ルカによる福音書21章1〜4節
今回からルカ福音書の学びは21章に入ります。イエス様の十字架に至る受難も、すぐそこまで来ています。地上でのご自分の命に限りがあることを最も強く理解され、しかしそれでもなお、父なる神様に信頼を置かれ、その来たるべき苦しみの時をすべて受け入れておられる主イエス様がおられます。そのイエス様の口から出る一つ一つの言葉に対して、わたしたちも真剣に耳を傾け、しっかりと聴いてゆくことが求められていると思います。
さて、今回の箇所はとても短い箇所ですが、イエス様を救い主と信じる者に対して、非常に重要なことが記されています。テーマは「献金」です。「献金」と聞くと、数年前の首相暗殺事件から某新興宗教団体がフォーカスされ、献金に関して社会に与えた悪いイメージが付きまとい、「正当なキリスト教会でさえもみな同じか」と社会全体から思われていることに悔しい思いにさせられますが、この箇所でイエス様がわたしたちに問われているのは、献金ということだけではなく、わたしたちの生き方、わたしたちがいったい何を大切にして、優先させて生きているかということです。
イエス様がここで弟子たちに教えておられるのは、わたしたちが神様の御前で日々どのように生きるべきか、何を大切にして生きるべきかという内容です。もう少し違った言い方をしますと、今回のテーマは、お金をささげるということではなく、わたしたち自身を神様にささげて生きること、「献身」です。献身と聞くと、仏教でいう「出家」とか、カトリック教会でいう「修道院生活」と思われがちですが、ここでイエス様が集中されているのは、わたしたちの心の在り方であり、真心を神様におささげするということです。
さて、これまでの学びは、ルカによる福音書だけに集中したかったので、イエス様の歩みの共通した内容や流れを記録している「共観福音書」と呼ばれているマタイとマルコによる福音書を参照することをあえて控えてきましたが、今回の箇所は、マルコ福音書12章41節から44節と共通し、マルコのほうがより詳しく記録されていますので、今回は特例として参考にしてゆきたいと考えています。
ちなみに、共観福音書の「共観」とは、「共通の理解として共に見る」という意味です。ヨハネによる福音書は、その内容も、流れも異なった視点から記録されていますので、「共観福音書」には加えられていません。
それでは、まずマルコ福音書12章(p88)の記録を読みたいと思います。「41イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。42ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。43イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。44皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。』」とあります。
前回の学びの中では、イエス様が律法学者たちを厳しく非難した箇所を聴きましたが、20章46節と47節で、イエス様は弟子たちにこのように言われました。「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」と言われ、彼らのように傲慢にならないように気をつけなさいと弟子たちに教えられました。律法学者たちは煌びやかな長い衣をまとい、人々の前や群衆が集まる広場で闊歩していた様子を想像してみたいと思います。
20章の箇所と今回の21章1節から4節の内容で共通するのは、「やもめ」という言葉です。ここで、なぜイエス様はその女性をやもめだと分かったのか、と不思議に思われるかもしれませんが、つい数日前に夫を亡くした女性が、痛みや悲しみの中で、喪服を着て神殿の境内にいたので、彼女がやもめと分かったと想像します。煌びやかな服装で群衆の前を歩く律法学者たちと夫の死を悼む喪服の女性とのコントラストを想像してみましょう。
さて、イエス様はここで、律法学者たちが「やもめの家を食い物に」していると彼らの大きな罪を指摘しています。ここに「やもめの家」とあります。つまり、夫を失った女性とその家族(子どもや義父母など)を律法学者たちが食い物にしていたというのです。それでは、「食い物にする」とはいったいどういうことかと言いますと、主人を失った時に法律に関する相続などの相談で、法外な相談料をむしり取っていた、お金を取れるところからはお金をすべて取るという悪徳行為をしていたということのようです。
ユダヤ歴史家のヨセフスの「ユダヤ人古代史」という本に、以下のような話が記録されています。「律法違反の罪で告訴され、祖国から追放されていた男がいた。彼はあらゆる点で邪悪な男で、当時ローマに住んでモーセの律法の知恵を人に教えることを職としていたが、この男が仲間と結託して、身分の高いユダヤ教徒のフルヴィアという女性を説き伏せ、エルサレム神殿へ紫布と黄金を寄付させ、それを手にすると自分のために用いて、その金を自分たちで使ってしまった。そもそも初めから、彼らが彼女に勧めたのは、このためであった」とあります。
