ルカ(102) 権威について問答するイエス

ルカによる福音書20章1〜8節

ルカ福音書も20章に入り、イエス様の十字架もすぐそこまで来ています。今回のお話は19章の続きとなります。前回ご一緒に聴いた19章45節から46節には、イエス様がエルサレムに入城されて最初に取り組まれたことが記されていました。

 

すなわち、神殿で高い値段で羊や鳩を売ったり、不当に高い両替手数料を取るなどしていた商売人たちに対して、「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」と言って境内から追い出しました。これがいわゆるイエス・キリストによる「宮きよめ」です。これによって、イエス様は多くの敵を作ったと思われます。

 

さて、19章に記されているイエス様のエルサレムご入城と宮きよめの出来事の後、20章と続く21章に記録されている内容は、神殿での出来事になります。それを裏付ける形で、19章47節に「毎日、イエスは境内で教えておられた。」とあり、48節に「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていた。」とあります。

 

そして21章の最後の部分、37節から38節には、「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って、『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。」とあって、20章と21章をサンドイッチのようにきれいにはさみ込む形となっています。これも記者ルカのテクニックです。

 

さて、19章48節、今回の20章1節、そして21章38節には「民衆」という共通した言葉があります。ルカ福音書ではとても大切な言葉です。この「民衆」と「群衆」を記者ルカが明確に使い分けていることを以前にもお話ししましたが、「群衆」はただ単に興味本位で、イエス様のなさる奇跡等などをエンターテイメントのように見て、喜ぶだけの人たちで、それ以上でも、それ以下でもありません。

 

しかし「民衆」とは、イエス様とイエス様の教えに非常に好意的な人たちです。民衆は、「イエス様の人柄は本当に素晴らしいし、お話の内容も心にグッと迫ってくる、非常に『為になる』ものばかり、もっと聴いていたい」と思って熱心に境内に通ってイエス様に耳を傾けていたことでしょう。イエス様は、そのような人たちの存在と熱心さを喜ぶと同時に、その人たちがイエス様を救い主と信じて従う人になって欲しいと願いつつ、毎晩オリーブ山で祈る時に、父なる神様に祈っておられたのではないかとも思います。

 

そのような民衆が熱心にイエス様の語られる教えに耳を傾けますが、イエス様のことを憎む人たちが確かに存在します。20章1節に、「ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来た」と記されています。

 

イエス様がエルサレムに入られた直後に取り組んだことの二つ目は、神殿の境内で人々に福音を語られ、神様の愛を分かち合われたということです。神殿は、祈りの場所であり、御言葉をじっくり聴く場所、そういう場所をイエス様は取り戻したかったのでしょう。今日においては、教会が神殿の代わりとなり、御言葉を共に聴き、共に祈る所であります。

 

イエス様が神について、福音を民衆に語っている最中に、「祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来た」とあります。彼らは、19章47節によりますと、「イエスを殺そうと謀っている」人たちです。

 

19章までは、「ファリサイ派の人々」がイエス様に敵対心を顕にしていましたが、20章以降、「ファリサイ派の人々」はまったく出て来ませんで、ここからは「祭司長、律法学者たち、長老たち」がイエス様に敵対心を顕にする存在となります。

 

その彼らが、2節で、イエス様に、「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」と質問します。「このようなこと」とありますが、これはイエス様が商売人たちを境内から「追い出した事」とイエス様が境内で「人々に教えている事」を指しています。

 

彼らの質問は二つです。一つは、「何の権威でこのようなことをしているのか」。もう一つは、「その権威を与えたのはだれか」というものです。この二つに共通するのは「権威」でありますので、まず「権威」とは何かを把握する必要があるかと思います。英語では、Authorityになります。

 

辞書には、「他人を強制し服従される威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的また法的威力」とあります。この「権威」という言葉そのものが「その道で第一人者と認められている人・大家」というように用いられますが、祭司長たちの「権威を与えたのは誰か」という問いに対する正確な答えは、「イスラエルの神」となりますが、救いへの道へと導くのは、神から地上に派遣された救い主イエス・キリストです。

 

