15章22節(p452)に、「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」とあります。祈りと同じく大切なのは、神の言葉であるイエス・キリストに聴くことです。イエス様の言葉に、神様の思い、願い、計画、生きる力があるからです。
ルカ19章に戻ります。47節に、「毎日、イエスは境内で教えておられた」とあります。イエス様はエルサレムに入城されてから、月曜から捕えられる木曜日まで、休むことなく神殿の境内で人々に神の御心を教えられました。それとは裏腹に、「祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった」とあります。「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである」とあります。
ここにわたしたちのなすべき御心が明記されているのではないでしょうか。すなわち、毎日聖書を読み、イエス・キリストを通して語られる神様の言葉を夢中になって聴く、集中して読む時間を日々聖別してゆくことが大切であるということ。そのことなしに神様の求めておられる礼拝、賛美、ささげものをもって神様の栄光を表すことも、イエス様が救い主であることを日々証しし、イエス様への信仰を人々に告白することもできないのではないでしょうか。
あと数日に迫るご自身の受難・十字架の死に向かって歩んでゆく中で、イエス様はそれでも神様の愛を人々に教え続けられました。このイエス様を信じるわたしたちは、主のために日々何をなすべきでしょうか。常に自分に問うていかなければならないことの答えは、聖書に、イエス様の口から出た御言葉・教えにあるのです。