ルカ(106) 「ダビデの子」について問いかけるイエス

ルカによる福音書20章41〜47節

今回は、41節から44節に記されている「ダビデの子についての問答」と、45節から47節に記されている「律法学者に気をつけよ」とイエス様が弟子たちに警告している箇所を聞いて、ルカによる福音書の20章の学びを終えたいと思います。

 

41節に、「イエスは彼らに言われた」とありますが、「彼ら」とは、20章でイエス様の前に人束になって現れた祭司長、律法学者たち、長老たち、人の復活を認めるファリサイ派の人々、復活を認めないサドカイ派の人々です。彼らは、聖書理解などお互いに相容れない部分があっても、イエス様をユダヤ社会の危険人物と見なし、排除するために結託している人たちです。

 

この「彼ら」は、イエスを殺すことを謀り、総督に訴える口実を作るために、無理難題を何度もイエス様に問いかけます。20章2節では、神殿で人々に教えるイエス様に対して、「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのは誰か」と尋ねます。卑怯で姑息な彼らは、20節から22節では、「正しい人を装う回し者たちを遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡すために、イエスに『先生、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか』」と尋ねさせます。

 

前回聴いた27節から40節では、人の復活を完全否定するサドカイ派の人々が自分たちの信念・信仰上のプライドを捨ててまで、イエス様に「七人の夫を持って死んだ女は、復活の時、誰の妻になるのでしょうか」と、まったくもって、論外な質問をするのです。「悪の力」というのは、自分の信念をも曲げてしまう非常に強い不義の力です。

 

以上のように、主に対して悪意を持つ者たちがこれまでイエス様に問いかけてきましたが、今回の箇所(41節〜44節)では、イエス様がそれらの人々に問いかけてゆきます。このイエス様の問いかけは、ユダヤ人たちの歴史観・信仰に関わる非常に高度なレベルですので理解するのは大変ですが、できるだけ分かりやすくお話しするようにいたします。

 

まず41節から44節を読んでみたいと思います。「41イエスは彼らに言われた。『どうして人々は、「メシアはダビデの子だ」と言うのか。42ダビデ自身が詩編の中で言っている。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。43わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで』と。」44このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。』」 とあります。

 

41節に「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」というイエス様の問いかけがあります。これは、「どういう意味で『メシアはダビデの子だ』とあなたがたは言うのか」ということだと思いますが、もっと大胆にイエス様の問いかけを他の言葉でリフレイズすると、「何故あなたがた祭司長や律法学者たちは、口をそろえて、『救い主はダビデの家系から出る』と決めつけているのか」ということになると思います。

 

この「ダビデの子」というのは、ユダヤ社会におけるメシアの称号ですが、祭司長や律法学者たちに対して、「あなたがたの『ダビデの子』の定義は何ですか」、「何故メシアはダビデの家系から出ると結論付けているのですか。根拠は何か」という問いにも聞こえ、あたかも、それはあり得ないとイエス様が言っているようにも聞こえてきます。しかし、本当のところはどうなのでしょうか。

 

イエス様は、このように尋ねることによって、祭司長やファリサイ派の人々、民の指導者である長老たちの固定観念をここで覆そうとしているようです。それはつまり、今日を生かされているわたしたちが持っている固定観念をも壊し、真の信仰を与えようとしておられるようにも聞こえてきます。

 

さて、ユダヤ人/イスラエル人は、異民族(アッシリア帝国とバビロニア帝国)の支配を受けるようになってから、ダビデの子孫から理想とする王・メシアが現れてイスラエルに勝利と自由を与えることを強く待望するようになりました。そのような苦しみの支配から解放してくれるメシアが与えられるとの神様の約束は旧約の時代からありました(参照:2サムエル7:11-13、イザヤ9:5-6、エゼキエル34:23-24)。

 

イエス様が歩まれた新約の時代のユダヤ社会は、ローマ帝国に支配されており、この支配から解放してくれるメシア・ダビデの子の到来を人々は求めていました。しかし、彼らが切に求めていたのは、武力によって異邦人を追い払い、イスラエルに勝利と解放・自由を与えるメシア、つまり軍事的・政治的・民族的な指導者でした。それは、まさしく百戦錬磨の強者(つわもの)、全戦全勝のダビデ王のようなメシアであったのです。

 