さて、権威は、その使い方によって、間違った権威と正しい権威があるかと思います。権威の性質上、その中間はないと思います。間違った権威とは、権力・武力・暴力によって人々を強制的に従わせる事です。また、自分たちの名誉や地位や欲望のために不当な力を行使することです。祭司長たちは、神ではなく、自分たちが神殿での「権威」と思い込み、勘違いしていたのでしょう。神殿で神に仕えるはずの祭司たちによってそういう間違った権威が蔓延し、強盗と同じようなことを彼らがしていたので、彼らに対して「強盗の巣にした」とイエス様はおっしゃったのだと思います。

 

それでは正しい権威とは、何でしょうか。赤木善光というホーリネス教会の牧師は、「信仰と権威」という本の中で、権威とは「説得力があること、信頼性があること、模範であること、威厳があること」と説明し、さらに「自由な思いで、自発的な意見で従おうと感じさせる力が権威である」と言っています。この定義・説明にピッタリ合うのが、イエス・キリストです。

 

しかし、祭司長たちはイエス様を決して受け入れません。拒絶し続けます。何故でしょうか。理由は、端的に二つです。一つは、自分たちは絶対であり、権威であり、間違っていないと思い込んでいたからです。もう一つはプライドが高すぎて、謙遜になれなかったからです。

 

そういう人たちに対してイエス様は反問します。反問とは、質問された相手に、逆に問い返すことです。3節と4節にこうあります、「イエスはお答えになった。『では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。 ヨハネのバプテスマは、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。』 」と。

 

この反問に対して、5節から7節で、「彼ら(祭司長たち)は相談した。『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と言うだろう。「人からのものだ」と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。』そこで彼らは、『どこからか、分からない』と答えた。」とあります。

 

なぜここでイエス様がバプテスマのヨハネを引き合いに出すのかという理由は、二つあります。一つ目は、イスラエルの民の多くはヨハネを神から遣わされた預言者だと思っていましたし、彼の勧める悔い改めのバプテスマを信じていました。ヨハネは人々から信頼されていたのです。

 

しかし、祭司長たちはヨハネを憎んでいました。自分たちのことを「まむしの子」と呼び、口先だけで律法を守っていると痛烈に批判するばかりであったからです。バプテスマのヨハネを神から来た者ではなく、人から来た者と答えると群衆の怒りに触れることになり、自分たちの権威・権力が弱くなります。

 

もう一つの理由は、ヨハネとそのバプテスマの権威の由来が天からであるとする時、そのヨハネ自身が生前、イエス様のことを「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」(ルカ3章16節)と言われました。

 

ですので、バプテスマのヨハネを肯定することはイエス様を肯定することになり、それは自分たちの権威を地に落とすことになりかねないと考えたのでしょう。ですから、自分たちの立場と力を固持するために、「どこからか、分からない」と答えて、イエス様の質問をはぐらかします。

 

はぐらかされたイエス様も、祭司長たちの意図を見抜き、彼らの不誠実さに対して、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と答えます。

 

イエス様は、愛と忍耐のある誠実なお方です。しかし、不誠実な人たちの質問には答えません。その質問は無意味であるからです。イエス様は、誠実な人には誠実に応えられます。謙遜な人には優しく接します。自分の間違いを認め、救いを求めて来る人には赦しと救いをお与えになります。

 

イエス様には、わたしたちの罪・間違いをすべて赦し、救いを与える権威があります。その権威は、父なる神から与えられたものであって、イエス様からイエス様を救い主と信じ従う者たちに託されている力・権威です。その力とは、すなわち、赤木牧師が言われる「説得力があること、信頼性があること、模範であること、威厳があること」だと思います。しかし、わたしたちは、「自分にはそのような説得力も、信頼性も、模範になる力も、ましてや威厳など微塵もない」と思い、尻込みしてしまうでしょう。

 

しかし、それがわたしたちにとって大事な出発点であると思います。自分には誇れるものはない、誇れる力などないと感じる時に初めて、「しかし、それでも、そのようなわたしを神様は愛してくださっている。わたしは神様に愛されている」という神様の確かな愛を体験することができます。

 

その愛を、心を開いて受け取り、その愛を信じる時、聖霊という神がわたしたちの内に宿り、わたしたちを造り変え、神様の力を注いでくださるのです。生きる力の出発点は、わたしたちではなく、命を与え、憐れみの中で生かしてくださる神様であり、イエス・キリストの十字架と復活です。この生きる力をわたしたちに与えるために、イエス様は、20章以降で、十字架の道を歩まれ、歩んでくださったのです。