弱い立場の女性や寡婦たちを助けなければならない立場の人たちが、平気で騙す者たちになっており、そのような悪人がその時代にも多く存在していたこと、さらに神に仕える律法学者や宗教家(ファリサイ派)という立場を利用して詐欺をする人々が多くいたことを示しています。隠れたところで成していると思っていても、イエス様にはすべてお見通しであることを、わたしたちも決して忘れてはなりません。もしそのような不正・罪を犯すならば、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」とのイエス様の言葉があることを心に刻む必要があり、神様を畏れて、罪から離れる必要があります。
さて、1節と2節に「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見た」とあります。まず「賽銭箱」ですが、エルサレム神殿の中は、まず異邦人でも入れる「広場」があり、その奥にユダヤ人女性だけが入る「婦人の庭」があり、その奥にユダヤ教徒の男性だけが入れる庭があり、その奥には祭司たちだけが入れる「聖所」、そして祭司の中から特別に選ばれた祭司だけが入れる「至聖所」がありましたが、献金箱は「婦人の庭」に13個設置されていたとの記録が残されています。
賽銭箱の形状は、ベルと呼ばれるトランペットを音の出る大きな皿のような方を上にして、マウスピースから息を吹き込む部分を下にして立てたような形の下に箱があったそうで、そこには願い事の内容を示す札があり、例えば、それぞれの箱は家内安全、商売繁盛、無病息災、安産など特定の願い事のためのいわゆる指定献金をささげる箱があったそうです。賽銭箱の隣には、神殿を管理する祭司が立っていて、この人に自分の名前と献金額を申告してから、ベルの部分に硬貨を投げ入れて献金をしました。
この箇所に出てくる金持ちたちは、銀貨などをたくさん投げ入れることで大きな音が鳴り響きますので、たくさん献金したというパフォーマンスをして、周囲の人々の関心を得ようとしたようです。しかし、「貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのをイエス様は見ておられた」と記されています。非常に貧しい女性、夫を失った女性、養うべき家族がいる女性が、神様にレプトン銅貨二枚をささげたのです。
「レプトン」は、ギリシャ銅貨の中で最小額の硬貨で、「薄っぺらな」という意味があるそうです。それを聞くだけでもどれだけ少額であったか想像がつきますが、敢えて言うならば、一レプトンは、一デナリの130分の1の価値で、一デナリは労働者一日分の賃金と言われていますので、一日分の給与の130分の1という計算になります。例えば、賃金として一日1万円を貰えたと仮定して計算すると、一レプトンで77円ぐらい、レプトン二枚で約154円ぐらいです。
豪快に何万円も献金する金持ちたちと僅か150円ほどを献金するやもめをご覧になられたイエス様は、何をご覧になられていたのでしょうか。そしてその後、弟子たちに何と言われ、何を教えようとされたのでしょうか。イエス様は、ここで献金額ではなく、ささげる人の神様に対する信仰の姿勢、その人が神様に対してどのように生きているのかをご覧になって、神様に対する真の生き方を弟子たちに正確に教えようとされているのです。
それでは3節と4節を読みましょう。主は「言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。』」とあります。「確かに言っておく」とは、確信的なことを言うという意味ですが、貧しいやもめは神様の前に誰よりもたくさんの献金をささげましたが、金持ちたちは、有り余るお金の中からわずか一部分を神様の前にささげたとイエス様は弟子たちに言われます。
金持ちたちの手元にはまだ多くの富があるが、貧しいやもめの手元には何もない。それは、神様にどれだけ信頼しているかの指数になります。つまり、すべてをささげることは、すべてを神様に委ねる、信頼して生きてゆくと言う証です。手元にお金があることは、神様に委ねるよりも、お金の力に信頼して生きていることの証です。貧しいやもめは、お金に信頼をおかず、神様を畏れ敬い、神様にだけ信頼していることをイエス様はご覧になられて、彼女の神様への心の姿勢、その真摯な生き方をほめられるのです。神様への信頼なしに、生活費全部を献金することはできないからです。
イエス様は、わたしたちに対して、このやもめと同じようにすべてを神様にささげなさいと強要しているのではありません。神様の愛と憐れみに生かされていることを喜び、その感謝の心をささげ、どれだけ人の力や富にではなく、神様に信頼して生きているかを見せなさい。律法学者たちのように、傲慢で、貪欲な者になって厳しい裁きを受けてはいけないと愛をもって教えてくださるのです。最善の心を神様にささげてまいりましょう。