けれども、神様には他の考え(御心)、ご計画がありました。そして父なる神様からこの世にメシアとして派遣されたイエス様には、人々が期待した解放・自由ではなくて、もっと違った次元の使命・ミッションがありました。それは武力による一時的な解放ではなく、わたしたちを罪からの救い、死と滅びからの解放、恐れからの解放、神様に人々を再びつなげて、御心に沿った真の平和と希望を与えるミッションです。

 

イエス様は、ここで詩編110編1節を引用します。「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで』と。」 となっていますが、オリジナルは「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』です。

 

イエス様がここで言う「主」とは神様のことです。次の「わたしの主」とは「ダビデの主」と言う意味で、「メシア・救い主」を指します。「わたしの右の座に着きなさい」とは、王位に着くということです。「わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで」とは、神様が敵を屈服させる時までという意味です。イエス様は、詩編の作者であるダビデ自身がメシアを「主」と呼んでいるのだから、「メシアがダビデの子(子孫)だ」というのは本末転倒だというのです。

 

ここでイエス様が言わんとしていることを完全に理解するためには、イエス様がルカ福音書20章で引用する詩編110編1節を、イエス様は全く別の次元の意味で使っていると捉えなければ納得できません。理解するのは不可能です。ここでイエス様が言わんとしているのは、神様がイエス様をこの世に遣わされたのは、この世の人々を罪と死の恐れから解放する事であって、ローマの支配からの解放・自由ではありません。わたしたちの罪の代償を支払い、その罪のしがらみから解放するために、イエス様は十字架に架けられて「贖いの死」を遂げられ、その命をわたしたちの救いのためにささげてくださったのです。

 

わたしたちの罪の代価は、この神の子イエス・キリストの命・犠牲によって帳消しになりましたが、それだけでは完全な救いではありませんでした。人類の最後の敵である「死」から解放し、神の国へと招き、永遠の命を与えるドアを開かなければなりません。そのドアを開く御業を神様がなさったのです。その御業とは、贖いの死を遂げられて墓に葬られたイエス様を三日目に甦らせるということ、イエス様の復活です。イエス様の十字架の死と三日後のご復活は、表裏一体です。イエス様の贖いの死とその死に完全に勝利する復活があって、この二つが合わさって初めて、神様の救いの御業は完成するのです。

 

ローマの信徒への手紙1章3〜4節(p273)で、使徒パウロは「御子(イエス)は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」と告白しています。ここでパウロは、「死者の中からの復活によって(イエス様は)力ある神の子と定められた」と言っています。これはとても重要な言葉だと思います。

 

十字架の死に至るまで従順であられた御子イエス様を父なる神様が甦らせたことによって、救いの業は完成し、イエス様の神の子・メシアの称号を完全なものにされたのです。ユダヤ人たちが求めていたのはローマの支配からの解放でしたが、神様が憐れみをもって与えられたのは罪と死・滅びからの救い・解放であったのです。ユダヤ人たちは彼らの固定観念を捨て去り、イエス様をメシアと受け入れ、信じなければ、真の救いと平和はないのです。それは、わたしたちも同様です。イエス様を救い主・メシアと信じるように招かれているのです。

 

最後に45節から47節に注目しましょう。45節に「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた」とありますが、イエス様は民衆の前で弟子たちに謙遜に生きること、どのような人々に対してもいつも誠実に向き合い、仕えて生きることが神様の御心であり、イエス様の願いであるとここで教えます。

 

46節で、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む」と言われます。ルカは、すでに11章37節から54節で、律法学者たちとファリサイ派の人たちへのイエス様の非難を記していますが、今回の箇所で弟子たちに向けて彼らと同じようになってはならないと警告しています。

 

イエス様の十字架と復活、そして昇天の後に弟子たちの上に聖霊が降り、教会が誕生し、イエス様の福音を全世界へ宣べ伝える働きが委ねられてゆきますが、イエス様が健在な内から「誰がイエス様の一番弟子か、誰が最も愛され、信頼されているか」と競っていた傲慢さがありましたので、それに釘を刺し、イエス様のように誰に対しても謙遜に仕えなさいと励まそうとしています。

 

民衆の前でそう言われたのは、良い意味で弟子たちにプレッシャーをかけることがあったと思いますが、同時に、民衆に対しても、弟子たちが傲慢にならないように彼らを見守ってほしいという気持ちがあったのかもしれません。イエス様を救い主と信じ、従う者は、神様の憐れみと慈しみの前に、常に謙遜でなければなりません。傲慢であると、「人一倍厳しい裁きを神様から受けることになる」と主は最後に教えられます。